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「そんな校則おかしいだろ」と思う大人の人に、"今の社会"を変えていくことも、ともに引き受けてほしい。

※この記事はあくまで個人としての考えを綴ったものであり、所属団体を代表するものではありませんので、あらかじめご了承ください。※

都立学校が、地毛を黒髪に染めさせることやツーブロック禁止などの校則について、4月から全廃されるそうです。こちらのニュースを見て、少し、モヤモヤとしていました。

まず、大前提として、私は下着の色をチェックするとか、地毛が明るい色なのを黒髪に染めさせるとか、人権侵害に他ならない、「マジでありえん」と思っています。ツーブロック禁止も、ポニーテール禁止も、意味不明、合理性はない考えているし、そういう校則はなくしていくべきだと、心から思っています。

そのうえで、違和感は2つ。

1つは、本当はトップダウンではなくてボトムアップで変わるべきだよな、ということです。生徒や教職員が、自分の学校で問題提起をし、「いや残すべきだ」という人たちとも対話しながら、変えていくこと。それがとても重要なことだと思います。もちろん、これがものすごく大変なのはわかっています。多くの学校組織の、自浄作用(という言い方が正しいかわからないけれど)が機能していないことも、非常に残念だけど明かな事実です。
そして、その対話が進まないうちにまた傷つく生徒が増える。だからこういうこと(トップダウンでの全廃)になってるんだろうということは想像できます。だから否定もできないのですが、でもモヤモヤします。降ってきた方針に、自分の声・小さな違和感を聴かれることもなく従わされる構造は、やっぱり学校現場の健全さを損なうものだと私は思います。現場レベルの問題提起と対話で、問題校則を無くしていけないということがとても悔しく、学校組織の現状の厳しさを痛感します。

トップダウンで全廃が決まることを喜ぶ教職員の方も実は少なくないと思います。学校組織を内から変革していくことのしんどさを思えば、その気持ちはとてもよく分かる。分かるのですが、でも、やっぱりそれって現場では変えられなかったという、ある種の"敗北"(きつい言葉でほんとごめんなさい)だとは思うのです。やっぱり、「これって変だ」と思っている生徒と、教職員の人たちと一緒に、草の根から変えていきたいと、私は思ってしまいます。
(そういう意味ではNPOカタリバが今やっているみんなのルールメイキングの取り組みなどは、まったくもって正攻法の取り組みだなぁと改めて思いました。リスペクト。)
(※あ、でもここまで書いて気づいたけれど、生徒自身が声をあげて、教委がトップダウンで変える、というプロセスだったとしたら、訴えた生徒にとっては「成功」ですよね。だとしたらそれは生徒のエンパワメントになるので、よきことだと思います。今回はそういうプロセスは少なくともニュースからは見えないですが・・・)

///追記///
毎日新聞などの報道を確認すると、教委から必要性が疑われる法則についての点検の通知があり、各学校で生徒や保護者等とやりとりがあって廃止となったとのことでした。プロセスの詳細までは分かりませんが、トップダウンと言い切ったのは違ったようです。情報収集不足すみませんでしたm(_ _)m

2つ目の違和感については、このニュースについての、Facebook友達(中学校の先生)のKさんの投稿が、クリアにしてくれました。
いろんな人に知ってほしい、聞いてほしい、考えてほしい、学校で働く教員の声だと思ったので、お願いして転載させてもらいました。ぜひ読んでほしいなと思います。そして、現職の先生がこういうことを書くことには、とても勇気がいるのだということも、想像してもらえたら嬉しいです。

(以下、上記ハフポスのニュース記事のシェアとともに綴られていたKさんの文章です。)

ついに動くかー
擁護したいというのでもないけど、ひとこと申したい。

教師をして15年、校則のアホくささと同時に、なぜこの校則が存在するのか、じわじわとわかるようにもなった。

とくに私の勤めた市は、生徒手帳にすら載らない細分化された規則を設け、そのために多くの小競り合いを繰り返しながら、自分たちの首を絞めるように多大な時間を浪費している。
この記事をはじめ、ブラック校則と呼ばれるようになったもののアホくささや、それを守らせようとする教師への批判が多く寄せられているけど、この細分化された不合理とも感じる校則がなぜ生まれて守られてきたのかまで想像することはできていない。(現場にいないし当たり前だけど)

校則の多くは今の中高年層が学生だったヤンキー全盛期だった頃に生まれたんじゃないかと思うけど、「校則」という法律にしてしまうことで、社会から、保護者から、地域から求められていることや、校内外でのトラブルを防ぐために、教師や学校が責任を感じて守らせているのが現状であるとは思う。(もちろん、「そこまで?」は多分にあるけど、それは「どこまで?」が生徒と保護者から要求されるからともいえる。)

私も、スカートの長さも、下着の色も、髪の色も、なんだっていい。むしろ、自我の芽生える時期に自由にファッションで表現できることは、多様性を認めることであると同時に、アイデンティティの形成とそれに伴う責任を知るのに良いと思う。生徒が「守らされて」いるものには、なくてもいいものもたくさんある。

でも、廃止する、ということは、その責任を社会で分かつことであると、想像して欲しい。今まで、「教わってきたでしょ」と、片付けていた一般常識かのようなことを、当たり前と思うことは出来なくなるのだ。

短いスカートや透ける下着の女の子が受ける性被害をその子の自己責任にしない。
染髪にピアスで個性的な服装で面接に来た人を就職差別しない。
それを多様性だと認めて欲しい。あるいは、違和感があるなら、けむたがられても、シャットアウトする前に、理由を伝えてその人に話しをしてやってほしい。


