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静岡

 関西方面からの帰り道、工事による少しの渋滞に遭い静岡付近で高速道路を降りてしまった。その日のその後の予定はなくただ帰宅するだけなので、のんびり戻ろう、という判断も働いたし、夕食にはまだ少し早い時間だったが、いずれにせよサービスエリアで摂ることになる事を考えたら、街に出て少し気分を変えて再度帰路に就く方が望ましい、と思ったのだ。とは言え、酒は飲めない。ああ、静岡といえば、駅在来線のホームのスタンド。あそこのおでんと少しの酒、なにより駅のホームだ、去り行く人や佇む人の中での一杯、私にとっての酒の味はその場所の空気と同じようなものだ。
 とりあえず車で市街地方面に向かってみる。道すがらこの地区では有名なハンバーグのレストランがあるが、夕暮れ間際、既に数組が空席待ち、並んでまで食べる気はない。そして、更に街中へ進む。静岡駅付近。あそこの蕎麦屋は前に入ったところかな、なんて看板も見つける。酒とおでんと蕎麦、これはいい、もう今日はここで泊まってもいいような気にもなるが、さっき並んででもハンバーグを食べていればこんな誘惑もなかったはずだ。そしてそのまま車を走らせながらこの地でのことをいろいろ思いだした。この県庁所在地の静岡市で演奏したことは然程多いわけではないが、かと言って指おり数えてすぐ終わるほどではない。30年以上前だろう、パルコのようなショッピングセンターの前で営業のような演奏をしたこともあったし、FM局の出演の為だけに新幹線グリーン車での日帰りもあった。ただ、なんと言ってもこの地での演奏で印象に残っているのは、かれこれ古くは25年は前だが、今や世界を代表するバンドネオン奏者である小松亮太さんのバンドでの演奏の数々だ。

 さて、ここからは親しみをこめて、いつものように君づけで呼ばせてもらおう。亮太くんとの初対面はTANGOS(南流石、渡辺貴浩、角田敦、OTO)のツアーだった。私はサポートメンバーの一人として、彼はゲスト的な参加だったと思う。バンドネオンという楽器を生で見るのは初めてだったし、何よりちょっと小生意気な少年がなんだか見たこともないような指の動きで楽器を操っているのか、いや、楽器に操られているのか、そして大音量のステージの中でとんでもない角度から聴いたこともない音が響くではないか。この日本にこんなやつがいたのか、と驚いたが、彼が足立区は北千住の出身と聞いて一気に親近感が湧いた。私は大学4年から卒業しての一年間を北千住でアルバイトをして過ごしたし、高校時代の友人も多く、その頃からとにかくこの街で遊んでいた。その街をよく知ると友人含めそこに住む人たちにも愛着が湧くし、また悪いところも見えたりするが、それも含めて地元と言ってもいいくらいだった。高校時代にしょっちゅう足を運んだ駄菓子屋の座敷でのもんじゃ焼きの話を彼とした時は、たまたま会った奴が同郷だったみたいな嬉しさがあった。私とは干支一回りくらい歳は若いが、両親ともにタンゴの演奏家ということも影響しているのだろう、私が育った東京下町と言われるところより更に下町の昭和の場末感とでも言おうか、そういうものを同じように体験していたのだ。

