見出し画像

90年代を駆け抜けた、日本発グランジロック・バンドの秘話。ペリカンキング(PELICAN KING)、河崎雅光へのインタビュー。

ペリカンキング(PELICAN KING)は1994年に、ヴォーカル/ギターの河崎剛士、 ベースの河崎雅光、ドラムスの古川哲矢によって結成されたロックバンドです。グランジを彷彿とさせる重くノイジーなロックサウンド、美しいメロディー、そして切なさや焦燥感が漂う日本語詩が魅力。そんな彼らが1998年〜2001年にかけてミディからリリースした作品が、各配信プラットフォームにて一挙解禁となりました。そこで、今回はそのベーシスト、河崎雅光氏にインタビューを行い、その活動の軌跡を振り返ってもらうとともに、制作にまつわるエピソードや関わった人たちとの思い出についても語ってもらいました。

河崎雅光氏

――まず、どうメンバーと知り合い、結成に至ったのか教えてください。

「ギターヴォーカルのタケシは弟でして。タケシの書く曲がかっこいいなと思ったんで、一緒にやり始めたんですけど、当時はヴォーカリストが別にいたんですよ。同じ音楽サークルで一番いいなと思ってたヤツで。ただ、曲書いてるヤツがヴォーカリストに『この曲はこう歌ってほしい』ってアドバイスするのって難しいんで...結局、弟が自分で歌った方がいいんじゃないかってことになって、3ピースになりました。そこからペリカンキングって名前になって、下北沢の屋根裏とかCLUB251とかを中心に活動をしていました」

――3ピースでずっと活動されていて、1998年にミディより1stアルバム『SPEEDRIDER』でデビューします。ミディでのアルバムリリースに至った経緯についてお伺いしたいです。

「大蔵(ミディ創業者)さんと仲良くさせていただいてました。大藏さんは下北のラ・カーニャってバーによくいらっしゃったんで、当時はそこに毎日顔だして『俺たち良いバンドだから、CDデビューさせてください!』っていうのを会うたびやってました(笑)。それで音源とかデモテープとかを聴いてもらって、『考えときます。』って感じの反応で。そしたら半年か1年くらい経ってから大蔵さんから突然連絡があったんです。IRc2っていうスタジオが湾岸にあって、そこが一週間空いてしまって、レコーディングできるバンドを探してたらしくて。それで『君たちがアルバムを作る気持ちがあるならやってみないか?』って、1ヶ月前くらいに言われたんです。曲もあったので、是非ってことでやらせてもらいました。それでできたのが『SPEEDRIDER』です」

――ミディに対してはどのような印象を抱いていましたか?

「大好きなレーベルでした。以前所属していた『PEALOUT』というアーティストをすごくリスペクトしていて、彼らのことを色々と調べてるうちにミディを知って、僕らも行きたいなと思っていました」

――ペリカンキングが結成された1994年はカート・コバーンが亡くなった年であり、未だグランジの熱気が冷めやまない中、Kornなどのニューメタル勢が出てきたり、世界的にもロックが元気な時代でした。ペリカンキングのサウンドからもその時代の洋楽ロックの影響が感じられますが、結成時から音楽性は定まっていたのでしょうか?

「そうですね。基本はニルヴァーナなど90年代ロックを中心に色々と聴いてました。当時はオアシスとかブラーとか、その前だと、マンチェスター・ムーブメントのストーン・ローゼスとか、面白いバンドがバンバン世の中に出てきて、『バンドすげえ楽しいな』って状況でした。邦楽ももちろん聴いていたんですけど、どちらかというと90年代前半の洋楽を聴いていて...それに影響されてバンドを組んだので、やっぱりオルタナ/グランジは外せない要素ですね。だけど、僕はサザンオールスターズも大好きだったりして」

――洋楽的なサウンドの中にも、J-POP的な歌もの要素もしっかり感じられます。

「当時はやっぱり、デビューして売れたかったんですよね。J-POP的なヒットチューンも諦めてなかったですし、洋楽との融合で面白いことができないだろうかっていうのは考えていました」

――その頃は邦楽でもBLANKEY JET CITYやミッシェル・ガン・エレファント(THEE MICHELLE GUN ELEPHANT)といったアイコニックなロックバンドが出てきた時代です。当時、対バンしていたバンドも含めて、共鳴する人達はいたのでしょうか?シーンとしてオルタナティブ・ロックが盛り上がっている感覚はあったのか気になります。

「当時のことでいうと、色んなライブハウスに行って、打ち上げも朝まで居たんですけど、みんな自分たちだけで飲んで、全然仲良くならなかったんですよ(笑)。みんな、『対バンは敵』って思ってたんで(笑)。その後、結構仲良くなるんですけど、当時は自分達が一番だと思いすぎてて...。今思うと、もっと仲良くなっていれば良かったですね」

下北沢シェルターにて

――シーンを見渡すというよりは、自分たちのキャリアに専念していたんですね。今振り返ると、90年代の邦楽シーンは面白い時代だったと感じますか?

