見出し画像

祝25周年、初のアナログ化!「都会のハッピーズ」夜話 2021 by 中村ジョー

今年2021年の11月25日でザ・ハッピーズのファーストアルバム「都会のハッピーズ」リリースから25年が経つ。

その時産まれた子供が大学を出て社会人になるほど時間が経過していると思うと、すっかりこれも年代モノのレコードになってしまったのだなぁとしみじみと感慨深くなる。
あり得ないと思っていた本盤のアナログ化に伴い、以前自分のブログに掲載した<「都会のハッピーズ」夜話>を元に加筆、修正をし、ここに記したいと思う。
本盤を久しぶりに聴く人、そして初めて聴く人たちにとって、ちょっとしたスパイスになったらこれ幸いである。

バンドブームが巻き起こる1980年代の半ばの高校時代、同級生のギタリスト若林タケシ(以下ワカ)と僕は初めてバンドというものを組んだ。
THE BLUE HEARTSをはじめとするビートパンクロックを真似て始まったそのバンドは徐々にオリジナル曲を作るようになっていき、日増しにバンドというものが心の大半を占めていくようになった。
そのバンドは高校卒業後、例にもれず解散となったが、僕とワカは同じ予備校に通うようになり、先のTHE BLUE HEARTSやRCサクセション、ザ・ルースターズ、山口冨士夫らがルーツとするリズム&ブルースに感化された「阿佐ヶ谷ハッピーズ」という名のデュオを2人で組み、やがてそれは予備校の学友だった佐藤カズオをドラマーとして、友人の伝で知り合ったベーシスト菅原コオをメンバーに加えバンド編成となっていった。

僕とワカは桑沢デザイン研究所という渋谷のデザイン学校に進学、受験という荷が降りた僕らはようやく音楽活動にも本腰を入れるようになった。
予備校時代からの顔見知りで、同じく桑沢に入学したヘビィメタルギター愛好者の西ツヨシを「そんなにギターが弾けるならキーボードも弾けるよね」という全く根拠のない理由で鍵盤奏者として勧誘しバンドは5人編成となり、日本語のリズム&ブルースとして60年代のグループサウンズをモチーフとして演奏をするようになっていった。
そんな1990年初頭、僕らはきちんとバンド演奏をする場を求めて、ジャパニーズモッドの聖地であったライブハウス新宿JAMのオーディションを受け其処を活動拠点とする事となった。
新宿JAMで活動していた僕らが憧れに憧れていたモッズバンド、ザ・ヘア(当時はThe HaiR名義)にひょんなことから声をかけてもらった僕らは、グループサウンズのイニシャル「GS」を捩って「ガレージソウル」という名で「日本のリズム&ブルース」として再解釈、お互いそれを掲げて演奏を続けていく事となった。
僕らは「阿佐ヶ谷ハッピーズ」から「ザ・ハッピーズ」に改名し、新宿JAMで自主企画イベント「エレクトリック・パブ」をスタート、ヘアのあいさとう氏のプロデュースでレーベル「LOVIN' CIRCLE」より1993年にマキシシングル「ポートレート・オブ・ハッピーズ」でCDデビュー、翌年はミニアルバム「ソウルハンター」をリリースした。

「ガレージソウル」という解釈はやがて1994年よりスタートした北沢夏音氏、フミヤマウチ氏、そしてヘアのあいさとう氏を中心とした渋谷DJバーインクスティックでのDJイベント「自由に歩いて愛して」の中で更に拡大されていき、グループサウンズの他、60〜70年代の埋もれたジャパニーズレアグルーヴが「和モノ」として再生、再発見され、過去と現在を繋ぐ新たなシーンがそこに産声をあげ広がりを見せていた。僕らはそこにも出演し様々な影響を受けながらも自分たちの音楽性に悩み模索を続けていた。ザ・ヘアが真摯に過去のニューロックを現代に再生する姿を見て、あんなカッコイイ事は到底出来ないと痛感していたからだった。

僕個人は彼女の影響で徐々にGSから「はっぴいえんど」をはじめとした日本の70年代フォークロックに傾倒するようになり、ワカから教わった幾つかのギターコードを駆使し弾けないギターでようやく曲らしきものを作るようになっていた。それまでのハッピーズの曲は、ほぼ全てワカの手によるものだった。

