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【アーカイブス#17】音楽の力の大きさと美しさを知る。スタッフ・ベンダ・ビリリ *2010年9月

 今年の8月は、猛暑というか炎暑の中、24日間連続で九州や中国、そして四国と歌の旅を続けた。とても楽しかったものの、あまりにも長期のツアーは61歳にはちょっときつすぎた。今度からはもう少し短くしようと反省するところがあった。
 ところが9月中旬からの秋の歌の旅、これも何やかんやで繋がってしまい、連続18日間という長期のものとなった。9月19日の長野県高遠ブックフェスティバルでのライブに始まり、その後島崎智子さんと二人での「鰹節ツアー」が、20日から28日まで続き、その後はまたひとりで10月6日まで旅が続く。

 自分が歌って旅をするのは、ほんとうに楽しく仕方がないが、残念なのはほかの人たちのコンサートやライブにほとんど行けなくなってしまうことだ。この秋はどうしてもライブを見たいミュージシャンの来日公演がいろいろとあったりするのだが、自分のライブの日にちとばっちり重なってしまったりして、行くことができない。
 中でもいちばん楽しみにしていたのは、コンゴ民主共和国から初めて日本にやって来るスタッフ・ベンダ・ビリリのコンサート。彼らは9月25日の宮城から10月17日の東京三鷹まで、三週間にわたって日本各地で12回の公演を行うことになっている。
 ところが10月11日の日比谷野外音楽堂、10月17日の三鷹市公会堂の二つの東京公演の日はすでに自分のライブが入っていて、それなら10月10日の横須賀は、10月2日のつくばは、9月26日の焼津はと、徐々に距離を伸ばして行っても、どの日もやっぱり自分のライブと重なってしまっていた。
 もっと足を伸ばしてもいいと思っても、福島も愛知も大阪も福岡も長野も、彼らの公演はすべて自分のライブと重なってしまっている。もう諦めるしかないとがっくりきていた。
 しかし今回の18日間のぼくの歌のツアーの中で、急遽予定が変更になって、一日だけぽっかりと日があいた。それが9月29日で、何とその日には大阪の堂島リバーフォーラムでスタッフ・ベンダ・ビリリのコンサートがあるではないか。ぼくのツアーの予定は、9月28日が名古屋、そして29日がオフで、30日が東京だ。それからまた三重や大阪、京都、岐阜を旅することになっている。
 千載一遇のチャンス、これはもう大阪に飛んで行くしかない。もちろんぼくは名古屋の翌日、大阪まで行き、スタッフ・ベンダ・ビリリのコンサートを見ることにした。行かなきゃ、一生後悔する。

 ほかの多くの人たちと同じように、ぼくがコンゴのスタッフ・ベンダ・ビリリのことを詳しく知ったのは、フランスの二人の映像作家が、スタッフ・ベンダ・ビリリの活動を五年間追い続けて作ったドキュメンタリー映画『ベンダ・ビリリ! 〜もうひとつのキンシャサの奇跡』によってだった。彼らのアルバム『屈強のコンゴ魂』は、すでに2009年3月に日本発売されていて、それを聴いて心揺さぶられてはいたけれど、やはり映像での衝撃はとんでもなく激しかった。


 2004年にフランスの二人の映像作家、ルノー・バレとフローラン・ドラテュライが、コンゴ民主共和国の首都キンシャサの街を訪れた時、路上で演奏をしている一団と出くわした。二人は彼らの音楽にたちまちのうちに心を奪われた。
 メンバーの多くは車椅子に座って歌ったり、演奏したりしていた。コンゴではワクチン接種が行き届かず、小児麻痺で下半身不随になってしまう人たちの数がとても多い。彼らに仕事はなく、それで家もなく、段ボールの上で眠るホームレスの生活を余儀なくされたりする。
 しかしそうした逆境にめげることなく、彼らは自分たちの生き方や現実を明るく逞しく歌い、音楽で自分たちの未来を切り拓こうとしていた。それがスタッフ・ベンダ・ビリリだった。ベンダ・ビリリとは、「外面を剥ぎ取れ」という意味で、彼らの音楽は「自分たちの内面の精神を見よ! 精神はどこまでも自由だ」というメッセージを伝えるものだった。

 スタッフ・ベンダ・ビリリは路上や動物園の中などで練習を重ね、新しい歌を作り出し、楽器がなかったらさまざまな廃品を利用して、手作りの楽器を発明した。そのうちストリート・チルドレンだった子供が、ブリキ缶に弦を張って自分で作った1弦ギターのサトンゲを持ってメンバーたちの前に現われた。
 路上で歌い続けるうち、スタッフ・ベンダ・ビリリはキンシャサでよく知られる存在となり、やがてはCDもヨーロッパのレーベルから発売され、ヨーロッパ公演も行われ、その存在が世界に知られるようになっていった。
 そのスタッフ・ベンダ・ビリリの五年間の物語が、メンバーと映画監督、お互いが信じ合い、心を通い合わせなければ絶対に撮れない映像ばかりで綴っているのが映画『ベンダ・ビリリ! 〜もうひとつのキンシャサの奇跡』だ。試写会でこの映画を見たぼくは、彼らが信じ、享受し、きちんとかたちにしているあまりにも大きな音楽の力というものに打ちのめされ、感動もさせられれば、感涙もさせられ、音楽は素晴らしい、ほんとうにいろんなことを変えることもできるのだと、改めて思い知った。映画はすでに東京などでは公開され、この秋から冬にかけて日本各地で上映されることになっている。

