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M007. 【哲学・本】語りえぬものを語る

 「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本について書き留めるnoteの【6回目】です。
 今回は日本の哲学者、野矢茂樹 氏の本を読みました。

野矢茂樹・著『語りえぬものを語る』(2011年 講談社)。2020年に発行されたKindle版の方も読みました。

 本書はもともと2011年に発行されたものですが、なんと積読しているうちに、昨年、文庫版とKindle版が新たに発行されてしまいました…。2020年版には、ウィトゲンシュタイン解説本も執筆されている古田徹也 氏の解説付きです。

まず一般的なレビュー

 本書は幾人かの現代哲学者の考えを引用しつつ、著者の見る“哲学的風景”を読者に伝えようとする本です。執筆時点で著者は自らの哲学を完成(?)させておらず、「私はこう考えたいと思っているが、まだ見通しきれていない」といった表現が多く見られます。哲学者の思考を辿れて面白い本でした。

 本書単体で読んでも面白いですが、タイトルから明らかなようにウィトゲンシュタインの哲学についての議論を背景としているので、その辺りを多少理解していると、より楽しめます。
 以前の記事でも取り上げましたが、前期ウィトゲンシュタインの『論考』には「語りえないことについては、沈黙しなければならない」という言葉があります。言語の性質について突き詰めて考えていくと、どうしても言語では表現できないものがあることが分かってくる。しかし、時に人は言語で表現できないはずのものについて、あれこれ語り出してしまう。そもそも言語で表現できないはずなのだから、語ったところでそれは無意味な問答になってしまう。しかしそうなると、「言語で表現しきれないものがある」ということを言語で綴る『論考』自体も、無意味な問答ではないか? 確かにそれはそうで、『論考』自体の役割は「言語で表現しきれないものがある」ということを読者に示唆することであり、役割を終えたら捨て去られてよいものなのだ。
 というのが『論考』についての「昇りきった後に投げ捨てなければいけない梯子」としての解釈でした。

 これに抗して本書は、何とかして「言語で表現しきれないものがある」ことを明言しようと、様々な観点から語り尽くそうとします。まさにタイトルのとおり、「語りえぬものを語る」わけですね。

 基本的には、言語を通じた現実の認識の仕方について思索されていて、【相貌】という見方を中心に、【行為空間】という考え方、【概念】について、【自由】について、【真理の相対主義】について、など、多岐の話題に触れられています。相貌は、前回の記事で触れた【アスペクト】の和訳にあたる語彙で、著者は相貌をかなり重視して、現実の認識の仕方について論じています。

分類体系の相対主義に立ちたい

 本の序盤から出てくる話題に「相対主義」がありました。たぶん僕は分類体系について相対主義に立ちたいのだと思います。

 相対主義は、絶対主義と対置される考え方。絶対主義は、個人や文化に依らず絶対的なものがあるという考え方です。相対主義はそう考えません。

 食後にげっぷをするのは正しいマナーなのか。
「文化による」というのが、冷静な答えだろう。欧米は日本よりもげっぷに対してより厳しい態度をとる(おならより下品)というし、あるいはアラブ諸国ではむしろ食後のげっぷが礼儀だなんてことも(ほんとかな)聞く。
 マナーは、だから、おそらく誰もが相対主義を認める一方の極だろう。逆に、相対主義が認められがたい反対側の極は何かと言えば、「真理」である。「真理」という言葉は、それを共有しない者は教育せねばならぬ、教育もできない蒙昧の輩は排除せねばならぬといった、きわめて権力的な臭いを発散させているように、私には思われる。
 そこで、真理に対してはむしろ絶対主義的立場をとる人の方が多数派となるだろう。だがそれでも、真理に対して相対主義に立ちたいと考える人たちもいる(前回述べたように、私はその一人だ)。では、真理もまた、マナーと同様に、「郷に従う」べきものなのだろうか。例えば、「人間には非物質的な霊魂が宿っている」という主張は、現代のわれわれには虚偽とされるだろうが、絶対的に虚偽なのか、それとも、ある文化にとっては真理でありうるのか。

出典:野矢茂樹・著『語りえぬものを語る』(2020年 講談社)