 多分そのツアー中に亮太くんとアストル・ピアソラの話を少しはしたのであろう。ただその時は私はまだバンドネオン、タンゴ、で知っていることはピアソラとラ・クンパルシータだけだった。少し月日は遡るが、私が北千住でのバイトを辞めて福生に引っ越した頃、テレビでピアソラの日本公演を観た。偶然だったが釘付けになった。おそらく二回めの来日公演の様子だということは後々知る。とにかくそれまでの私が知らない音楽だったが、当時の私の音楽的能力では全く追いつかない聴いたこともないものだった。が、しばらくして『タンゴ・ゼロ・アワー』というアルバムが発表され、やはりとんでもない音楽であることを再確認するが、80年代後半は他にも知りたい音楽が山ほどあり、演奏の技量向上やアイデアの蓄積に日々を費やす。スタジオでもまだ旧来のフェンダーの今でいう極上のトーンは古臭いと言われ、まだまだニューウェーブ感も残っていた頃だ。が、そんな中ワールド・ミュージックのブームもあり、サニー・アデ再確認で西アフリカの音楽も聴き直す。当時参加していたミスター・クリスマスというバンドもその方向にシフトし、それでJagatara~TANGOSに繋がった訳だが、その時にまたピアソラも聴き直しリベルタンゴを知るのだった。
 暫くして、亮太くんからピアソラの大編成を曲をやるプロジェクトへの参加要請があった。気軽に二つ返事で引き受けたのだが、後日楽譜が届き驚いた。音符で真っ黒だった。私がそれまでに経験したスタジオセッションはほぼコード譜で音符といえば、ユニゾンのリフくらいなもので、現場で誰かが口ずさんでくれて、少しの時間で対応できた。が、これは違う、四分音符一つの筆圧ですら、これを弾かなければならない、という明確さがありありと分かり、そうしなければならないと感じるが、いや、違う、自分が出来うる限りにそうしてやろうじゃないか、という心意気で応えたいと思わせるものだった。だから、とにかく練習した。大変な音楽だった。ただ構造も少しわかって来たが、ギターを弾くということでは、それだけで手いっぱいだった。とにかくビート、そのリズムの構造と場面転換はロックやブルーズから演奏をスタートした者にとってはあまりにも全てが初めてのものだった。
 それが入り口で、その後亮太くんのキンテート(五重奏団)に参加し、ピアソラ以外も知り、日本全国色々なところでタンゴを弾いた。他の様々な仕事と並行していたので、タンゴの演奏の特殊さにギアを切り替えることは簡単ではなかったが、もうその音楽にとても魅力を感じるようになっていた。そして、本番中のメンバー同士の演奏の呼応にゾクゾクした瞬間も感じ取れるようになった。

 私は自分なりの研鑽でタンゴを演奏し、最初にふれてからもう25年ほどは経っているのだが、この音楽の魅力を語るのはまだまだ荷が重い。そのタンゴを根本から整理して提示してくれたのが『タンゴの真実 小松亮太著』( https://www.junposha.com/book/b561326.html )である。あなたがタンゴ、いや音楽のことをもっと知りたい、この音楽の感動はどこから来るのか、そういうものの成り立ちから現在がここにある。

 タンゴはとにかく情報量の多い音楽だ。それを音楽的にいともスマートに流したり、また一糸乱れず力技で推し切ったりするが、それでも3~4分で曲が終わる。こんなに練習しても3分かよ、とキンテートの最初の頃はステージで気が遠くなったが、ピアソラの楽曲は長尺のものも多く、譜面から逸脱してもかまわないような場面も時にはあり、そのおかげで少し気は楽になりなんとか役割は果たせていた。いまやタンゴを語る上でアストル・ピアソラの名は欠かすことが出来ないが、そのバックボーンは『タンゴの真実』に記されている。タンゴはジャズやロックと同じく作られて来た音楽であるが、興味深いのがブエノスアイレスというほぼ一都市で作られ、それを譜面に記す。その街でしのぎを削るのだ。いまでこそインターネットで情報は溢れているが、生の情報はやはり強い。急激な特異な発展もうなづける。音楽的情報もてんこ盛りだ。
 ところが小編成のキンテートになったピアソラは編成上致し方ないとも言えるが、情報量を操作する。それが非常に巧みで、私は今でも新しい発見があるが、後期80年代のキンテートはその操作を置き去りにする場面も多々ある。メンバーのパーソナリティーがクローズアップされ、エモーショナルになる。ライヴ盤が多いのでそのうねりはより顕著だ。もう血や肉だけで聴衆に委ねる場面を設けたりすることもある。ただそれは媚びではない、そのメロディやリズム、はたまたムードだけで良い場面、みたいな感覚は素晴らしい”大衆”音楽の大事な要素だ。誰しもあるだろう、そのメロディ、その音色で、ふいに自分の個人的な過去を思い起こしたりすることが。悪いことではない。それもまた音楽の力なのだ。そしてジャズやロックに親しんで来た人々に届くことになるのは周知の通りだが、よく聴けば、60~70年代のキンテートのエッセンスも見え隠れする。それでいてエッセンスに近づいてくれない方が多くないのも現状で、それは亮太くんがこの本を書くにあたっての命題の一つだったことであろう。ピアソラを例に挙げたが、その後ろの沼にはとんでもないものがまだまだ溢れている。
 タンゴに対する誤解には、ブームの弊害もあったはずだ。日本において、戦前のことはこの本に委ねるが、戦後は私たちの世代だとロカビリー~ビートルズ以前の軽音楽との後認識がある。私が持っている何枚かの日本盤SP盤にも軽音楽と記されているが、もちろんそれにはコンチネンタル・タンゴも混在する。当時のハワイアンやスイングも軽音楽だが、それらとは違う気品の高さというか、そういうものが昭和30年代の経済成長もあり、おそらくハイカラな輩が好んだことだろう。もちろん純粋に楽しんでいた方も多いだろうが、俺はあいつらとは違う、みたいなところもくすぐる音楽でもあった。それでもブームになったのだ。極端に想像すると、洒落た「違いの分かる男」が酒宴で若い女性の手を取り踊るのに、これほど紳士的な音楽はなかったのだ。その「違い」というのが、その後の弊害、誤解に繋がる部分のあるとは思うが、これはあくまでも憶測なのでこれ以上は書くまい。英米のポピュラー音楽が巷を席巻したビートルズや北米のR&B等、音楽は聴こうが踊ろうが楽しみ方は人それぞれだし、もちろん戦後のダンスホール等の場所でも軽音楽を皆それぞれに楽しまれていたはずだが、タンゴにおいてはショーとしてのエンターテイメントのダンスや社交ダンスという側面ももちろん重要な要素だ。このタンゴというものが色々な面で何か特別なものを生み出す強烈な磁場を持っているとしか思えない。
 音楽的要素含め何重にも様々なことが入り組んで、しかもブームになったほど知られた音楽だが、元は一つの街でしのぎを削るように研鑽された。こんな特殊なことはそうそうないと思うが、それに輪をかけるかのごとく中心にあるのが、ドイツで生まれたバンドネオンという楽器なのだ。
 私は今一度読み返しているが、とにかくあなたがタンゴを知らなくとも音楽というものがかけがいのないものであるのなら『タンゴの真実』は読むべきものだ。タイトル通りにこれは真実だと、私も確信する。


