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阿佐ヶ谷

 ようやく店で酒を飲めるようになった。ただ、長期にわたる緊急事態宣言で牙を抜かれたのか、はたまた、寄る年波なのか、量は程々というか少なめでよくなった。最後に焼酎をロックで言いたいところだが、既にラストオーダーの時間は過ぎ、残っている瓶ビールを飲み干して早めに帰路に着くことになる。千鳥足にはならないし、楽器の重さも気にならない。駅の階段もすいすいと上れる。これくらいで良かったのだ、と終電よりは大分早い時間の電車で悠々と着席する。ほろ酔い程度なので、読書も出来る。寝過ごして行き過ぎる事も無い。この先の自分の酒飲み人生はこの修正によって細々と続いては行くのだろう、という予測は容易く、良い方に考えることにする。

 この10月からはライヴが少しずつ増えてきた。ただ緊急事態宣言解除で急に入ったものもあり、入場制限の断りはなくとも、客席はまあ空いている。それもそうだ、演奏開始が18時や19時。その時間に来られるお客さんは限られる。だが我々はいつものように開場1時間くらい前には店に入り、リハーサルやサウンドチェックをして、何人か、または一人で夕暮れの街に出て行く。軽い腹ごしらえだったり、少しの酒とつまみだったり、で小一時間ほど過ごす。時間が少し早くなっただけで、まあ以前の日常に近い。そんないつもよりちょっと寒い10月だが、今月は阿佐ヶ谷に何度も降り立った。

 この阿佐ヶ谷はもう随分馴染みの街なのだ。20代半ばの1980年代中盤から十数年を荻窪で過ごした。荻窪と言っても、駅までは20分は歩く閑静な住宅街、環八の外側で早稲田通りの近くの閑静な住宅街に部屋を借りていた。その所為だったのだろうか、荻窪駅に降りるともう帰ることだけを考えてしまうので、帰路の寄り道は専ら阿佐ヶ谷が多かったのだ。丸ノ内線から早稲田通りまでとかなり広範囲だが、中杉通りはよく歩いた。青梅街道の書源や早稲田通り近くの小さな本屋はなかなかのお気に入りの場所だった。パールセンターを歩くことも多かったが、そこから別れるすずらん通りの青梅街道近くの町中華もよく入った店の一つだ。まだ外で酒を飲むことは少なかったが、元茶屋、あるぽらん、キロンボ等は何回かは行った。暫くして、バレルハウスという店を教えてもらう。アフリカ音楽のビデオが観られたのだ。

 そのバレルハウスの話は後に述べるが、暫くしてその店の雑居ビルの奥にラピュタ阿佐ヶ谷が出来た。ラピュタの前の道路は普通のアスファルトだったのだが、この建物が出来て、道路も土と石になった時は驚いた。ここの地下のザムザ阿佐ヶ谷では何度かライヴを演っているが、DVDにもなっているカルメン・マキさんの45周年記念コンサートは記憶に新しい。

 そして随分昔だが、この街では興味深い録音も幾つかあった。中杉通りの駅南側を少し入ったところにSpace Velioという録音スタジオがあり、最初の訪問は篠田昌已さんとの劇判録音で関島岳郎さんと私とのトリオだった。今やチンドンのスタンダード的でもあるコンサルタント・マーチはこの時が初録音だ。その後の野戦の月の最初の録音も此処だった。その後Space Velioは近くに移転し、高田渡さんやオフ・ノート関係でも何回か新スタジオで録音をした。新旧共に居心地の良い集中しやすい環境だったと記憶している。

 さて、そのバレルハウスは何かと良く立ち寄っていたが、そこの二代目店長に就任したのが、矢野間健さん。大学時代に私が所属していたサークルの先輩で、当時ピンク・フラミンゴスというソウルバンドのヴォーカリストだった。初めて観たのは渋谷のホーカーヴィレッジ(ブラックホークの姉妹店)。ジェームズ・カーやスペンサー・ウィギンス等がレパートリーでバシッと決まっていて、もうその歌にノックアウトされたのだ。その矢野間さんがマスターということであれば、昔の仲間が気兼ねなく集まり、気がつけば過ごしやすい酒場になっていた。ブレイブ・コンボの日本ツアーの打ち上げもここで行われて、メンバーとも片言だが話す事が出来た。中でもリーダーのカール・フィンチがアシュリー・ハッチングスと電話で会話した話は、内容ではなく、フィンチ氏の興奮ぶりが純粋で、フェアポート・コンベンション、スティーライ・スパンにアルビオン・カントリー・バンド等々、話に花が咲いた。
 荻窪時代はまだ若かったので、終電を逃しても阿佐ヶ谷なら問題なかった。何度か歩いて帰ったが、夏の夜なら気持ち良かったし、時折青梅街道の深夜営業の今で言う町中華のコタンの笛にも寄った。

