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HACOへのロングインタビュー!生い立ち、作曲への初期衝動、アフター・ディナー結成からソロまで、その軌跡を辿る

アヴァンポップ・グループ、アフター・ディナー(After Dinner)やホアヒオ(Hoahio)での活動が世界的に注目されている、音響系ミュージシャン、HACO。音楽活動を開始した80年代初頭から現在に至るまで、ソロ・コラボレーション問わず、数々のプロジェクトを展開し、近年はサウンドアートの文脈でライヴ・インスタレーションやレクチャー、ワークショップも精力的に行うなど、活動の幅を広げています。 

HACOは1995年、ミディ・クリエイティブ(MIDI Creative)より初のソロ・アルバム『HACO』をリリース。全11曲の本作は、アンビエントやエスニック、ミニマル、ポストパンク、電子音響、アヴァンギャルド、ポストロックなど、どれをとってもオリジナルなパワーを持つ、HACOにしか作り得ない音楽となっています。

そんな名作として誉れ高い『HACO』が1月24日(水)、世界的なアンビエント/ドローン・アーティストとしても活動する畠山地平氏によるリマスタリングで、再発リリースされました。今回、midizine編集部はHACOへのロングインタビューを行い、40年以上にも及ぶ音楽活動の軌跡を振り返ってもらいました。

HACO『HACO』(1995年)
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ーーリマスタリング版『HACO』のライナーノーツ(執筆は門脇綱生氏)によると、学生時代はスロッビング・グリッスルやスリッツ、レインコーツを聴かれていたんですね。HACOさんが音楽活動を始める直接的な影響は、このようなインダストリアル系やポストパンク系のバンドなのでしょうか? 

「はい、1979年頃のことで、アフター・ディナー(After Dinner)を始める直前でした。日本にもそういった音楽が徐々に広まりつつあって」

――もっと遡って音楽の原体験みたいなところについても気になります。小さい頃から音楽をやっていたんですか?

「幼稚園の時からオルガンを習っていて、7歳からエレクトーンを始めました。6年くらいは続けましたね。その時にカーペンターズやビートルズ、スティーヴィー・ワンダーなど、スタンダードをたくさん弾いたので、自然とそういった音楽から影響を受けていると思います」

7歳くらいの頃

――クラシックというよりはポピュラー寄りだったんですね。

「なんというか、小さい頃から新しいものが好きだったので(笑)エレクトーンを見たら、ピアノよりも《やりたい》って思えて」

――譜面などは読まれますか?

「一通りは。オルガンを習っていた頃に譜面の勉強をしたので」

――HACOさんの音楽は現代音楽とリンクするようなところもあって、クラシック出身という可能性も考えていたのですが、ポピュラーミュージックにもたくさん触れていたんですね。 

「あー、なるほど。もっと小さい頃、それこそゆりかごに入っていたような頃は、毎日のようにテレビでハリウッドなどの洋画を観てたんですよ。父は洋画がすごく好きで、日本のドラマをあまり観ない人だったので、その影響です。西部劇からSF(サイエンス・フィクション) やメロドラマまで、ジャンルは問いません。実際は赤ちゃんだったので、《観てる》とは言えないのかもしれないけど、劇伴や効果音、人の声や自然音まで含めて、映画の《音》には常にさらされていたし、それが自然と体の中に入っている気がします」

――アートへの関心が高いご両親だったりしたのでしょうか?

「それはないんですけど、エレクトーンを始める前に、母が教育目的でクラシック音楽の全集みたいなのを買ってくれたりはして。ショパンなどの定番クラシックはもちろん、映画音楽なども入ってました。あと『ドレミファブック』っていう童謡集があって、それがすごくお気に入りで毎日、毎日聴いていて。中でも服部公一さんの『マーチングマーチ』は特に好きな曲の1つで、アフター・ディナーの『夜明けのシンバル』という曲にも影響を与えていると思います」 

――クラシックからポピュラーまでジャンルを問わず、小さい頃からご自身の好きな音楽を聴かれていたんですね。

「そうですね、そういう環境があったので」 

――ご自身で音楽を作るようになったのはいつ頃からなんですか?

