父からの「大好きだよ」という言葉
※多少センシティブな内容が含まれるので、閲覧についてはご注意ください。
私は、三人きょうだいの末っ子で、長女である。
年の離れた兄がふたり。両親は、女の子がどうしても欲しかったらしい。母が42歳の時に産んだと聞いた気がする。高齢出産で、母の身体も危ないと言われていたらしい。しかし私は元気にこの世に産声を上げた。母も無事だった。
両親はそれはとてもとても可愛がってくれて、まさに溺愛という言葉の通り、愛を一心に受けて育った。甘やかされて育ったので、本当に甘ったれな性格だと思う。
特に父は、待ちに待った女の子が産まれ、とにかく本当に親馬鹿だったと思う。でも愛を思いっきり表現してくれる父が大好きだった。
母も優しくて、いつでも私の味方でいてくれて、愛を注いでくれて、大好きな母だった。
そんな大好きな母が、くも膜下出血でこの世を去った。私が高校生になった秋のことだった。
その日の朝、母は頭痛が酷くて、でも外出の予定があるといって、出ていった。私は寝ぼけ眼で見送った。そしてそのまま帰らぬ人となった。
当時まだ父は古い考え方の人間で、炊事や洗濯等、家事はほぼ母がしていた。しかし、家に残された高校生だった私と社会人になりたての兄。父は慣れない家事を頑張ってくれた。いきなりのことで、しばらく放心状態の私は、なにも出来なかった。母について心の整理がつくまではかなりの時間を要した。いや、まだできていないのかもしれない。
父は弱音も吐かずに、しっかりと私たちを育ててくれた。私は高校を卒業したら働くつもりだったけど、大学にまで行かせてくれた。本当に頭が上がらない。
成人しても、一緒に買い物に行ったり、二人で旅行にも行ったりするくらい仲良しで、夫に言ったらかなり驚かれた。他人に言わせると、異常なほどの仲の良さらしい。
新卒で就活失敗して、実家に戻ってなんとか転職するも失敗して、いよいよ精神を病んだときも、不器用ながら寄り添ってくれて支えてくれた。
大好きな大好きな父。
コロナ禍で1年以上実家に帰れていない。自粛期間に入った春過ぎ、LINEでビデオ通話をした。スマホを使いこなせていない父に変わって兄がかけてくれた。久しぶりに画面越しに会った父は少し老けていたように見えた。
父ももう高齢なので、体調が心配である。東京にいる私は未だ帰ることは絶対にできない。
最近兄が忙しく、また、実家の近くでクラスターが発生したこともあり、家に電話してやってくれと連絡が来たので、久しぶりに父に電話をした。
今回うつと診断されてから、父には休職したことと、うつの診断を受けたことも隠していた。顔を見ると会いたくて泣いてしまうので、ビデオ通話もあの後1回しかしていなかった。声を聞いても泣きそうになってしまうので、電話も控えていた。
深呼吸してから、電話をかけた。父の声を聞いて安心する。元気そうだった。でも心配はかけたくないので、やはり休職とうつのことは言わなかった。最近どう?という話をしたりして久しぶりに笑い合った。
ふと
「いつでも◯◯(私)のことを心配しているよ」
と言われて、なんとか泣かないようにしていたのに、限界突破して涙が溢れた。でも泣いているのを悟られないように、精一杯返事をする。私もいつだって心配している、お父さんも身体に気をつけてね。と。
そして最後
「大好きだよ」
と言われた。かなわないなぁ。涙がとめどなく出てきて頬をつたったけど、泣いてる声を出さないように、私も大好きだよ、元気でいてねと言って電話を切った。
電話を切った瞬間、声を上げて泣いた。1人で、子供みたいにわんわん泣いた。
こんなに大切に思ってくれている家族がいるのに、死にたいなんて考えてしまっていた自分。
気持ちが溢れてどうしようもなくて、noteを書きなぐっている。
生きるのって本当に辛いことだらけで、嫌になることもたくさんあるけど、今生きることを投げ出しちゃいけない。先に死ぬことがあってはならないんだ、と思った。
今までもたくさんたくさん迷惑をかけたけれど、精一杯親孝行をしたい。ずっと思っていることだけどなかなか難しい。でも、やり遂げたい。
まだ不安定で情緒がぐちゃぐちゃだけど、いつまでも私がこのドン底にいるわけにはいかない。父を安心させてあげたい。
異常な愛と言われようが、ファザコンと言われようが、私は父のことが大好きである。
いつまでも元気でいてほしい。
ありがとう。
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