 そしてまたまた時が経ち、今世紀に入る前に私は荻窪を離れ、ちょっと阿佐ヶ谷は遠のいた。ただ、都心への車移動は必ず青梅街道を使うので、書源には時折寄っていたが、そこももう無くなってしまって久しい。それでも昔の仲間が東京に来るという知らせがあれば、やはりバレルハウスだった。皆一応に仕事も順調で充実しているのがよく分かった。

 2000年代初頭は忙しく、東京にいない日々も少なくなかった。日本中隈なくギターを担いでいたし、ママドゥ・ドゥンビア&マンディンカやシカラムータでの短くはない欧州ツアーもあった。そんな状況が10年ほど続いたが、やがては落ち着く。東日本大震災というのも、今にして思えば一つの境目、節目のようにも思える。再び阿佐ヶ谷に戻ってきたのは、それから然程時を経ていない頃だった。
 矢野間さんがバレルハウスを卒業して、自身の店を阿佐ヶ谷駅前に持ったのだ。それがSOUL玉Tokyo。駅から歩いて1分もかからずの立地条件だが、この店のネーミング。最初は全くどうかしてる、と笑ってしまったものだが、いまやすっかり慣れたし、何より検索しやすい、そして耳に残る。

 そろそろ開店して10年にはなるSOUL玉Tokyo、やはりコロナ禍でライヴのブッキングは見合わせていたが、緊急事態宣言解除の様子見でこの10月は3度出演した。久しぶりに阿佐ヶ谷での “この” 感じを味わった。一部と二部の休憩中の落ち着きと終演後の心地よさと美味い酒。その時はまだ生ビールのサーバーが稼動できていなかったが、それでもちょっとした日常が戻りつつある予感は大いにある。久しぶりにカウンター越しの矢野間さんと話をしたが、ひとまず今回の危機は乗り越えつつあると感じた。そしてその終演後にかかっているレコードがいつも自然に染み込んで来るような、良い選盤なのだ。
 店名からも想像できるが、ソウルやR&Bがよくかかっている。だが、その偏りが面白い。この間たまたまカーティス・メイフィールドの話をしていたら、やっぱり、これだよ、と言ってメイフィールドが抜けたインプレッションズのLOVING POWER。ああ、これは持ってないけど良いんだよな、と話が弾む。そして、あまり女性ソウルシンガーはかからない。スティーヴ・マリオットはメイヴィス・ステイプルズ説は認めているにも関わらず、ステイプル・シンガーズはかけない(リクエストしたら大丈夫だけど)。その代わり、ハンブル・パイはよくかかっている。キャンディ・ステイトンはかかるが、アリーサ・フランクリンはかからない。でもケイト・ブッシュはしょっちゅうかかっている。ここでオールマン・ブラザーズ・バンドを聴いたことはないが、マーシャル・タッカー・バンドはいつもターンテーブル近くにある。そういう偏りが面白く、新しい発見もある。いつだったか、ロギンス&メッシーナのアルバム『Native Sons』の話をした。これは私がL&Mで一番好きなアルバムだが、一曲だけどうも馴染めなくてしまいに飛ばして聴くようになった作品だ。そんなことを矢野間さんに言ったら、その曲はこのアルバムで俺が一番好きな曲、と鸚鵡返しの答えで、その曲の素晴らしさを語ってくれた。成る程、とこれで少なくともその曲を飛ばすことは無くなった。
 環境が変わると、音楽の聴こえ方も変化する。もちろん自分の蓄積による審美は根底にあるが、自宅で真剣にその音源に対峙している時とライヴ後のリラックスした一杯のひとときとでは響き方がかなり違う事もある。例えば、O.V.ライト『A Nickle and A Nail』。家で一人で向かい合っていると、切実さが募り、またこの音響にも耳をそばだてる。もうA面だけで休憩してしまう。だがSOUL玉TokyoのJBLを小さめの音量で聴くと、厳しい声質だが優しく包まれてしまう。歌手は大多数に向けて歌い録音しているのだが、クリアな条件で聴いていると、自分だけに向かっているように錯覚する。やはり時にこういう環境で入り込まれる事は、重要であり快感であり、新たな発見もあるのだ。そして『A Nickle and A Nail』、松永孝義さんが熱く語っていた事も思い出す。


 さて、まだまだこの酒場でのエピソードは尽きないが、次回はホープ&マッカラーズと塚本功、11月9日です。
 予約はSOUL玉Tokyo、souldama@gmail.com まで。

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(写真)duo with 高岡大祐(tuba)

 そして、11月第1週は高岡大祐さんと関西です。詳細はhttp://www.bloc.jp/skri/ で。
 よろしくお願いします。

桜井芳樹(さくらい よしき)
音楽家/ギタリスト、アレンジやプロデュース。ロンサム・ストリングス、ホープ&マッカラーズ主宰。他にいろいろ。
official website: http://skri.blog01.linkclub.jp/
twitter: https://twitter.com/sakuraiyoshiki

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