僕の曲らしきものはやがてバンドのアレンジで「曲」となり演奏されるようになっていったが、そんなフォークロック調の曲をやりつつも、ローリングストーンズ、キャンドヒートやドアーズのカバーをし、GSのカバーもやり、ワカ作のグラム歌謡風ロックもやるという1995年頃のライブ演奏曲は常にゴッタ煮状態、正に過渡期なバンドの状態であったが、この「何でもあり」だが「ちょっと筋が通ってる」感がハッピーズの持ち味であったように思う。

そんな頃、メジャーリリースのバンドでサニーデイ・サービスというバンドが70年代の日本のフォークロック風で面白いという噂を耳にするようになる。
すると、そのサニーデイ・サービスが「自由に歩いて愛して」に出演するという。その時の僕らは共演だったのか遊びにいったのか忘れてしまったけれど、その時初めて曽我部恵一君と対面する機会を得た。
あっという間に意気投合した僕らは一気に盛り上がり、当時曽我部君が所属するMIDIレコード内で運営していたインディレーベル「HAWAII RECORDS」からハッピーズの新作をリリースしようという話となった。僕らがアルバム用の曲作りを進める最中、僕らの企画「エレクトリック・パブ」にサニーデイ・サービスが出てくれる事となった。1995年12月の事だ。
サニーデイは後にマキシシングル「サマーソルジャー」にも収録される「湖畔の嵐」という曲をすでに演奏していて「かっこいいなぁ」と唸った覚えがある。
下はその日のライブで配布したA4二つ折りのパンフレットのようなもの。(「エレクトリック・パブ」ではこのような手作りのミニ冊子を毎回配布していた。)

写真1

明けて1996年。2月にサニーデイサービスのアルバム「東京」がリリースされる。
この傑作の発表で遽にサニーデイの周辺が忙しくなるのを感じつつ、その後の春先辺りからザ・ハッピーズのアルバムの録音が吉祥寺にあるゴックサウンドでいよいよスタートする。
初のセルフプロデュースでの録音は、エンジニアの近藤さん、渡邊文武ディレクター、サニーデイ・サービスのメンバーらの助言を受けつつ進んでいった。

録音したのは僕とワカで手掛けたオリジナル11曲。ちょっと曲の解説をしてみよう。
最も古い楽曲は「野良猫’96」で、これは「ソウルハンター」に収録の「野良猫のブルース」を自分たちなりにシティポップ風にリアレンジしたもの。
そして「ハート泥棒」も94年頃からライブのレパートリーとして多く演奏してきた曲だ。

