カナダの田舎暮らしの光と影 ドライブと瞑想、風力発電所の問題、そして大都会からの脱出について
電動ノコギリの音で目を覚ます。エイドリアンは作業場にいて、古びたコンロ式のエスプレッソ・マシーンのために新しいハンドルを作っていた。私は冷凍庫に寄りかかり、床に敷き詰められたノコギリの粉塵(ふんじん)やがれきが裸足に押し付けられるのを感じた。私は彼が40年後も同じことをしているだろうと言うと、彼は「そうだろうね」と同意した。そして私たちは微笑み合い、抱擁を交わした。屋根の上を叩きつけるように雨が降り注いでいた。
今日はハリケーンの予報が出ているが、私は市内へと車を走らせる。
2週間ごとに起こっていることはこうだ:火曜日は仕事の後、海岸沿いを45分間ほどドライブし、母に郵便物を届け、一緒に過ごす。それが彼女の孤独感、そして彼女をほったらかしにしていた私の罪悪感を和らげるのに十分な時間ではないにせよ。その後、20分ほどかけて内陸へと向かい、マークのスタジオで瞑想を行う。私たちはグループで1時間、静かな環境の中で座り、絶えず変化する自分たちの心と体を注意深く観察する。お茶とクッキーを楽しんだ後、私は月明かりに照らされた道を歩き、エイドリアンとマーガレットの農家へと向かい、周りの木々のささやきの中で気持ちよく眠る。翌朝、私は旅を続け、1時間半ほどかけてハリファックスへと向かう。
エイドリアンには引き続き、彼の周りの世界を作り直していてもらうとしよう。私は朝の霧と雨の中を走り抜け、湿地帯を通り過ぎ、丘を登った。私も父と同じように「ドライバー」だ。車輪付きの鋼鉄の空間の中、優れたエンジニアリング・システム(私の心はエンジン、足はタイヤだ)へと難なく体を接続することは、ある種の心の平安をもたらす。
車の運転はまるで瞑想のようで、毎瞬間、到着と出発を繰り返していることを意識させる。そしてそれは実際、かなり気持ちのいいことだ。
フロントガラスを雨が滴る。外の景色を眺めていると、周囲の丘に深い愛情を感じた。その静かな引力は、向き合い方次第で抑圧にも解放にもなり得る。今日、それは気が滅入るような閉塞感ではなく、圧倒的な生命力を象徴している。つまり、私の心の状態は正しいということだ。
ドライブ中の瞑想からの洞察:コミットメント(献身)とは、無知を通り越して根源まで到達することを意味する。つまり、これらの丘は十分過ぎるほどに「私」であり、その逆も然りだ。これらを蔑むことは、私自身を蔑むことでもある。彼らは今、私の目の前に存在し、私がいなくなった後も存在し続けるだろう。彼らは大地へと戻り、ゆっくりと塵になっていく。かつては高くて鋭かったが、今では低くて丸いアパラチア山脈の尻尾のように。
古いものは新しいものと偽装されている。丘が平らだとしても、それらはまだそこに「ある」のだ。
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アールタウン・ジェネラル・ストアは、1本の田舎道が2つに分かれる場所にひっそりと佇んでいる。アールタウンという村自体も同様だ。店とコミュニティホール、いくつかの家が点在していて、それ以外のものはほとんど見当たらない。法定速度で走っていても、村のすべてを数秒で通り過ぎてしまうだろう。
今週は店に立ち寄り、一杯の緑茶を飲み、オートミール・レーズン・クッキーを食べる。先週、私は地元住民たちと一緒に通り向かいのコミュニティホールにいた。そこには都市から来た「専門家たち」も住民たちと同数程度いた。地元住民はシミのついたTシャツとよれたジーンズを着ていて、専門家たちはシャープで伸縮性のあるビジネス・カジュアルで身を固めていた。
それは近くに建設予定の大規模な風力発電所に関するミーティングだった。地元住民は抗議に来たり、質問をしたり、無料のエッグサラダ・サンドイッチを食べたりしていた。専門家たちは勤務先のコンサルティング会社から給与をもらうために来たのだろう。
部屋にはいくつかのプラカードが半円形に配置され、それぞれに凡庸な要点の箇条書きとイラストが表示されていた。専門家たちは部屋に広がり、緊張を隠すべく過度に熱烈な歓迎をし、訪問者たちを和ませ、彼らの気を紛らわせようとしていた。