 そのスタッフ・ベンダ・ビリリが日本に来てコンサートをするのだ。彼らのコンサートが見られるのなら、どこへ行くのも遠くない。名古屋から大阪なんて、すぐ隣ではないか。

 9月29日、この日は朝からわくわく。お昼過ぎに経費節約のため名古屋から近鉄特急に乗って大阪へと向かう。しかもチケットは金券ショップで購入。
 スタッフ・ベンダ・ビリリのコンサート会場は堂島にあるリバーフォーラムで、ぼくは初めて行く場所だ。堂島のこのあたりは、40年以上前、ぼくがまだ大阪に住んでいた頃と比べて、すっかり様変わりしてしまっている。とてもきれいで新しい街になっているが、何だか大阪らしさがなくなって、日本のどこの街とも一緒になってしまったようで、ちょっと寂しい。
 ホールはほぼいっぱいの入りだが、客席の椅子があちこちちらほらとまだ空いている。やはり前の方で見たいと、どんどん前に行くと、最前列の席がいっぱい空いていた。あっ、すごいぞ、最前列で見られると思ったら、そこはハンディキャップのある人たちのための席だった。最前列はコンサートを聞きにきた車椅子の人たちなどで埋まっていった。ぼくは二列目の端の方の席に座る。

 スタッフ・ベンダ・ビリリの来日メンバーは全部で8人で、前の方に車椅子に座った5人、バンドの作曲家で見事なギターを弾いて歌うココ、リーダーのパパ・リッキー、ギターも弾くテオ、ラッパーのカボセ、ダンサーでもあるジュナナが並び、後にはサトンゲのロジェ、手作りドラマーのモンタナ、そしてベースのカバリエがいる。
 コンサートが始まると、スタッフ・ベンダ・ビリリは、ぼくがアルバムや映画ですでに何度も聞いている歌を次々と演奏していった。後ろのスクリーンには、歌詞の大意も映し出され、彼らがどんなことを歌っているのかがきちんと伝わって、とてもよかった。
 代表的な曲がほとんど演奏されたが、アルバムや映画で聞いた時と比べ、スタッフ・ベンダ・ビリリの歌や演奏は、ぴったりとひとつに纏まり、勢いも増せば洗練もされ、その高くユニークな音楽性がより鮮明に出て来ているように思えた。みんなでのハーモニーもほんとうに美しくて力強く、アフリカのコーラス・グループの素晴らしさを、スタッフ・ベンダ・ビリリもしっかりと見せつけてくれた。

 小児麻痺で下半身不随になった車椅子のメンバーが中心のバンドということで、スタッフ・ベンダ・ビリリは話題になることが多い。ともすればそのことばかりが取り上げられ、肝心の音楽のことがあまり触れられなかったりすることもある。
 もちろん逆境をものともせず、障碍(しょうがい)を抱えながらも、「再起不能なんて絶対にない」、「人生に遅すぎるということはない」、「子供たちの世話をちゃんとしてほしい」と歌う、彼らの特別さはきちんと受けとめるべきだとぼくも思う。ただ万が一にも、彼らのことを車椅子を売り物にしている「際物」バンドではないかと、ほんのちょっとでも考えている人たちがいるとすれば、その醜い考えは即刻見つめ直してほしい。
 車椅子バンドということで話題にはなっていても、彼らの人気がここまで広がり、彼らの音楽が世界で受け入れられていっているのは、入口となった話題性だけにとどまることなく、彼らの音楽そのものが豊かで素晴らしいからこそなのだ。
「際物」という言葉がぼくは大嫌いだが、もしそういう音楽があるのだとしたら、それは売れることばかりを考え、外面ばかりを飾り立て、心の中を見ようとはしない音楽のことを言うのではないだろうか。

 映画『ベンダ・ビリリ! 〜もうひとつのキンシャサの奇跡』を見て、かなり泣いてしまったぼくなので、スタッフ・ベンダ・ビリリのライブを見たら大泣きするのではないかと不安だったが、ぼろぼろに泣いて嗚咽がとまらないとか、鼻水がとまらないということはなかった。
 でも彼らの明るく力強いハーモニー、前向きなメッセージ、ステージや客席を駆け回ってサトンゲを演奏する若者のロジェの姿を見ていると自然と涙が浮かんでしまう。車椅子の上でからだを揺らして踊るメンバーたちも素晴らしかったし、ジュナナが車椅子から飛び降りてめちゃくちゃ踊り回った時は、やはり大泣きしてしまった。
 でもぼくがいちばん感動したのは、そんな彼らの姿をじっと見つめ、力の入らない手で思いきり手拍子を打ち、メンバーと目と目を見合わせ、ほんとうに楽しそうに演奏を聞いていた、ステージの真ん前の車椅子の女性の姿だったかもしれない。彼女を喜ばせ、彼女の心を躍らせている、音楽の力の大きさや美しさを、ぼくははっきりと見てとることができた。
 音楽ってほんとうに素晴らしい。生きるためになくてはならないものだと改めてぼくは思う。

中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html

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