 真理についての相対主義なんてありえるのでしょうか? この本の中でもあれこれ議論されているのですが、僕は少し言葉尻の方で引っかかるところを感じます。というのも、そもそも【真理】という言葉は絶対主義に立ったときに使う言葉であると思うのです。人にも土地にも時代にも文化にも左右されずに、この現実世界の中においてなら、絶対成り立つ事柄。これを【真理】と呼ぶような気がするのです。絶対主義者の世界観で捉えられるもののことを【真理】と呼ぶなら、相対主義者は「真理も郷に従う」と言うより、「真理なんて無い」と言うべきかな、と…。

 まあ、真理と相対主義についての哲学的議論は、僕の興味の中心からは外れますので置いておいて、分類の話と関わるところを考えます。

 ミドリムシの分類についての僕の疑問の湧きどころを再確認すると、「ミドリムシは動物か?植物か?」と問う質問者に、回答者が「ミドリムシは動物でも植物でも無い」と答えることに対して、なんだか納得いかない、ということでした。

 たぶん僕はこの回答者に絶対主義を見ているのです。僕は相対主義に立ちたいから、納得いかない。

 分類についての絶対主義者は、絶対に正しい分類体系があると考えるでしょう。質問者の想定する分類体系は、生物を「動物」「植物」の二者択一で分ける体系です。回答者の想定する分類体系は質問者のものと異なり、「動物でも植物でもない」という選択肢を含みます。回答者はおそらく自身の想定する分類体系が、【絶対に正しい分類】であるか、それに近しいものだと考えているでしょう。

 だから、回答者は質問者の信じる分類体系を訂正するような回答をします。他人の主張を誤りであるとして、訂正を迫るという行為は、絶対主義に特徴的な行動だと思います。相対主義であれば、「どんな分類の仕方を採用しても良いよ」と言うでしょう。

 では相対主義者は他人に訂正を要求することが皆無か、というと、そうでもありません。本の中では「肉食系相対主義」という表現が使われているのですが、自らと異なる主張が正しい可能性を認めながらも、自らと同じ主張をする人を増やすために、積極的に行動する気質の相対主義者がいるというのです。

 真理に関する相対主義にも肉食系はいる。例えばある人が「写真に撮られると寿命が縮まる」と信じているとしよう。ただしこんどはその人は相対主義者としてそう信じているとする。相対主義であるから、自分の考えが絶対的に正しいと考えているわけではない。しかし、自分と同じ考えの人が増えることを望み、「写真に撮られても寿命は縮まらない」と考えている人たちに対してその考えを改めるように働きかけるかもしれない。それはちょうど、あるタイプの宗教家の態度と同じであると言えるだろう。その宗教家は、自分の信じている宗教が絶対的に正しいとは信じていない。どんな宗教もその信仰の内部にいるものにとっては正しい。その意味ですべての宗教は対等である。しかし、そう考えていることと、自分の信じている宗教の信者を増やそうとして布教活動をすることは別である。同様に、「写真に撮られると寿命が縮まる」が真であると考えている肉食系の相対主義者は、それを真と信じている人の数を増やすべく、「布教活動」にいそしむだろう。実際、トマス・クーンのパラダイム論に基づく、いわゆる「クーン主義」が描く科学者像は、肉食系の相対主義であると言える。

出典:野矢茂樹・著『語りえぬものを語る』(2020年 講談社)

 僕はたぶん分類体系について草食系の相対主義者で、信じる分類体系が質問者と異なっていたとしても、訂正を迫ることのない回答者になりたい。
 では、「どんな分類の仕方を採用しても良いよ」と回答することで納得いくかというと、そうでもありません。これはこれで回答として不十分な気がしますね。僕が目指す回答は、「どんな分類の仕方を採用しても良いけど、僕は●●と思うよ。」ですね。
 ●●の部分の内実は…これから固めていきます…。

 ところで可能性として、質問者が絶対主義者であることもあり得ます。例えば、生物は「動物」と「植物」のどちらかに、絶対に分類される、と考えている可能性があります。このとき、僕が回答者であれば、絶対主義 vs 相対主義の議論をしないといけないかもしれません。生物を「動物」と「植物」のどちらかに分類する二者択一体系そのものについては、それが無矛盾で整合的に成り立つのであれば、問題無いと、僕には思えます。議論の余地があるとすれば、「相対主義に立つ以上、どんな荒唐無稽な分類の仕方も受け入れるというのか?」というところです。例えば、傷付いたときに可哀そうな生物が「動物」で、可哀そうでない生物が「植物」、という分類体系を提唱する人が居たとして、それはとても教科書や図鑑には採用されないでしょうけど、相対主義者たる僕は、そんな分類体系をも認めることができるのか…? ここについても、今後しっかりと考えておかないといけません。たぶん、そもそも分類とは何なのか? 何のためにあるのか?といった話になるでしょう…

 また僕としては逆の立場の人たち、分類体系についての絶対主義者の方は、なぜ信じている分類体系が絶対的に正しいと考えているのか、というところも気になります。正当な根拠の上で「ミドリムシは動物でも植物でも無い」と言っているのか…? それとも、根拠なんてどうでもいいと思っているのか…?