 ああ、話は静岡から逸れてしまった。そして今更ながらに断っておくが、今回は酒は飲んでいない。この静岡市での演奏の思い出を記そう。この地で洋品店を経営する方だったと記憶するが、その方が亮太くんを応援してくださったのであろう、関西方面にツアーするときは必ず立ち寄っていた。時にはナイトクラブというかちょっと一杯が高価そうな店だったりもしたが、あるとき新聞社の小ホールで演奏した。まだまだ私が全体の出来を感知する余裕もなく、自分が間違えないようにするのが精一杯だったころだ。本番後、私に来訪者があった。呼ばれてその方にお会いしたら、車椅子で目の不自由な方だった。見ず知らずの方で「あなたの音がとても良くて、ご挨拶したかったのです。」と言われ、握手した。この時のこの言葉は私がこの仕事を続けている大きな励みとなっている。
 この静岡での宿は決まって同じビジネスホテルで二人部屋や三人部屋は当たり前だったが、楽しかった昔の思い出だ。

 そんな思い出を噛み締めていたら、亮太くんの新譜がリリースされ送られて来た。

小松亮太 ピアソラ:バンドネオン協奏曲 他

 協奏曲と銘打っているのでクラシック的と感じる方も多いとは思うが、これはとてもキャッチーな曲だ。メロディーは一瞬で口ずさめる。この曲は20年ほど前に私も参加した小編成の録音があるが、その時とは格段に大きいバンドネオンの息遣いが素晴らしい。聴き惚れてあっという間の22分だ。
 他の曲にも驚いた。「コルドバに捧ぐ」「AA印の悲しみ」は私が参加した’95年の録音ではないか。それこそ、先の静岡でのライヴの頃だ。同じ会場での録音だが、「コルドバ~」は無観客で「AA~」は観客入りライヴ。ライヴの方では私はそぐわないテレキャスターを使っていたようで音色がちょっと浮く。録音全体のバランスも致し方ない部分も多いが、なんだか蠢いているバンドネオンが心に残る。まるで深海で大汗をかいているようなもがき方だ。そしてボーナストラックは昨年のまだコロナ禍がこんなことになるとは知る由もない頃に亮太くんとのデュオで録音した天気予報テーマ曲の小品「雨上がり」。奇しくもこのアルバムは私が音楽家小松亮太に関わった最初期と最新の録音が収められている。
 そして「ロコへのバラード」。藤沢嵐子さんの素晴らしさは言わずもがなだが、冒頭その艶っぽくも凛としたMCの後ろ、バンドネオンに導かれコントラバスの一音が弾かれる。背筋がピンとなった。紛うことなき松永孝義さんの音であった。

桜井芳樹(さくらい よしき)
音楽家/ギタリスト、アレンジやプロデュース。ロンサム・ストリングス、ホープ&マッカラーズ主宰。他にいろいろ。
official website: http://skri.blog01.linkclub.jp/
twitter: https://twitter.com/sakuraiyoshiki

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