「《バンド活動をしたいな》と思ったのが17歳の頃でした。ポストパンクやニュー・ウェイヴの影響もあって、《こういう独自の音楽表現をしたい》という気持ちがありました。それまではフュージョンが流行ったりしてて、ラジオでもすごくテクニカルな音楽が流れている時代だったんですよ。そこに急に、トーキング・ヘッズとか、ポストパンク〜ニュー・ウェイヴ系のアーティストが出てきて、そのファッションとかカルチャー寄りの雰囲気に惹かれて、自分がやりたいのはこの方向だと思ったんですよね」

――それまでは、自分で音楽を作りたいとは思わなかったんですか? 

「漠然と、音楽が作りたいとは思ってたけど、本格的に楽曲制作を始めたのはアフター・ディナーを結成した、18歳の頃からですね。当時、関西で唯一、音響芸術学科がある某専門学校に通って、レコーディングやミキシングの技術も学びました。バンド活動にも役立つかと思って」

アフター・ディナー時代のポートレイト

――学ぶのが音楽理論や楽器の奏法などではなく、音響芸術というチョイスも面白いです。 

「やっぱり、アカデミックなものとは違う方向に行きたかったんでしょうね。音響芸術から新しい匂いがしたので、行くことにしたんです」

――HACOさんがアフター・ディナーで音楽活動を開始した80年代初頭の日本は、YMOが大活躍してましたし、P-MODELなどのニュー・ウェイヴ系のバンドも出てきてました。アフター・ディナーの周りにも志を同じくするバンドがいて、一緒に切磋琢磨していたというか、シーンとして盛り上がっている感覚はありましたか?

「それはありましたね。バンド仲間を探す中で、同じような趣味の人に出会って、ニュー・ウェイヴやインダストリアル系のバンドを《これ知ってるか?》みたいな感じで教えてもらったんです。専門に行く前、ファッション系の商業施設でバイトしてたんですけど、リーゼントがキマっている、かっこいい店員さんが、店内でアート・ベアーズを大音量でかけてたり。私自身、ジャンル関係なく、アートの匂いのするものは全部吸収したいと思っていたし、好奇心の塊みたいな感じでしたね」

――最近は音楽配信サービスで音楽を聴くのが主流で、AIが好みの音楽をレコメンドしてくれたりします。当時は新しい音楽の情報源として、レコードショップの存在が大きかったというのはありますか?

「それはありますね、レコードショップでジャケ買いとかしてましたし。ヤング・マーブル・ジャイアンツとかもそれで見つけました。あと、桑原茂一氏がDJを務めている、『ザ・ミュージック・ネットワーク』という番組があって、スロッビング・グリッスルやスリッツ、YMO、ブライアン・イーノなど、オルタナティブで面白い音楽がたくさんかかっていて、毎回聞いてましたね。それと、小泉文夫氏がパーソナリティを務めるラジオ番組『世界の民族音楽』(NHK-FM)もエアチェックしていました。流れている音楽がすごくユニークで、大きな情報源でした」

――今はどのように音楽を見つけてますか? 

「YouTubeとか、あとは友達が面白いと言っているものはチェックしたり。Bandcampなんかはインディーズ系のアーティストも多いので、よくチェックしてますね」 

――新しい音楽への探求心・好奇心は、今も昔も変わらないですか?

「ええ、そうですね」

――アフター・ディナーのメンバーとはどう知り合ったんですか?