 気になることがたくさんありますが、ひとまず絶対主義/相対主義という見方を通して、自分の立場についての明確化が進んだ気がします。

古典的概念観とプロトタイプ

 【概念】とは何か、という話題が本の中で出てきます。そこで触れられる、【古典的概念観】と【プロトタイプ】という考え方は、分類について考える上でとても重要なものに思えます。

 例えば「鳥」という概念を考えよう。「鳥」という概念とは何か。これに対する一つの答えは、それは鳥たちの集合だというものである。「鳥」という概念を満たすものの集合は「鳥」の外延と言われる。あるいは、「鳥」の概念とは鳥たちの集合を規定するような諸特徴だという答え方もある。そのような、ある外延を規定する特徴は内包と言われる。このように外延や内包によって概念を捉えようとする考え方は、「古典的概念観」と呼べるだろう。

出典:野矢茂樹・著『語りえぬものを語る』(2020年 講談社)

 この古典的概念観は、以前の記事で扱った【家族的類似性】によって否定されていましたね。全てに共通な何事か(≒内包)が無くても概念は使用されるし、概念の境界(≒外延の境界)ははっきりしていなくても良いはずだ、ということでした。

 しかし家族的類似性の考え方のみでは、概念について、共通の性質も無くて良いし境界も明確でなくて良いとのことですから、概念の範囲が広がりすぎてしまって、あまりにも捉えどころが無さすぎる感じもします。概念というのは、確かにぼんやりしているかもしれないけど、何かまとまりのあるものという感じがします。プロトタイプの考え方は、そこを表してくれます。

 古典的概念観に従って「鳥」という概念を外延的に捉えるとき、その集合には「鳥」と呼ばれうるありとあらゆるものが属している。その中には、ダチョウやペンギンのような、いささか鳥らしからぬ鳥も含まれることになる。他方、「ああ人は昔々、鳥だったかもしれないね。こんなにも、こんなにも、空が恋しい」(中島みゆき作詞)などと歌い上げるとき、誰もダチョウやペンギンのことは考えていない。
 われわれの概念理解には、たんに鳥の集合を規定できる、すなわち鳥と鳥でないものとを弁別できるというだけでなく、どういう鳥が典型的な鳥らしい鳥であり、どういう鳥が例外的な鳥らしからぬ鳥なのかという了解も含まれているように思われる。そこで認知意味論は、そうした典型例を「プロトタイプ」と呼び、古典的概念観に反して、ある概念をもっていることの核心をその概念のプロトタイプを把握していることに見るのである。
 このようなプロトタイプを重視する考え方に立つとき、二人の人が同じものを同じように「鳥」と呼んだとしても、つまり、その外延の規定は同じであったとしても、何を典型例とするかによってその概念内容は異なりうることになる。例えば、私の場合には、アヒルよりはカラスの方がより鳥のプロトタイプに近いと考えているが、アヒルの方がカラスよりも鳥のプロトタイプに近いと考える人たちもいるかもしれない。その場合には、その分、「鳥」という概念も異なっていると言うべきだろう。想像しにくいがもっと極端な場合を考えるとすれば、ペンギンこそ鳥のプロトタイプであり、カラスを見たときに「変な鳥!」などと言う人がいたとして、その人たちはわれわれとはかなり異なった「鳥」の概念をもっていると言えるだろう。

出典:野矢茂樹・著『語りえぬものを語る』(2020年 講談社)

