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短歌五十音(な)中井スピカ『ネクタリン』

生活即文学

この商業的文学の生活との隔たり、乖離というものを補っていくのは、素朴な根を持っているこの詩であり、この短歌ではないかというふうに私は考えております。実際、短歌のわれわれに歴史的にも教えること、また現在でもそうであることは、それが生活の文学であり、生活即文学である。

土屋文明『短歌の現在および将来について』

本稿で紹介するのは、中井スピカさんの第1歌集『ネクタリン』である。
中井スピカさんは、1975年生まれで、2022年に「空であって窓辺」で第33回歌壇賞を受賞している。
また、塔短歌会に所属するとともに、魚谷真梨子さん、江戸雪さんとともに短歌同人誌「Lily」にメンバーとして参加している。

冒頭に引用したのは、土屋文明が昭和22年に名古屋市で行った講演の速記であり、『短歌の現在および将来について』と題された文章の一節である。
『ネクタリン』を読み終わったとき、まさに短歌が「生活の文学」であると感じた。

逃げ遅れているとも言える指先が昼は呑気に蕎麦など食べて

『闇夜と月夜』p16

フォルダへとリスト格納し終わってバスク地方へ明日行きたい

『闇夜と月夜』p18

人件費浮いた分だけ部長たち優しくなりて小糠雨降る

『闇夜と月夜』p19

『闇夜と月夜』と題された一連は、職場における採用と退職の場面が想起される短歌が並ぶ。
1首目、主体自身が現在の会社で働き続けることについて、「逃げ遅れている」という辛辣な言葉が浮かびつつも、「呑気に」蕎麦を食べているという現実との対比がいかにも勤め人である。
2首目、バスク地方は、美しい自然と街並みと独特な文化のあるフランスに接するスペインの地方。単調な事務仕事から解放されて、ありえない想像で、意識を飛ばす姿に実感がある。
3首目、人が優しくなるのはいいことだが、その理由が退職者が出て人件費が浮いたということにあるのが怖い。小糠雨は、霧のように細かい雨。部長が優しくなったことと小糠雨が降ることに因果関係があるようなことにグロテスクな人間味が透ける。
一定数の人が働く職場に勤務した経験のある人であれば、一度は経験したことのある感情が思い出されるような具体性のある描写に引き込まれる。

アレクサ!あの人をなき者にして!それから素敵な音楽かけて!

『私の靴しかない地球』p30

想定よりだいぶ少ないエビチリを無言で見つめエビマヨも頼む

『白い航跡』p154

季節ごと花の名前を変えているパスワードあり今はyuugao

『今はyuugao』p45

また、生活の中でのユーモアのある歌も楽しい。
1首目、AIスピーカーであるアレクサに音楽をかけるよう注文することはできるが、その前の注文が爽やかでどぎつい。「なき者にして!」という言葉が、この世にそもそも存在しなかった者にしてほしいという感じがして、本当に消えてほしい人なんだなと感じる。
2首目、「無言で見つめ」のリアリティ。「これ、少ないけどエビチリもう一回頼むのもなあ、まあ、エビマヨにしますか」という脳内会議が聞こえてくる。
3首目、生活を豊かにするライフハック。セキュリティの関係で、定期的にパスワード変更を求められることが多いが、わずらわしさに少し楽しみを加えて生活を彩っている。

わからない明日を重ねてここにいるマゼンタ強いブーゲンビリア

『ジェリーフィッシュ』p11

グリーンとだけ呼ばれてる受付のグリーン三つに水を与える

『闇夜と月夜』p14

強引な多数決あり 寒色の付箋もろとも食むシュレッダー

『ガーネット』p65

生活の中の色が使われた歌も印象的。
1首目、マゼンタは、鮮やかな赤紫色で、プリンタのインクの3原色の1つとして使われているもの。積み重ねてきた日々とやたら鮮やかで色の濃いブーゲンビリアを重ねているイメージが印象的。
2首目、「グリーン」と呼ばれているものは、おそらく観葉植物だろう。本当は、植物名があるのだが、単に「グリーン」と呼ばれている。この1首は、先に引いた『闇夜と月夜』の冒頭の歌。正確な名前より、わかりやすい機能の呼び名で十分という合理性が重んじられる職場の雰囲気がよくわかる。
3首目、「寒色の付箋」に主体の納得のいかない気持ちと職場の冷酷さが透ける。シュレッダーで書類を廃棄しながら、主体の感情も廃棄しているよう。

先ほど申しました製作者が受用者といっしょになってしまう文学だということにやはり関連しますが、そういう点からいえば、短歌と言うものは、けっして一つの英雄を作り出す文学ではなく、一つの天才をめぐる文学ではなくて、同じ立場に立ち、同じ生活の基盤に立つ勤労者同士の叫びの交換である。