「レコード屋でバンド募集の張り紙を見つけて、ボーカルを募集していたんです。私はキーボードを弾いているけど、そんなに上手じゃないし、オリジナリティーがないと思っていたので、ボーカルだったらいけるんじゃないかと思って。それで電話をかけて、話したのが『かげろうレコード』の今村空樹さんで、《デモテープを作ってきて》って言われたんですよ。それでエレクトーンを弾きながら、自分で作詞作曲して、はじめてオリジナル曲を作りました。今村さんにそのデモテープを聴かせたら、《自分のバンドには合わないけど、面白いから友達紹介してあげるわ》って言ってくれて。そこで関学や関大の軽音学部から、気の合いそうな人を紹介してもらって」

1887年、After Dinner ライブ 。京大西部講堂
Photo by Hideto Uchiike

――だとすると、1981年に一気に結成されたわけではなく、そういった出会いを通じて徐々にバンドとして発展していったということでしょうか?

「そんな感じです。あと、エンジニアの宇都宮泰さんは通っていた音響芸術科の講師だったので、そこで知り合いました。ベース/ヴァイオリンの横川理彦さんは、『4-D』というバンドで活動していて、メンバーの成田忍さん、小西健司さんとのトリオのライブを見に行ったのをきっかけに知り合いました。エレクトリック・ヴァイオリンっていうのがとにかく魅力的で、バンドに参加していただけないかと思って、デモテープを渡して、話しました」

――専門学校で学んだレコーディングやミキシングの技術は、アフター・ディナーの活動にも活かされていますか?

「はい、音を録音したオープンリールテープを切り貼りして、テープ自体をコラージュしていく、という手法を学校で学んで、それが自分のやりたいことだということを発見したんです。今考えてみると、手作業のサンプリングなんですけど。それによって時間を操作できたり、テープの速度を変えることで、ピッチを上げたり下げたりできたり、好奇心が刺激されました。学校ではフィールドレコーディングもやっていましたし。私の卒業制作はアフター・ディナーのアルバム『Glass Tube』に収録されてますし」

――学校とバンド活動が完全に連動していて、理想的ですね。

「はい、創作に専念でき、とてもラッキーでした。宇都宮さんのスタジオで楽器やボーカルをレコーディングさせてもらいましたし、プロデュースもしていただきました」

1982年、アフター・ディナーの1stシングルを制作中

―――アフター・ディナーはその後、海外公演も行うようになります。海外に出て行く経緯やきっかけについて教えてください。

 「それは、1982年にかげろうレコードからデビュー・シングル『AFTER DINNER / 夜明けのシンバル』をリリースした時、バンドメンバーが、自分たちが好きな海外のアーティストに送ってみようと提案したんですよ。それで、音楽雑誌『FOOL'S MATE』の編集部の方に、クリス・カトラーさんやフレッド・フリスさん、ロバート・ワイアットさんといった方々の連絡先を教えてもらって、シングルを送ったんですよ。そしたら割とすぐに、とても親切で好意的なお返事をいただき、びっくりしたんです。それで『Recommended Records』のクリス・カトラーさんから、《次作はうちでリリースしたい》と言われて。1984年にデビューシングルとアルバム『Glass Tube』を再編集したLP、『After Dinner』をRecommended Recordsからリリースし、それが海外デビュー作となりました」

――今はSNSで世界中の人々と繋がれますけど、当時は雑誌の編集部に聞かないと海外アーティストの連絡先を得る手段もなかったということですね。それでもトントン拍子に事が進んで行ったような印象は受けます。

「それは別に自分で狙ったわけではなく、たまたまそうなったことなので、運が良かったのはあると思います。あと、彼らからしてみると日本から直接音源が送られてくること自体あまりなかったと思うので、珍しかったんじゃないかという気もします」

――そこからどのように海外公演に繋がったんですか?

「フランスの『Festival MIMI』という音楽フェスの主催者、フェルディナン・リシャールさんから、突然お手紙をいただいたんです。《Recommended Recordsから出てるLPをとても気に入ってるから、自分のフェスティバルに招待したい》と書いてあって、驚きました。それで《じゃあ、みんなで頑張って行ってみよう》みたいなことになって。結果的には1987年に5カ国を巡る初の海外ツアーとなり、ロンドンのICA(現代芸術協会)での公演はとりわけ反響が大きく、イギリスの音楽雑誌『Melody Maker』でも好意的なレビューを書いてもらいました。これには正直、私たちも驚きました」 

――海外進出で大きな成功を収めたわけですが、その経験がアーティスト活動に及ぼした影響について教えてください。音楽性や創作へのアプローチは変わりましたか?