 典型例を把握していることが概念を把握していることの核心、という考え方には納得感があります。例えば、「クワガタ」の概念について考えましょう。この概念の外延には、日本のクワガタ(ノコギリクワガタとか…ミヤマクワガタとか…)が当然含まれるでしょうし、海外に生息するという、七色に輝くニジイロクワガタなんかも含まれるでしょう。では、日本で暮らすある少年がクワガタの概念を習得し、「クワガタ」という言葉を日常で問題なく使用できるようになるとき、この少年はニジイロクワガタのことを必然的に知っているでしょうか? そんなことは無いですよね。もしかしたら知っているかもしれないけど、知らなくても、典型的なクワガタさえ知っていれば、「クワガタ」の概念を日本の日常の中で問題なく使いこなせるはずです。

 もう少しプロトタイプに関連した記述を引用します。

 こうした考え方は、もうひとつの非常に重要な帰結をもっている。「鳥」という概念と「空を飛ぶ」という属性の関係を考えよう。もし「空を飛ぶ」ということが「鳥」という概念に含まれるのだとすると、「空を飛ばない鳥」という表現は論理的に矛盾していることになる。だが、「空を飛ばない鳥」という表現はけっして矛盾ではない。それゆえ「鳥」という概念には「空を飛ぶ」という属性は含まれていないと考えられる。実際、空を飛ぶものとして鳥の集合を規定したならば、ダチョウやペンギンは鳥の集合からは排除されてしまうことになる。それゆえ、「空を飛ぶ」という特徴は「鳥」の内包に含まれないとされねばならない。つまり、古典的概念観のもとでは、「空を飛ぶ」という属性は「鳥」の意味には関わってこないのである。
 だが、プロトタイプという考え方に従うならば、「ふつうの鳥は空を飛ぶ」という命題は鳥のプロトタイプについての記述であり、「鳥」の意味に関わるものとなる。先に引用した歌詞などは、まさにこうした鳥のプロトタイプ理解を利用したものにほかならない。こうして、「鳥」という語の意味、鳥の概念の内に、典型的な鳥についてのさまざまな事実が入り込んでくることになる。これは、プロトタイプという考え方の重要な帰結である。
 だが、どのような事実でも意味の内に入り込むというわけではない。例えば、カラスは鳥のプロトタイプに属すと言えるが、だからといってカラスについての事実がすべて「鳥」という概念に含まれるなどということはない。カラスは紫外線領域を感じとる視細胞をもっているらしいが、そんなことは「鳥」という概念はもちろん、「カラス」の概念の内にも、含まれてはいない

出典:野矢茂樹・著『語りえぬものを語る』(2020年 講談社)

 概念の核心となる典型例は、どのように作られるのか? どのような事実が選ばれるのか? そして、日常とかけ離れた【専門的な知識】との関係性は…?
 この辺りは、おそらく僕が分類について思っている疑問にかなり関連が深いポイントなのですが、だからこそ、まだハッキリと整理できずにいます。どうやらプロトタイプの理論やその周辺を専門的に扱う学術分野は【認知言語学】というらしいので、もう少し認知言語学について勉強してから、再度考えてみたいと思います。

 例えば、梢でカーと鳴いているあのカラス、あれは鳥のプロトタイプだろうか。これはなかなか微妙な問題である。
 なるほどカラスは鳥のプロトタイプである。だが、梢でカーと鳴いているあれは、鳥のプロトタイプではない。あのカラスは、あのカラスなりの個性を何かもっているだろう。それに対して、プロトタイプはいっさいの個性をもたない。プロトタイプとは、現実に存在するものではなく、いわば概念的に構成された抽象的なものなのである。
 あるいはもっと平たい言い方をするならば、鳥のプロトタイプとは現実に存在する鳥ではなく、われわれの通念上の鳥なのである。
つまり、ふつうの鳥について語られるふつうの事柄――羽と嘴をもち、空を飛び、卵を産み、鳴き、ある鳥は水面を泳ぎ、ある鳥は渡りを行い、ペットとして飼われているものもいるし、あるいは人間の食用にされるものもいる、等々――の全体である。そこでは、紫外線を感じる視細胞の有無などは、まったく触れられていない。
 そこで私は、プロトタイプに関わるわれわれのもつ通念を、「典型的な物語」と呼ぶことにしたい。そして、それこそがプロトタイプという言葉で捉えられるべきものであると言いたい。ある概念を理解するとは、その概念のもとに開ける典型的な物語を理解することなのである。

出典:野矢茂樹・著『語りえぬものを語る』(2020年 講談社)