ちょっと飛躍すると思われるかもしれないけど、万引きがあった時親よりも先に学校に連絡が来ることや、道や団地の前に広がって通路を塞ぐ学生に注意せず学校に電話をすること、校外での飲酒喫煙の目撃情報…etc…学校への連絡ではなく、見かけて違和感を感じた、あなたが対応して欲しい。そういうことを分かつことでもあるのだと。

子どもは何も知らずに生まれてきて、環境の中で育つ。親も環境ももちろん一律ではない。盲目になることや理解し難い表現をすることもある。それでも社会市民として育ってほしいと願うのであれば、道ですれ違うあなたも、その環境の一部となってほしい。

多様性を謳うことは気分が良く、先進的に取り組めている気分にもなれる。
ただ、自分の中の排他性や「常識」「空気」を、大人も見つめなおしていってくれることを切に願います。
と、こんな言葉も、社会を知らない教師のたわごとなのかもしれない。でも、そこに向き合っていることを想像してほしい。そしてあなたにも動いて欲しい、とも思うのでした。

私も、校則をめぐっては、Kさんと近しいことをずっと考えてきました。以下は、以前、人権侵害を含む校則(いわゆる"ブラック校則")が問題化するきっかけになった大阪の裁判の2審の結果が出た時に、私がFacebookに投稿した文章です。


人権侵害を含む校則が社会問題化するきっかけになった裁判の2審の結果が出た。まだ詳細を調べきれてないけど、たとえ学校側が地毛が黒髪だと誤認してたとしても、地毛が茶色い生徒に黒染めを強いる指導と、それを誘発する校則が「アリだった」と判断されていいとは私は思えない。

地毛が茶髪でも黒髪に染めろというルールの学校はさすがにそう多くはない(あるけど)。この高校も当該生徒は黒髪だと思って指導していた。

ただ「地毛の子はそのままでいいが、他の子は毛染めNG」という多くの人が「そうすればいいじゃん」と思いそうなルールを学校で運用するのは実際はしんどい。歪みも間違いも出る。

具体的には「”地毛証明“を厳格に出させて管理せねば」ということになったり、「嘘をつく生徒に騙されないようにせねば」と教師は"努力"することになる。中には保護者が生徒に協力して地毛証明を偽ることもある。不信をベースのコミュニケーションが増えるし、その中で「本当なのに疑われた」「嘘だと言われて傷ついた」なんてことがたくさん起こる。今回の裁判のケースはその相当酷いケースだ。でも、疑うのをやめると本当は黒髪の生徒がどんどん茶髪でいいことになってしまうわけだ。

また、そもそも個人のアイデンティティの一部である髪色にいて地毛証明を出させるなんてこと自体が、外国につながる生徒も多いこの時代にナンセンスだし、それを出させること自体が問題があると感じる人も多いだろう。私もその一人だ。

では、今回のような事案をなくすために、どうすればいいのか。一つだけ方法がある。「地毛が何色だろうと、髪は何色でもいい」というルールにすること。私は根本的にはこれしかないと思う。

さて。ここまで読んで、「それでいい」と思う人は何割ぐらいだろうか。それほど多くはないのではと想像する。


また、この件は「学校イメージ」にもつながる。
保護者は、地域は、カラフルな髪色の子たちが通う高校を敬遠しないか?
もしするなら、学校としては「地毛が何色だろうと髪は何色でもいい」というルールにすることには相当勇気が要る。

ちなみに大阪の府立高校は3年定員割れすると統廃合対象になる。

この裁判のケースは本当にひどい人権侵害だと思う。2審の結果も私は納得いかない。けれど、裁判所が持ち出した「社会通念に照らして」は、本質でもあると思う。問われているのは社会通念で、社会通念をつくっているのは一人ひとりの市民だ。

(ただ、それでも裁判所には、社会通念を言い訳にせずに、もっと踏み込んだ判断をしてくれ、とは思うが。何のために存在してるねん。)

「社会の今」が「学校の今」をつくっている。
でも「学校の今」が「これからの社会」をつくる。

学校の今が、これからの社会をつくっていくのだから、前時代的な校則を変えていくのは、大賛成です。校則がおかしい、と大きな声でいうのは大事なこと。必要でもあると思います。

でも、大人たちは、「社会の今」を変えることも同時にする責任があるんじゃないでしょうか。学校や先生だけを、責めていてもよくなっていかないんじゃないでしょうか。民主的な市民社会をつくっていこうとするならば。

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●短いスカートや透ける下着の女の子が受ける性被害を「そんな格好してたからだ」と絶対言わないこと。その子の自己責任にしないこと。

●染髪にピアスで個性的な服装で面接に来た人を就職差別しないこと。

●近隣の学校の生徒たちがカラフルな髪色で闊歩し始めたとき、「あの学校はどういう指導してんの?」と言わないこと。そういう学校をヤンキー学校とか言って敬遠しないこと。

まわりに、そういうことを言う人、する人が出てきた時に、

「それっておかしいよ、どんな格好してても責任は加害者にあるでしょ?」
「見た目だけで敬遠するのは偏見だよ」

そう言って、一緒に、あらがってくれますか?たたかってくれますか?
今の学校は、社会の今を反映しています。
社会の今をつくっているのは、一人ひとりです。

「今の社会を変える」。そこを、多くの大人が引き受けていくことが、「学校の今」を変えることになっていくんじゃないでしょうか。

民主的な学校と、民主的な社会を、そうやって、たくさんの人たちと、一緒につくっていきたい。そう思います。

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