「いくぶん変わりました。2ndアルバム『Paradise of Replica』(1989) を制作していた時、さらに大きなヨーロッパツアーも決まってたんです。けど、前作と同じことはしたくないですし、プレッシャーは感じました。宇都宮さんが抜けたり、参加メンバーも変わりましたし」

1987年、After Dinner ヨーロッパツアーにて
Photo by Hideto Uchiike

――それまで自分たちのコミュニティーの中で音楽を作っていたのが、一気に海外にまでオーディエンスが広がると、プレッシャーも感じるかと思います。これはアーティストとしては創作意欲に火がつくというか、いいプレッシャーなのでしょうか?

「そうですね、どちらかというといいプレッシャーです。次にやるとしたら、何が新しいのかすごく考えました」

 ――『Paradise of Replica』では、日本の中だけでなく、インターナショナルな視点で見ても、音楽的に新しいことをしようという意識はありましたか?

「ええ、それはデビュー・アルバムを作っていた頃からありました。2ndアルバムではメロディーをもっと前に出して、デビュー・アルバムとは違った作品にしたいねっていうのは、みんなで話してました。北田昌宏さん(元INU)もギターで参加してくださったんですけど、彼のギターは前作には無い味でしたね。『Paradise of Replica』はスイスのRecRec Musicからリリースされているんですけど、ツアーも大きかったし、ポップな要素もあるので、よりコマーシャルに受け入れられた作品だと思います。今となっては2ndの方が人気出ていますね」

1987年、ベルリン滞在時に撮影
Photo by Hideto Uchiike

――その後、90年代に入り、HACOさんは徐々にソロ活動の方にシフトしていきます。

「そう、1991年終わり頃に、アフター・ディナーとしての活動を完全に停止しました。その頃、神戸のXEBEC HALL(ジーベックホール)でサウンドアートの展覧会シリーズがあり、その企画の仕事が活発化していました。その時、サウンドアートのアーティストたちが普通のミュージシャンとは違う視点で物事を見ていることに気づき、表現的な事でいろいろなヒントをいただきました。このプロジェクトは私自身のその後の活動にも、大きな影響を与えました」 

――サウンドアートというと、音はもちろん、視覚的なアートでもあり、インスタレーションのようなアプローチの作品ということですか?

「そうですね、《音を媒介としたアート・エキシビション》ということで展開されていて。その仕事をしながら、ソロのアーティストとして方向性っていうのも探りつつ、機材も買い足しながら、空き時間で少しずつ曲を作っていったというか」

――ソロとしての活動を始めたいから、というのがバンド解散の理由だったんですか?

「次のステップとして、ソロとしてのキャリアを考えてみたいなと思って。バンドは一種の社会みたいなところがあって、私はボーカルですけど、作曲もやるから、どうしてもリーダー的なこともしないといけないですし。楽器の割り振りやアレンジも考えてましたし、制約もある中でいいものを作ろうとしてました。だけど、ソロだったらもう少し自分のペースでできますし、楽曲によってはゲスト・ミュージシャンを選んで、コラボレーションも可能です。海外ツアーをする中で、素晴らしい海外のアーティストと友達にもなったりして、ソロになれば彼らともコラボレーションしやすくなるな、というのは感じてました」