 著者は、プロトタイプを「典型的な物語」という絶妙な表現で言い表しています。前回の記事で、ゲーテの原植物という発想に触れましたが、もしかするとゲーテが「原植物」と言い表したかったものの正体は、「植物の典型的な物語」だったのかもしれないですね。

相貌を知覚するとは、その概念のもとに開ける典型的な物語をそこにこめて知覚することにほかならない。ひとことで言えば、われわれはそこに物語を見ているのである。
――(中略)――
あるものをただ「犬として」見て、それ以上の関心を示さないとき、そこに読み込まれる物語は「犬」という語を用いて語られる典型的な物語である。あるいはその犬にさらに「盲導犬として」の相貌を見るのであれば、私はそこに「訓練を受け盲人の歩行の介助を行なう」という物語を読み込むだろう。
 相貌には物語がこめられている。一般に、何かを「aとして」知覚するとは、「a」という言葉を用いて語り出される典型的な物語をそこにこめることにほかならない。相貌とは、言語がわれわれに見せる世界なのである。
――(中略)――
しばしば現実のものごとは典型から逸脱するような性質やふるまいを示す。相応の関心をもって観察すれば、世の中は「変なもの」に満ちている。変な鳴き方をする犬、変わった形の椅子、不思議な味の料理、奇妙な服装、そしてとりわけ人間ときたら、私に言わせれば変な人の方が多いようにすら思われる。
――(中略)――
目の前のものにとりたてて関心を抱いていないのであれば、私はただその典型的な物語の世界の内にとどまっているだろう。しかし同時に、そんな典型的な物語を食い破り、そこからはみ出してくる実在性も、われわれは確かに受けとめているのである。世界を語り尽くすことはできない。そして何よりも、世界は私を驚かしうる。

出典:野矢茂樹・著『語りえぬものを語る』(2020年 講談社)

 ミドリムシを動物と植物のどちらに分類してよいか分からないと考えているとき(本書に沿って表現するなら、「動物の相貌も植物の相貌も立ち現れていないとき」)、それは、ミドリムシに「動物の典型的な物語」も、「植物の典型的な物語」も、こめることができないという、驚きの瞬間なのかもしれません…

虫の相貌をもって立ち現れる

 既に一部触れていますが、本書の本筋である、著者の【相貌】についての考え方についても、最後に紹介しておきましょう。2020年版に追加された古田 氏の解説が分かりやすく簡潔ですので、そこから引用します。

 私は「猫」という概念を所有しており、ある家で飼われているタマをこの概念で捉えている。これを野矢氏は、タマは私にとって猫という相貌をもっている、とも表現する。
 では、タマを別の概念で捉える(=タマが別の相貌をもつ)ことはできるだろうか。野矢氏は次のような想定を行っている。ある文化圏の人々は、猫にあたる概念も掃除機にあたる概念ももっておらず、逆に、猫と掃除機をともに指す「クリーニャー」という概念をもっている。それゆえ彼らは、タマを「クリーニャー」という概念で捉える。彼らには、タマはクリーニャーという相貌をもっている――「クリーニャーとして見える」(第7章)――のである。
――(中略)――
 たとえば私は、「クリーニャー」を「猫または掃除機」に翻訳できるから、クリーニャーについて語ることはできる。その意味では、クリーニャーとは何かを私は理解していると言える。しかし、「猫」や「掃除機」とは違って、「クリーニャー」という文字列を使いこなすことはできない。タマがクリーニャーという相貌をもって立ち現れてくることはない。クリーニャーは猫と掃除機の両方を指すものだと言われて「そうなのかと頭では理解するが、いわば体がついていかない」(第10章)のである。その意味では、私はクリーニャーを理解していない。
――(中略)――
 私は、「クリーニャー」という文字列でもって何をしたらよいのか全く分からない。今後、これを日常的に用いる人々のなかに入り込み、ともに生活していけば、やがてこの使い方を覚えて使いこなすことができるかもしれない。それとともに、よそよそしかった「クリーニャー」の印象が馴染んだ感じに変わり、タマがクリーニャーの相貌をもって立ち現れてくるかもしれない。そのとき私は「クリーニャー」という概念を手にしたと言えるだろう。以上の点を野矢氏は次のようにまとめている。
 
 概念を所有するとは、それゆえ言葉を使用するとは……ある技術を身につけることである。……相貌とは、こうした技術知(know-how)が対象に投影されたものにほかならない。(第15章)