「ハード・フォーク・ブルース」のタイトルの「ハード・フォーク」は、よく遠藤賢司氏の1975年リリースのアルバム「ハード・フォーク・ケンジ」からかと言われる事が多いが、実は1982年にリリースされたRCサクセションの編集盤「ハードフォーク・サクセション」から捩ったものである。
「スカっとさわやか」はコカ・コーラのCMのキャッチフレーズを拝借したもので、70年代に描かれた大友克洋氏の短編漫画「スカッとスッキリ」のイメージも投影した一曲。
Fab4とURCフォークに感化された「昼下がりの手紙」は、実は前年にリリースされたザ・ヘアの「恋のサイケデリック」収録の「ミスターレイン」へのアンサーソングでもあると思っている。
「まるで今日は昨日みたい」は遠藤賢司氏のようなURCの静かなフォークロック曲を意識したもので、ガレージソウル時代とは違い、大声を出さず低く小さめの声で歌うのが難しかったのを覚えている。
「海沿い列車紀行」はスタジオで急遽作った曲で、ギターと歌が僕、マンドリン(曽我部君から借りたもの)がワカ、カズーが西君、ドラムのカズオは不在だったのでドラムのキックはコオ君が担当、数回練習したのみで一発録音をした。
このセッティングが面白かったので、「海沿い列車紀行」録音後に各自がブースに入った状態のまま突然録り始めたのが「それだけさ」という曲で、僕が勝手に思いつきで歌詞も含め演奏を始め、皆が曲の展開を想像しつつ演奏してついていくという、間違いばかりの音楽的には滅茶苦茶なものだったけど、面白かったのでその後シングル「女心と秋の空」のカップリングに入れることにした。今思い出してもあの時はとても面白かった。録音時のハプニングは煮詰まりやすいレコーディング中の視点を変える良い起爆剤になる。
ハプニングと言えば「キャンプファイヤー」という曲のサビの部分は、その時スタジオに居た皆でユニゾンでコーラスを入れたのだが、むせこんだ咳がそのまま残されている。これもその方が生々し面白いという事でOKテイクにしたもの。咳き込んでるのは確かディレクターの渡邉氏のはずである。
「気まぐれみっどないと」は一度録音したものの60年代のサイケデリックロック的過ぎてフォーキーさを狙う今回のアルバムに合わない気がしたので、悩んだ結果オケはそのままに、メロディと歌詞を吉田拓郎を意識し全部作り直してダビングし直した。このダビング作業を知らずに後に聞いたドラムのカズオはあまりの変わりように仰天していた。
カズオと言えば「結婚しないか」のサビで「結婚しないか〜!」と絶叫するところが嫌いだったらしく、歌う度いつも文句を言われたものだ。この曲はポップな吉田拓郎氏の有名曲「結婚しようよ」とは正反対にマイナーキーでサイケデリックなプロポーズ曲があったら面白いと思い作ったもので、バンドアレンジでワカのギターがニール・ヤングのように唸る更にヘビーな曲となった。
「女心と秋の空」は、渋谷BYG(1969年に「ロック喫茶」とし開店し、現在でもレストランバー兼ライブハウスとして続く日本屈指のロックの老舗店)でリハーサルをしていた時(当時のBYGにはリハーサルスタジオがあった)にワカから初めて曲を聞かされて、彼から「女心と秋の空ってタイトルで歌詞を書いてよ」と言われて、散々悩んで僕が歌詞を書いた曲だが、なかなか良い詞が書けたと思っている。

KOGA RECORDSから1996年10月にリリースされたスパイダースのトリビュート盤「スパイダース大作戦」で僕らがカバーした「エレクトリックおばあちゃん」の録音もこのアルバム録音の合間にゴックサウンドで行ったもので、間奏部分に僕とワカのよくわからないトークを入れたり、後奏はドラムのタムを西君が手で叩いてサンバ風にしたりとやりたい放題で楽しかった。
録音最終日、スタジオに遊びにきた曽我部君とアルバムの曲順を一緒に考え、レコーディングは終了。録音日数は総じて1週間ほど。季節は夏となっていた。

インディでのリリースなのですぐにアルバムはリリースされるかと思っていた矢先、渡邊さんから一本の電話、「出来が良かったのでメジャー流通にしたい」との事。
思ってもみなかった突然の展開で、まずは9月にシングルを、そして11月にアルバムをリリースというスケジュールが決まった。

さて9月26日に発売となるシングルは「女心と秋の空」と「ハード・フォーク・ブルース」、そして先に書いたトンデモ曲「それだけさ」をボーナスに加えた3曲入りとなった。
デザインはサニーデイ・サービスの「東京」を手がけていた小田島等君にお願いする事になった。元々小田島君とは桑沢デザイン研究所で既に友達だったので話は早かった。(ザ・ハッピーズはワカと僕と西君が桑沢デザイン研究所の出身である)
宣材のアーティスト写真撮影はジャムで馴染みの新宿で、シングルのジャケット写真はショーウンドウに文字が浮かんでいるイメージ(ドアーズの「モリソンホテル」的な)が頭にあったので、横浜元町周辺をロケハンしてたまたま見つけた「おしゃれの店 カヨ」の外見を使わせて貰う事になった。(後から知ったのだが、ここは通称「カヨコート」というオリジナルコートが有名なお店で、根強いファンの多い名店だったそうだ。2013年に惜しくも閉店。)
以下シングルリリースの宣伝フライヤー。