「そうですね。『SPEEDRIDER』はぎりぎり、アナログでレコーディングできましたし」

――『SPEEDRIDER』のレコーディングの雰囲気はどうでしたか?

「僕とドラムが同い年でその頃、26、7だったのですが、知識とか経験が全然無くて…。確か、大蔵さんの紹介でドラマーの三原重夫さんが毎日来てくれたり...そういった人達の力を借りながら試行錯誤でやっていましたね。大きいスタジオでレコーディングするのも初めてで新鮮だったし、単純に店屋物を頼むだけでも喜んでたくらいでした。まだバブルの雰囲気が漂っていて、スタジオが超豪華で、こういうところでプロは作品を作っていて、俺らも頑張らなきゃなって感じはありました」

――『SPEEDRIDER』の歌詞を読むと、切迫感が伝わってきます。ここには当時の心境が反映されているのでしょうか?

「そうですね。『もっと上に行きたい』というのもありつつ、せっかくいいスタジオでレコーディングできるので、凄いものを作りたいと思っていました。プロデューサーの服部さんの尽力もあり、結果としては思っていた以上のものができた感触があって、下北界隈の音楽関係者からも『良い作品だね』って言ってもらえました」

――ミックスとかマスタリングにおいて、「このバンドのこのサウンド」のような具体的な目標はあったのでしょうか。

「サウンドとかは本当に手さぐりでしたね」

――まず、音圧がすごいと感じました。少しつぶれたサウンドというか、そこがすごく洋楽的だと感じました。

「ポップとロックを絶妙なバランスで出したつもりだったんですけど、当時は『もうちょっと歪ませてほしい』って話が結構ありました。グランジにしてはクリーントーンが多いんじゃないか、みたいな。実はTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTのチバユウスケさんからコメントをもらえてたんですけど、『すげぇ〜いい』、『でもうちょっと歪ませてほしいな』みたいな感じだったんですよ。チバさん的にはもうちょっとロック/グランジ的なイメージだったのかなと思います」

――1stアルバムは良いものを作ろうっていう気概もあった一方で、反省点もあったということでしょうか?

「そうですね。こうしたい、ああしたいとイメージはありつつも、経験と知識が追いついていない部分はありましたね」

――そして、2000年にメジャーデビューアルバム『Threemen,happymoon&happynights』がリリースされます。ここで音楽的な印象がガラッと変わります。ヴォーカルがグッと前に出てきて、コーラスもしっかり入っていて、歌とメロディにフォーカスしているのが感じられます。その一方でアレンジは多彩で、展開の読めないスリリングさもあって、まさに力作です。

「当時下北で、ギタリスト/プロデューサーの弥吉淳二さんという、その後も僕の音楽の師匠になる人を三原さんに紹介してもらって、そこから弥吉さんと一緒に4人でやばいもの作ろうってなって...。メンバー以外の人と作曲・アレンジまで一緒にやるのはその時が初めてでした。伊豆のスタジオで合宿して録ったんですけど、年も近かったので毎日飲んでて…僕らに足りなかった技術や機材、経験をもっている人だったので色々なアドバイスがもらえました。めちゃくちゃ練習もしました(笑)。当時はまだシステムがアナログで、基本はバンドで一発録りだったので、今思えばなかなか大変でしたね」

――楽しいだけではない感じがしますね。自分たちを追い込んで作ったというか。

「伊豆のスタジオは車がないと移動できない場所だったので、軟禁状態で...しんどさはありましたね」

――産みの苦しみがあった一方で、作品のクオリティについてはどう思いますか?

「個人的にはすごく良いなと思っていて、前作『SPEEDRIDER』では出来なかったことが出来たと思っています。『SPEEDRIDER』は子供たちが勢いで作ったみたいなところがあって、その感覚のままでいたらガツンと言われちゃって、結構、難産だった記憶はありますね。リリースされた後も大変で、良いものができすぎて、ライブがそのレベルに達してなくて...演奏しても音源のようにならないというか...。完成した作品にはかなり満足しているんですけど、なかなか悩むところも多かったですね」

――どのアルバムにも愛着はあると思うんですけど、最高傑作をあげるとしたらどの作品ですか?