出典:古田徹也・著「解説」、
野矢茂樹・著『語りえぬものを語る』(2020年 講談社)

 クリーニャーほどラディカルな例えではないかもしれませんが(【ラディカル】って表現、哲学の論文でよく見かけるので軽率に使ってみました)、「ミドリムシは虫では無く、藻の一種である」という主張、僕には相貌論と関わりのある事例のように思えます。

 ミドリムシはその名前の響きから、アオムシやアブラムシなどの昆虫と混同されがちです。その誤解を解こうとする人が良く使う主張が、「虫では無く、藻」です。確かに、ミドリムシは【昆虫】とは全く異なる生物だと思うのですが、【虫】に含まれないかと言うと、これは微妙な気がします
 【虫】という言葉は必ずしも生物学的な定義を伴う分類用語ではなく、小さくて動き回る生物全般に使われうる言葉だと思います。現にゾウリムシやツリガネムシなど、微生物で「ムシ」と名の付くものは多くいます。なにより「ミドリムシ」という和名を名付けた人にとっては、「虫として」見えていたはずでしょう。
 それに、「虫」という分類と「藻」という分類は、論理的に排他的な分類どうしとは言い難いようにも思えるのです。「赤では無く、青」「左では無く、右」という表現は普通に受け入れられますが、「緑では無く、花柄」「東では無く、下」などと言われると、何か違和感ありませんか?

 「ミドリムシは虫では無く、藻の一種である」という主張は、「ミドリムシを虫として見るのでは無く、藻として見てくれ」という、相貌に関する言及だと思うのです。ミドリムシに「虫の典型的な物語」(小さい、動き回る、名前にムシが付く、など…)を読み込むのではなく、「藻の典型的な物語」(水中に生息、光合成、緑色、など…)を読み込んでくれ、という主張ではないでしょうか。

 クリーニャーほど大胆で受け入れがたい相貌を習得するのは難しそうですが、ミドリムシには「藻の典型的な物語」を読み込める特徴が多くあるので、一部の人は「ミドリムシは虫では無く、藻の一種である」という主張をそのまま受け入れ、ミドリムシを「藻として見る」ことができるでしょう。しかし、言葉で説得されたところで、「いわば体がついていかない」人もいるでしょう。そういう人にとっては、ミドリムシが虫の相貌をもって立ち現れ続けます。残念ながら「虫の典型的な物語」に【気持ち悪い】という印象が含まれていることが多いので、そのままミドリムシも、気持ち悪い存在と見なされてしまうことが、しばしばです…。

 似たような状況が、イチゴ・スイカ・メロンあたりにも垣間見られます。これらの果実は栽培方法による分類に基づくと【野菜】に分類されるらしく、農林水産省でもそのように扱っているとのことです。

果樹とは
農林水産省では、園芸作物の生産振興を効果的に推進するため、概ね2年以上栽培する草本植物及び木本植物であって、果実を食用とするものを「果樹」として取り扱っています。
従って、一般的にはくだものとは呼ばれていないと思われる栗や梅などを果樹としている一方で、くだものと呼ばれることのあるメロンやイチゴ、スイカ(いずれも一年生草本植物)などは野菜として取り扱っています

出典:農林水産省のページ
(https://www.maff.go.jp/j/seisan/ryutu/fruits/teigi.html)(2021年2月4日閲覧)

いくら野菜の定義を話されたところで、どう見てもイチゴ・スイカ・メロンはくだものの相貌――「くだものの典型的な物語」(甘い、食後のデザート、入院見舞い、贈り物、など…)――をもって、私たちの前に立ち現れている気がします。

終わりに

 はじめに本書を読んでいた時は、「この内容をミドリムシの考察に活かせるだろうか…?」と悩んでいたのですが、いざnoteにまとめだしたところ、かなり深く関わりのある内容だったと気づかされました! 特に日常的な感覚・場面における「ミドリムシは動物か?植物か?」という疑問の在り方について、見晴らしがよくなったと思います。しかしその分、専門的な知識と日常的な場面との接触について、より深く考える必要性も感じ始めました。

 今回取り上げた話題は、本書の内容のほんの一部にすぎず、ほかにも【行為空間】【自由】【過去】【隠喩】など、興味深い内容が盛りだくさんです。文量は多いですが文体は読みやすいので、哲学に興味ある方には、是非読んでみることをオススメします。


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