――そこでソロになり、1995年、ミディより初のソロ・アルバム『HACO』がリリースされます。その経緯について教えてください。

「サウンドアートの仕事をしていたXEBEC HALLにはスタジオもあって、空いた時にレコーディングをさせていただいたんです。そのスタジオを設計したエンジニア、川崎義博さんとの共同プロデュースという形で制作されました。最終ミックスができた時に、リリースするレーベルを探さないといけないね、という話になって。川崎さんがミディの関係者の方と古い友人だったので、ミディにDAT(Digital Audio Tape)を送ったら、大藏社長(ミディ創業者。2020年死去)が聞いてくださったんです。それで、そのままのアルバムを気に入っていただき、比較的迅速にリリースが決まりました。それも非常に幸運だったと思います」 

『HACO』レコ発ライブの様子。1995年、大阪MUSEにて

――運命的ですね。本作は当時、ミディがインディーズ部門のレーベルとして、立ち上げたばかりの「ミディ・クリエイティブMIDI Creative)」からリリースされています。 

「そうですね、ミディはロックやパンク、ジャズなど取り扱うジャンルは幅広かったのですが、電子音楽はかなり先駆けだったと思います。タイミングも良かったんじゃないでしょうか」 

――アフター・ディナーの『Paradise of Replica』ではハーモニーやメロディーがより前面に出て、ポップな印象があります。一方で、『HACO』はリズムの存在感があって、よりプリミティブな魅力を感じます。

「『Paradise of Replica』の楽曲は、緻密なパズルのようなアレンジになっていて、オーケストレーションやアレンジに重点を置いて書きましたね。構築的な側面を追求していたと言えます。『HACO』ではもっと浮遊感や隙間を持たせたかったんです。参加ミュージシャンたちの個性や即興性も重視しました」

――そこはミニマリストなアプローチというか、日本らしさだったりしますか?

「日本的なことはあまり考えてなかったですけど、生花みたいに、素材を愛でて空間を活かす、みたいなところはあったかもしれないですね」

――HACOさんはシンガーソングライターであると同時に、レコーディングや編集など、エンジニアの役割まで担ってしまうことから、『HACO』は究極のソロ作品にも思えるのですが。

「そうでもないです。そもそも川崎さんとの共同プロデュースで制作されてますし、今堀恒雄さんや中川博志さんなど、ゲストミュージシャンの方のレコーディングはXEBECのスタジオを使っています。サム・ベネットさんやトム・コラさん、ピーター・ホリンガーさんなど、海外のミュージシャンはDATで演奏の音源を送ってもらって、遠隔コラボレーションしたり。いろいろな人が関わっています」

――今でこそDAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)での楽曲制作が主流となり、データのやり取りで遠隔コラボレーションが可能ですが、当時もDATを使えば、決して不可能ではなかったんですね。HACOさんの拠点はずっと神戸ですよね?

「ええ、アフター・ディナー時代に、大阪の南の方にいましたけど、ずっと関西ですね」 

――関西にはローカルのファンベースや、昔から一緒に音楽活動してきた人たちのネットワークもあるでしょうしね。東京に出てくる必要性がない、というところもあるのでしょうか?

「うーん、東京で活動するにあたっては、猛烈に仕事ベースになると思いますし。音楽だけでやっていけなかったら、アルバイトをめちゃくちゃやらないといけないし」 

――確かに。

「時間が欲しいんですよね。特に音楽は時間芸術だし。空いた時に、ちょっと映画を観たりして、それがまた、創作の肥やしになったり。東京に住んだら、その時間のゆとりがなくなっちゃうかなと思って。あと、私の場合は海外での活動も多いので、東京に住んでても、神戸に住んでても、あんまり変わんないんですよね。海外行くにも関西の空港からですし」

1998年、自宅スタジオ Mescalinaにて
Photo by Hideto Uchiike

――その上、今はインターネット上でありとあらゆる情報が手に入りますしね。

「そうなんですよね。今だったら、それこそ田舎に移住しちゃうアーティストとかもいるだろうし」

――現在進行形で神戸を拠点に活動されていますが、ローカルの音楽シーンはいかがですか? 