「『Threemen,happymoon&happynights』からシングルカットとしてリリースされた『I WISH U』ですね。今でも僕の中ではベストな作品です。収録曲の『再生』と『WAKE UP』もメンバー3人と弥吉さんで作った作品としては、一つの到達点じゃないかなと思います」

――このアルバムは歌詞においてもロマンチックな要素や「前に進むんだ」というポジティブさが感じられます。メジャーデビューに向けての気合いも感じますし、前作とは違う心境で書かれたのかなと思いました。

「そうですね。それこそ『SPEEDRIDER』では浮ついた部分があったものの、メジャーデビューすることになって、『よしいくぞ!』っていう風になっていたと思います」

――歌詞についてミディからディレクションが入る事はなかったのでしょうか?

「ほぼほぼなかったですね。放送禁止用語が1コか2コあって、それを変えてくれとは大蔵さんに言われましたけど(笑)。けど、大蔵さんはタケシの書く詞が好きだったみたいで」

――その1年後に3rdアルバム『MELANCHOLIA』がリリースされます。ここでまた雰囲気が変わったと感じました。1曲目がインストというのも思い切った判断ですし、ギターサウンドも空間的で浮遊感があって、シューゲイザーの要素も感じられます。アレンジも直球でシンプルなものになっていて。音楽性の変化はあったのでしょうか?

「色々ありまして、セルフ・プロデュースをすることになってできたのがこのアルバムですね。3人で今何ができるのか、というところから始まった作品で、実は序盤から結構しんどい状況ではありましたね…。それ以前の2枚はプロデューサーを付けてもらってたので、セルフ・プロデュースがどういうものなのかも分からないままレコーディング初日を迎えて...。だけど、プロデュースとは何かを少しこのアルバムで学ぶこともできました。僕はその後、他の現場でプロデュースをさせていただくことがありまして、その土台となった経験というか...。タケシが中心になってこのアルバムを作ったんですけど、弟がレコーディングやアレンジで悩んでた時に、僕らがどっちが良いかをアドバイスするっていうのをこのアルバムの制作中、繰り返しやっていた気がします。そこで制作の面白さにも気付いたり」

――学びの多いアルバムだったんですね。

「そうですね。あと、このアルバムからPro Tools(※1)を導入してるんですよ。できることが多くなったけど、その分悩むことも多くなって...まさに節目でしたね」

※1 オーディオ制作やレコーディングの現場で広く使用されているDAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)ソフトウェアの1つ

――歌詞もすごくシンプルになっていて、潔さというか、「これが最後」というような決意が感じられました。当時はどのような心境でしたか?

「歌詞を書いているのはタケシなので、あくまで側から見た印象ですが、バンドとして頑張っているのになかなか評価が上がらない時期が続いていたし、表現の方向性についても悩んでいたんだと思います。そして、葛藤の末に一番シンプルな歌詞になったというのは、あるかもしれません」

――このアルバム以降、ペリカンキングとしてのリリースはありません。

「活動を休止しましたが、解散に限りなく近かったです」

――少し切なさが漂う作品だとも思いました。

「一度リセットしないと、全員が精神的にしんどい状況でしたね。納得がいく作品を作ってきたつもりなんですけど、僕らの力不足もあって、集客もキャパも広がらずに悔しい思いもして、そんな中でメンバー間もギクシャクして...。なんとかしようと試みたんですけど、やればやるほど病みそうになる状況で、これは一回止めようと。みんなで決断しました」

――現在河崎さんはバンド、wash?のメンバーとして活動されていますが、音楽性の面でペリカンキングとの違いはありますか?

「基本的には近いと思ってます。活動休止後に2〜3個バンドやっていたんですけど、ペリカンキングみたいなオルタナをやりたいと思っていて、それができるバンドを脳内で考えてました。下北沢CLUB251で店長を10年くらいしていて、そこでwash?と出会い、良いバンドだなと思って応援していたんですけど、ベースが抜けてしまって、そこで一緒にやらないかと誘われたんです。やりたい音楽ができるならもう一回ガチでバンドをやってみようかなと思いまして」

――ペリカンキングの作品を改めて振り返った時に、どのような気持ちになりますか?

「僕は誇らしいというか、好きですね。当時の自分が考えたベースラインは、聴いていて面白いです。『もう少しこうした方がいいな』って部分もあるんですけど、それも含めて当時できることは全てやったと思います。僕にとって大事なのは大蔵さんや弥吉さんと一緒に作品を作れたこと。今回、配信で作品を改めて世に出して、聴いた人に『お!面白いことやってたんだね』と思ってもらえたらとても嬉しいです」

インタビュー・テキスト/midizine編集部

河崎雅光(かわさき・まさみつ)
1971年11月12日生まれ。wash?でベースを弾いてます。
オフィシャルwebサイト:http://wash-wash-wash.com/
インスタグラム:https://www.instagram.com/masamitsukawasaki/

midizineは限られたリソースの中で、記事の制作を続けています。よろしければサポートいただけると幸いです。