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国分寺

 話は前回の谷町(華村灰太郎カルテット関西ツアー)から更に二ヶ月程は遡る、2020年晩夏というか初秋というかそんな頃のことだ。その頃はこのコロナ禍でいろいろなスケジュールが飛んだ。小さなライヴは入場人数の制限で行ったり、小規模編成で関西方面に行ったりはしていたが、夏のフェスは軒並みキャンセルだった。特にコロナ禍前の1月に参加したJagatara2020はその後いろいろ大舞台もあり、私も参加予定だったのだが全てが中止となった。残念至極。そんなことも続いた昨夏でキャンセルの報にももう慣れきった頃、音楽家・ギタリストの岡田拓郎君と国分寺で一献交えた。

 岡田君とは私が阿佐ヶ谷のSOUL玉Tokyoで時折行なっている『レコード千夜一夜』というアナログ盤をかけては有る事無い事を喋るレコード・コンサートに時折ゲストで参加してもらったり、と年に一回会う程度だが、今回は彼が30年くらい前に日本で出版されたライ・クーダーの教則本を探している旨をSNSで発言していたので、それを持っている私が貸すことにしたのだ。ならば、このちょっと暇になってしまった時期、幸い居住地域もそこそこ近いので国分寺で軽く一杯、と午後早い時間に駅で待ち合わせた。このコロナ時世、それなりの往来の中でマスクをしての待ち合わせは簡単ではないが、ソーシャルディスタンシングは保てる距離で彼を認識でき、南口に降りる。とにかく昼間から安く飲めて、喫煙可で特に味は求めないし、それなりの居心地であれば良い。と思っていたら、交差点渡って百歩歩いたかどうかであるじゃないか、多古屋。随分昔に来た記憶が無きにしも非ずで、その地下を降りた。駅前の中規模の安酒場だが、まずは検温で入店許可を得、ひとテーブルずつは空けての着席で入店者数の制限もあるようだったが、この平日の昼間、思いの外に既に数組の席で話が咲いていた。

 二人で占領するにはちょっと大きめの6人がけの奥のテーブルに案内され、まずはビール。どんなビールだろうが、こういう時は美味い。そして早速ライ・クーダーの話。クーダーからブレイク・ミルズへ、そしてミルズからボブ・ディラン。ちょうど私がミュージック・マガジンにディラン新譜『Rough & Rowdy Ways』についての原稿を書き、その掲載が発表された後だった、これは本当に素晴らしいアルバムで何度も聴いて曲ごとにそれなりに書き進めたが、字数が足りずシングルカットの重要曲である『Murder most foul』には殆ど触れられなかったのだ。いや正直に言うと私がこの曲を語るには、情報量が半端ではないという所為もあり、この段階では咀嚼すら間に合わずまだまだ言及するには重荷だったとも言える。だがネット上で岡田君がこの曲に言及しているのを読んで、膝を打った。そんな話をしつつ、また話はクーダーに戻り今度はサム・ゲンデルやジョン・ハッセルと、もうずっと音楽の話でビールが何杯もすすむ。話が一段落して、何も肴を頼んでいないことに気付きとりあえず一品づつ注文。何だったかは覚えて居ないが、こういう時はヴォリュームは無く、ちびちびとつまめるずっとテーブルにあるものにした。

 彼との出会いはそんなに昔ではない。2015年1月、ジョン・フェイヒーの映画公開イベントで秋山徹次さんと私がおのおのエレクトリック・ギターのソロ演奏を行った時だった。終演後の打ち上げでノアルイズ・マーロン・タイツの武末亮君に紹介されたのである。