念頭に置くべきこと:ここでは携帯電話も通じなければ、警察の部隊も配備されていない。過去にはこのようなイベントがヒートアップしたこともあるので、専門家たちは恐れるべきだろう。
私の瞑想グループの一員である男性は、数年前にここで金鉱に抗議して逮捕された。これらの丘には多くの宝物がある。私たちのように。しかし、丘が私たちと違うのは、現実を受け入れていることだ。それは彼らが木や木々を通り抜ける風、岩、鉱物、動物、斜面に住む人々ではないという現実ーー彼らには失うものも得るものもない。
部屋が埋まっていく中、受賞歴のあるジャーナリスト、ジョアン・バクスター(Joan Baxter)がマイクを持って人々と話していた。ジョアンはカナダの勲章をもらうべきだと思う。彼女がそれを受け入れるかどうかは別の問題だが。
彼女はこの件についていくつかの記事を書いている。そして私の状況に対する理解は主に彼女の報道に基づいていて、以下のようになる:
それにもかかわらず、私はまだこの汚れた電力を購入し、必要以上に消費し、車を運転しすぎている上に、たばこを吸っている。私はこの小さな煙突に一日中、自分の体を汚染させることを許している。
私自身のこのような行動が、本件について判断や助言を行うことを妨げてしまうため、より資格のある人に譲りたい:
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前回の記事で、私が親になったと書いた。この世界に子供をもたらすことについては非常に恐れていた。しかしその後、世界は恐ろしいだけでなく、深遠でもあること、そして人生の目的は生きることであるということを思い出した。
当初、この連載は月刊になると思っていたが、このペースだと四半期、いや、半年ごとになるだろう。
夏が来て去って行ったことに、私はほとんど気づかなかった。最初は暑く、その後、森林が燃えた。さらには雨が降り、道路や川、地下室が洪水に見舞われた。私は子供部屋の水漏れを止めるために屋根の一部を補修しなければならず、ハリケーンシーズンの前にやるべきか、後にやるべきかで悩んでいる。
誓って言うが、このシリーズでは天気の話に終始するつもりはなかった。これを読んでいるかもしれない少数の日本人の読者に対して、私は他に何を伝えたいのだろうか?
夏にモントリオールから友達が訪ねてきた。彼らは家に入ると、笑顔を見せた。私たちはここに素敵な家を作ったが、その苦労は特定の場所を見ないと分からないだろう。それは薄れた壁の血の跡、汗と涙が蒸発し、塩として残った床のシミ、私たちの顔のシワや灰色の髪だったりする。
疲れた都会人にとって、ここは避難所のように見えるかもしれない。そのメリットは:騒音が少ない、光が多い、家主がいない(銀行を家主と考える場合を除く)、木と水に囲まれている。ここは可愛らしい町だと思う。空気は新鮮できれいだし、海にも近い。現在の基準からすると価格も比較的手ごろだと思う。これらすべてが素晴らしい特権であることを私は理解しているし、自分自身を幸運だとも思っている。
しかし、これらは犠牲も伴う:冬は長く孤立しているし、最先端の文化活動も無い、雇用の選択肢が限られており、経済も弱い、サービスセクターは崩壊寸前だし、自然災害の恒常的な脅威にも晒されている。全体的に脆弱だ。自分の幸せを維持するために気晴らしが必要だという人は、困難な時間を過ごすことになるだろう。
ここで、大都市からの脱出を夢見る人に出会うたびに思い浮かぶ詩を引用したい。
※オフィシャルではなく、midizine編集部の和訳となります
少し厳しい内容だが、ここには真実がある。楽園は場所ではなく、心の状態であり、いつでも行くことができるのだ。あるいは、とある禅の達人が「美しい山の頂上にいるなら、別の美しい山を探しに行かないで。」と言ったように。
鍵は、自分がいる山が美しい、ということを認識することだ。
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