「面白い若手アーティストがどんどん出てきてますね。最近はノイズよりだけど、ちょっとアンビエントな感じのアーティストが多いです。そういうイベントに呼ばれることもありますし」

――今でもライブ活動は結構されているんですね。 

「2017年に『Qoosui』、 2021年に『Nova Naturo』というアンビエント系の作品を2作リリースしたんですけど、最近はその収録曲を中心に、歌とエレクトロニクスのライブ活動をしてますね。あとは映像を背景に流しながらの演奏活動も続けてます」 

――HACOさんの音楽は映像的で、目を閉じながら聞くと、イメージが湧き起こって来ます。それは幼少期に映画をたくさん観ていたというのもあるのかと思います。ビジュアルアート全般への興味関心は大きいですか?

「そう、私の音楽はビジュアル的って言われることが多くて、実際、曲を作っている時に映像的なイメージが浮かぶことも多いです。映画はアートな匂いがするものに関心があって、普通のレンタルビデオ屋で扱っていないような映画は学生時代によく見ましたね。そしてすごく触発されました。ヌーヴェルヴァーグの名作映画などをダブル上映してるミニシアターがあって、通ってましたし。あとは友達におすすめされた作品も観てました」 

――よろしければ作品名や監督名など、具体的に挙げていただけますか?

「うーん、ゴダールやフェリーニの作品、デイヴィッド・リンチ、ジム・ジャームッシュも好きですね。彼らの映画はもちろん、音楽も素晴らしいですし、影響を受けてます」

――映画の劇伴など、映像に音楽をつけるお仕事もされたりしますか?

「2005年あたりから、コンテンポラリーダンスのサウンドデザインを担当しています。振り付け師やダンサーとも共同で制作しますし、映像を使用することもあります」

――HACOさんの楽曲制作プロセスにも興味があります。ポップス系の人だと、《ふとした瞬間にメロディーを思いついた》といったような、直感的なエピソードをよく聞きます。HACOさんはどのように楽曲を生み出しているんですか?

「それこそ、直感的に思いつくこともあれば、楽器を弾いている時や、コラボレーションで送ってもらった音源にインスパイアされた時に、メロディーと歌詞を思いつくこともあります。コラボレーションだと、自分の知られざる一面が引き出されたりするので好きですね。あとは小説にインスパイアされて、歌詞を書いて、そこにメロディーを付けることもあったり、ケースバイケースですね」

――音楽はもちろん、文学や映画など、さまざまなアート作品に触れたり、外からのインスピレーションが大切なんですね。

「そのとおり、直接的じゃないんですけど、その蓄積からピンとくるんです」

――『HACO』の収録曲がどんなことからインスパイアされているのかも気になります。思い出深い楽曲はありますか?

「『Ice』ですかね。1987年のツアーの後、ベルリンに遊びに行ったんですよ。その時は、まだベルリンの壁があって、壁の近くに住んでる人と友達になったんですけど、その人たちを小説の主人公みたいな形で歌詞にしたんです。もちろんデフォルメはされてますけどね。トム・コラさんのチェロも入っていて、ニューヨークで録音されてます」

――ドイツでインスピレーションを得て、日本で制作された楽曲に、ニューヨークでチェロを足すって、かなりインターナショナルですよね。

「そう、地理的な制約や特定の考え方には全然とらわれていませんでした」

――『Would You Like Some Mushrooms? / マシュルームはいかが?』という楽曲も、妖艶でインド音楽のようなムードで、音楽的に面白いのはもちろん、歌詞もユニークです。この曲についても教えてください。 

「これは確か、映画のイメージからインスパイアされています。あとはジョン・ケージがキノコ好きだったという逸話や、映画『博士の異常な愛情』に出てくるキノコ雲のイメージなど。CANの楽曲にも『Mushroom』という曲がありますし。日本におけるバーンスリーの第一人者、中川博志さんが参加しています。ビートルズっぽいコーラスも入ってて、ちょっとサイケデリックな要素もあります」