写真2

写真3

シングルのリリースに続き、アルバムリリースの準備も始まった。
シングルの写真撮影はフォトグラファーの大山ケンジさんだったが、アルバムは僕の彼女にお願いし、当時アルバイトしていた神宮前にある木造りのパブ「ぎっちょん」の休日を借りて諸々撮影したのだが結局ボツになり(この写真は「スパイダース大作戦」のジャケ内のアーティスト写真に使用している)、あらためて六本木から青山、外苑にかけて歩きながら撮影、その素材を小田島君に渡しアルバムジャケットの製作をお願いする事となった。
「都会のハッピーズ」というアルバムタイトルは、確かジャケの打ち合わせをしている時にワカから初めて聞いた気がする。どういった意図なのか本意は分からないが、ふざけてるようで意味深なようで、東京出身者の多いハッピーズ(カズオだけが秋田出身)自身の事を示しているようでもある。今度飲みながらワカに真意を聞いてみたいと思う。

ロッキンオンジャパン等で使われたアーティスト写真は、セントラル青山というマンションでゲリラ撮影したもの。
1970年に作られたこのマンションはいまだ健在で、写真では分からないがアールのついた玄関先の階段などもとても洒落た造りで美しくカッコいい。
以下それのアウトテイク。

写真4

アルバム宣伝用のフライヤーはMIDIでは作成しなかったので、リリース直前の11/16に新宿ジャムで開催した自主企画「エレクトリック・パブ」にて自作のフライヤーを配布した。それを見ると12月21日のライブと翌年1月にNESTで開催のレコ発ライブの告知も掲載されている。レコ発のゲストは曽我部恵一君。(当日何曲かセッションしたはずだ)

写真5jpg

毎回配る二つ折り冊子裏面にはハッピーズのセカンドアルバム「アンドロメダ急行」に収録の「マキシマム・ロック」の歌詞が掲載されている。が、この時点でもう曲が出来ていたのかは曖昧だ。

問い合わせ先がすでにMIDIになっている。

写真6

中面には幾つかのニュースと僕のコラムが掲載。アルバム発売やライブ、DJイベントの宣伝に加え、彼女が働いていた古着屋「エマ」の宣伝もしている。コラムにある大阪の「カシミール」は当時あった場所からは引越したが、現在も人気のカレー店だ。

写真7

そして1996年の11月25日にザ・ハッピーズのファーストにしてメジャーデビューアルバム「都会のハッピーズ」が遂にリリースされた。
その25年後の2021年11月27日、本盤がアナログLPとなって再リリースされる。
歴史的名盤とは程遠いながらも、20代半ばの僕たちの青春が凝縮されたこのアルバムが改めて陽の目を見ることが出来たのはとても嬉しいし、黒い塩化ビニールとなって針を落とせる事は一レコードファンとしてもかけがえのない喜びであります。
聞いた皆さんにとって、本盤が懐かしさだけでなく、新しいハードフォークとして響いてくれたら幸いです。
本作のリイシューに携わった全ての皆さんに多大なる感謝を。

※発売日は11月27日(土)!「レコードの日」のエントリー商品ですので、是非とも参加店よりお買い求めください!>>詳細はこちら

中村ジョー
1970年10月29日生まれ 蠍座 O型。 90年代初頭に結成した「ザ・ハッピーズ」のボーカリストとして音楽活動をスタート。グループサウンズ、昭和歌謡、黒人音楽、70年代フォークロック等に影響を受けたサウンドでファイルレコードで作品を発表後、96年MIDIレコードよりメジャーデビュー。2枚のアルバムを残し1999年解散。 解散後はソロユニット「JOEY」として活動。後期はガレージロックバンドに姿を変えMIDIレコードより2枚のアルバムを発表後2002年解散。 2003年よりアコースティックギターでの弾き語りをメインとしたソロ活動を開始。サポートメンバーを交えた「中村ジョーグループ」名義でのライブ活動も行う。 2006年ROSE RECORDSよりファーストアルバム「Blue Box」、2009年にセカンドアルバム「Sweet Heat」をリリース。2012年5月、福岡史朗をプロデューサーに迎えたサードアルバム「風船と口笛」をリリース。 2014年には原点回帰のガレージソウルでシティッポップな楽曲を演奏する中村ジョー&イーストウッズを結成。

Official Website: https://joenakamura1970.amebaownd.com/
Twitter: https://twitter.com/joe19701029

midizineは限られたリソースの中で、記事の制作を続けています。よろしければサポートいただけると幸いです。