その晩の私の演奏はこちら

 その時の話で、私がレッスンをしている吉祥寺エアガレージでちょっと声をかけさせてもらったことがあったと言う。それは覚えていないが、そのもっと前にMySpaceというSNSでコメントをしてくれたと言うのだ。今にして思えば、MySpaceは良いSNSだった。(まだ一応あるのだが。)趣向の熱意がストレートでだからこそ世界中で少数だったと思うが、ネット上では繋がった。チリの大地震の時には無名有名問わず繋がっていた音楽家に本当にシンプルに安否と励ましのメッセージを送って、それくらいのことで心底感謝してくれたであろうことが読み取れるような場所だった。彼はそのMySpaceに私がアップしたアコースティック・ギターでのソロ演奏のアルバート・アイラー / ゴーストに反応してコメントをくれたのだ。コメントがあったことは覚えているが、それが君だったのか、とその渋谷の居酒屋で杯を重ねた。MySpaceの件はかれこれ15年以上は前だが、その演奏はワールド・スタンダード / Jump for Joy(2002年)の為に私が自宅で録音したものでそのアルバムに収められたものの元テイクだった。その後の私の再演は Lonesome Strings and Mari Nakamura / Folkrore Session(2011年)でこれは松永孝義さんとのデュオ、Lonesome Strings and Mari Nakamura / Afterthoughs(2012年)のDVDではロンサム・ストリングスの四人全員で演奏している。

 閑話休題。そのゴーストのコメントの件だが、どうやらこの曲が気になっていろいろカバーを探していたら、同じ日本人の私にたどり着いたということだ。おそらくまだ彼が学生だった頃であろう。その探究心はとめどなく、私の演奏がどうだとかに関わらず、とても嬉しく思ったものだった。そして随分経ってから、というかほんの数年前にベーシストの千ヶ崎学さんと、最近の日本のバンドは一度聞いたら忘れない名前が結構あるね、なんて話をしていたら、同時に声が揃ったのが「森は生きている」だった。

 年の差で言うならば、私は彼の親に年齢が近いくらいだが、音楽に対する姿勢や録音物へのリスニングマインドとでも言おうか、それはとても面白く、また敬服もする。こんな会話もあった。

岡田「ブレイク・ミルズのHeigh Hoの一曲目(If I'm Unworthy)、カッコいいですよね。でもドラムがアウトロに少しだけ出てくるところにグッときますよね」

桜井「この曲の最初のリフの元はハウリン・ウルフのフォーティ・フォーだね。これは俺の好みだけど、シカゴ・ブルースといえば50年代半ばくらいまでがやっぱり興味深い。で、フォーティ・フォーはリフとドラムの絡みが絶妙でなんともカッコいい。だからミルズは絶対それに対するリスペクトとしてアウトロだけドラムを入れたんじゃないかな」

 折角なので、掘り下げてみよう。一般にシカゴ・ブルースと呼ばれているものがどのようなものなのかは一言では言えないが、いわゆるカントリー・ブルースと呼ばれる弾き語りからバンドサウンドになっていき、その後大まかにシティ・ブルースと呼ばれたものがシカゴで花開いた、と言うと乱暴すぎるか。ただ巨人マディ・ウォーターズが1940年代半ばにはシカゴにたどり着き、バンド活動をするが、頭角を表しヒットしたのは40年代後半の I can’t be satisfied 、Rolling and Tumbling でこれはバンドスタイルではなくベースのビッグ・クロフォードと本人の歌とギターだけだった。が、これがタンパ・レッドやリロイ・カー等の小粋なブルーバード・ビートをより都会的にしかもワイルドに(ようするに都会的というのはあくまでも”的”なのだが、このメロディは後のシカゴ・ブルースと比べてもぐっと洒落ていると感じる)表現したのがシカゴ・ブルースと呼ばれるものの始まりだったのではないかと思う。ここでのクロフォードの役割はベースだけのバンドといっても過言ではない素晴らしいプレイだ。もはや都会の洗練がここにある。

 私がシカゴ・ブルースを認識したのは、70年代後半でロバート・ジュニア・ロックウッド&エイシズの日本でのライヴ盤を聴いた頃だ。ロバート・ジョンソンの流れが正統にありながらも少しジャズっぽいギタープレイのロックウッドと心踊らされつつ安定感抜群のエイシズの三人の演奏だが、これはもう今にして思えば、歴史と先端が共存した最良の例だった。だが、そこで置き去りにされたものもある。それが先のフォーティ・フォーに繋がる50年代半ばまでのシカゴの音だ。エイシズのフレッド・ビロウのプレイはレガートが綺麗で気軽に踊りやすい。だがウルフのバンドは違う。グリール・マーカスの言葉を借りれば、3分間の黒人暴動なのだ。埃っぽいし汗まみれにもなる。そう都会は大変なのだ。そしてシカゴ・ブルースと呼ばれるものは変容していく。オーティス・ラッシュ、マジック・サムらの台頭で喜び、怒り、嘆き、悲しみが集約され、よくも悪くもわかりやすくなる、もはやロックだ。だから50年代半ば、まだ狭い世界だったこの発露は重要で、どうやってこれを作ったんだ? と、おそらくブレイク・ミルズも同じ様な事を感じたに違いない。