土屋文明『短歌の現在および将来について』

もう一度土屋文明の言葉を引く。
土屋文明は、短歌の本質を「同じ生活の基盤に立つ勤労者同士の叫びの交換」としている。
そして、この歌集には、そうした叫びを感じるのである。

ストロボが強く光ったあとに来るまっさらな闇。誰か泣いてる

『ジェリーフィッシュ』p12

陰口を拒めないままテーブルのアクアパッツァが冷めきっている

『ベイリーズ』p27

採用の電話をもったいつけてする先輩にどっと積もれぼた雪

『ナックルボール』p147

弱い立場にある人に寄り添った歌が胸に迫る。
1首目、強い光のあとにある一瞬の闇。光の強さに心が奪われがちだが、その闇もまた本質である。
2首目、人の心は弱いもので、場の空気で言いたくもないことを言わざるを得ないこともある。
3首目、立場の違いを利用して、優越感にとらわれている嫌味な先輩に静かな呪いを主体はかける。
いずれも、「ストロボ」「アクアパッツァ」「ぼた雪」という具体的な言葉が使われていることで歌に込められた感情が鋭く立ち上がってくる。

諦めることに強さは含まれてヨガを祈りのポーズで終える

『春のポリフォニー』P104

繰り返すことで前進してるからパドルは水面みなもを深く切り裂く

『ねじれてく海』p121

ぐつぐつとカルメラ焼きは膨らんで誰かの笑顔をちぎって食べる

『むきだしの風』p54

生活は、ままならないことも多い。そんな日々を強く生き抜く歌も心に残る。
1首目、解決や理解に向かって何かをしても、どうしようもないことがわかったとき、諦めることは重要な態度であり、例えば、相手との関係で負けのポーズをとっていたとしても、それは強さの証でもある。ヨガで呼吸を整えながら捧げられる祈りのポーズは、自分にも相手にも向かっている。
2首目、なかなか前に進んでいる感じがしないときも、確実に前に進んでいる。単調なパドルの動きにより水面を切り裂いて進む舟のイメージに勇気づけられる。
3首目、人の笑顔の描かれたカルメラ焼きをちぎって食べる描写には、生活の中でやむを得ず、誰かの笑顔を奪うことが重なる。

ああやっと親の戸籍を去ってゆく私に夏の逆光よあれ

『空であって窓辺』p143

誰の子も可愛くなくて丘をゆく私は欠けた器だろうか

『今はyuugao』p47

お茶漬けにおかきを割ってのせる癖だけは継ぐから 海老を多めに

『隔てなく舟』p78

家族に対する複雑な感情を詠んだ歌は、どれも心を揺さぶられる。
1首目、結婚により親の戸籍から抜ける。「ああやっと」という率直な言葉遣いに呪縛の重さが感じられる。逆光は、光の源にレンズを向けると発生するもの。主体は、呪縛から解き放たれて自分のための光を見つめている。
2首目、子を産み育てることをポジティブに感じられない人への家族や社会からの風当たりの強さは、未だにある。下の句のシンプルな問いかけが切実。
3首目、ユーモアのある歌だが、逆に言えば、お茶漬けの好み以外は、受け継がないということでもある。親から何を受け継ぐかを主体的に判断する軽やかな強さを感じる。

歌集全体を通じて、具体的な生活の描写から普遍的な人間の感情が浮き立ってくる。
それは、作者の短歌という詩形に対する信頼を強く感じた。
どんなことも短歌になるし、どんなことも短歌とともに乗り越えられる。
生活の中の楽しいことやつらいことがあったときに、ふと思い出す短歌にあふれている。

書くことを続けてきて本当によかったし、これからも書き続けていきたい。
この歌集が、太陽のもとで育つネクタリンの樹のように枝を伸ばし実をつけて、たくさんの方の手に届くことを願っている。

あとがき

私は、今後の短歌の行くべき道としては、その現実に直面して、お互い同士同じ生活の基盤に立って(黙々としておる人もありましょうけれども)この生活を声に発しなくてはおれない少数者――すなわち先ほど申しました少数者、この現実の生活というものを声に現さずにおれない少数者がお互いに取り交わす叫びの声、そういうもの以外にはありえないんじゃないかと思います。

土屋文明『短歌の現在および将来について』

(参考文献)
新短歌入門(土屋文明著、筑摩書房、1986)

次回予告

「短歌五十音」では、初夏みどり、桜庭紀子、ぽっぷこーんじぇる、中森温泉の4人のメンバーが週替りで、五十音順に一人の歌人、一冊の歌集を紹介しています。

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お読みいただきありがとうございました。
本稿が、みなさまと歌人の出会いの場になれば嬉しいです。

次回は初夏みどりさんが西田政史さんの『スウィート・ホーム』を紹介します。
お楽しみに!

短歌五十音メンバー

初夏みどり
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桜庭紀子
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ぽっぷこーんじぇる
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中森温泉
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