 こんな会話もあった。

岡田「マイルス・デイビスのカインド・オブ・ブルーの So What のイントロ、あれ、とても面白いですよね」

桜井「So What は分かるけど、イントロは思い出せないな」

岡田「いや、イントロが面白いんですよ。こうやって音楽を広げる、とでも言おうか、想像が膨らみますね。サム・ゲンデルは絶対影響受けてる。音楽の作り方とでもいいますか、そんなことを感じました」 

 という事で、聴き直してみたら確かに面白い。その後のメロディがやけにポップに響き、時を忘れる。今までこれを聴いてきた姿勢と全く異なった耳になってしまう。岡田拓郎の着眼に恐れ入る。そしてカインド・オブ・ブルー、多くの人が知る名盤だが、きちんと聴いていない自分を恥じる。

 昼間だった所為もあるが、我々はビールばかり飲む。肴は置き去りにされがちながらも、ちびちびとほんの少しずつ摘む程度。

 とにかくずっと音楽の話なのだが、時折ギター関係の機材の話にもなり、エレクトリック・ギターのピックアップにまで話は及ぶ。この場では日本製70年代初頭のテスコやグヤトーンのギターに装着されていたゴールドフォイル・ピックアップが話題の中心だ。このピックアップは私も大好きで自分のテレキャスターにも装着している。今ではクーダーキャスターと呼ばれるライ・クーダーの改造ストラトキャスターもスティール・ギターのピックアップとこのゴールドフォイルが取り付けられていて、Youtubeではクーダーキャスター亜流各種が散見されなかなか面白い。ちなみにライ・クーダーのこのギター、ジム・ケルトナー、ヴァン・ダイク・パークス、フラコ・ヒメネス、スティーブ・ダグラス、ホルヘ・カルデロンらを従えた Get Rhythm ツアー時の来日公演ではまだこのギターのゴールドフォイルの位置にはギブソンのハムバッキング・ピックアップが装着されていた。ちょうどその頃に私は友人からテスコのエレクトリック・ギターを譲り受け、そのゴールドフォイル・ピックアップに魅力を感じ、思い切ってテレキャスターに装着したのだ。だからゴールドフォイルはクーダーより早かったんだけどな、と思いつつ真相は如何に。そして、彼は自身のギターの殆どにゴールドフォイルを付けているとのことだ。なんというか微笑ましい、いや嬉しい。

 音楽の話と時折の楽器の話だけで、酒が進む。つまみは少しずつだけど減っているが、まだテーブルにある。このコロナ禍、店の客はさほど増えない。従業員も少し手持ち無沙汰に見えるが、その分こちらへの反応も早く酒は途切れない。私はようやく焼酎に移行し、まだまだ話は続く。じゃあこれで最後にするか、と言う台詞は三回ほど繰り返されただろうか。

 二人で5,000円程の勘定だった。いい酒を飲んだ。まだ19時くらいじゃないかと思っていたのだが、駅についたら22時が近かった。

 素晴らしいアルバムだ。私が音楽というものに心を奪われてもう40年以上は経ってしまっているが、そういう自分で心底良かった、と思わせてくれる。それは単純な自己肯定だけではなく、自分への反省や後悔も促される。ただそれは苦く悪いことではない、むしろ気づかせてくれたことに感謝したい。アルバムタイトルの最終曲の中盤、少し無骨なタッチのギターに惹かれ、ドラムが退き、ドローンになる。この感じ、なんだったかな、と最初は思ったのだが、今やそれはどうでも良い。高揚を予感させながらも静かに過ぎ去る。自分という一個人をも超えた音楽の歴史の一部分がここに現れているように感じるのだ。

桜井芳樹(さくらい よしき)
音楽家/ギタリスト、アレンジやプロデュース。ロンサム・ストリングス、ホープ&マッカラーズ主宰。他にいろいろ。
official website: http://skri.blog01.linkclub.jp/
twitter: https://twitter.com/sakuraiyoshiki

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