※1 インドの伝統的な笛の一種。通常、竹で作られ、インドの古典音楽で広く使用されている 

――パーソナルな世界観の作品のようでいて、実は多彩なゲストがフィーチャーされているんですね。

「本当に、ギタリストの今堀恒雄さんは東京から来てくださって、4曲レコーディングに参加してくださいました。ファンだったのですごい感激しましたね。ギターアレンジにも今堀さんらしさが出てますし」

――『HACO』はアートワークもとても印象的です。

「これはサウンドアーティストの藤本由紀夫さんが担当してくださったんです。サウンドアートの仕事をしていた時に知り合って、お願いしました。本当に素敵なアートワークに仕上がったと思います」

――今回のリマスター版『HACO』では、素敵なアートワークはそのままに、音源は畠山地平さんがリマスターを担当しています。

「そう。畠山さんの作品をすごく愛聴していたので、何かご一緒したいなと思ってたんです。この機会に是非、ということでトントン拍子で話が進みました」

――リマスターによって、音源の印象は変わりましたか? 

「変わりましたね。今の音になっているというか、若いリスナーの方が聴いても新鮮な仕上がりだと思います」 

――音楽配信も解禁され、SpotifyやApple Musicなどのグローバルプラットフォームでも聴けるようになりました。これまでHACOさんの音楽を知らなかった、リスナーにも届いて欲しいですね。

「もちろん、新たなリスナーにも届いて欲しいですし、95年リリースのオリジナル版を聴いている人も、リマスター版を聴くことで発見があると思います。楽器演奏も細部がくっきりしていますし」

――現在の音楽活動についてですが、HACO名義での作品リリースと並行して、サウンドアートやサウンドデザインの制作も行われているのでしょうか?

「うん、そういう風になってきましたね。最近だと愛媛・松山を拠点に活動している、《赤丸急上昇》というコンテンポラリーダンスのアーティストと、コラボレーションして、音楽担当しました。昨年の12月に初上演されたんですけど、再演の話も出ていますし。あと、今年はソロのライブ音源をリリースする予定です」

――HACOさんのライブ音源も気になります。

「2000年代初期のライブなので、かなり古いんですけどね。文字通り、一人で演奏していて。久しぶりに、《ステレオ・バグスコープ》(※2)によるサウンドアートのパフォーマンスも予定されてますし、次のアルバムのために新曲も作っていきたいと思っています」

※2 電子機器内部における回路上の動作発振音を検出するシステム

2018年、ライブの様子
Photo by Yoko

――1995年に『HACO』がリリースされて以降も、アルバムはコンスタントにリリースされていますよね。 

「そんな感じです。1999年に『Happiness Proof』というバンド形態のアルバムが出て、2004年には《ステレオ・バグスコープ》による音響作品のアルバムをリリースしています。箏奏者の八木美知依さん、サンプラー奏者のSachiko Mさんと結成したトリオ、ホアヒオ(Hoahio)としてのアルバムも3枚リリースしています。最も新しいアルバムは、2021年にHACO名義でリリースした『Nova Naturo』です」

Hoahioのアルバム『Peek-Ara-Boo』 (Haco、八木美知依、恵良真理) レコーディング中。 2002年、自宅スタジオMescalinaにて
Photo by Hideto Uchiike
Stereo Bugscope(2004)
Photo by Hideto Uchiike

――HACOさんのディスコグラフィーを見ると、大体2、3年に一度は作品がリリースされている印象です。直近が2021年だと、確かにそろそろ新作が出てもいい頃ですね。作曲のアイデアが枯渇することはないんですか? 

「うん、無いですね。アルバムを制作している最中から、すでに《次はこういう作品が作りたい》というイメージが湧いていたりします」

――それは理想的ですね。とはいえ、高いクリエイティビティを持ったアーティストであったとしても、次の作品が出るまでに間が空いたり、スランプに陥ることもありますよね。

「すごく売れちゃったりしたら、プレッシャーを感じて、次の作品をリリースしにくくなったりするのかもしれないですけど。私の場合はそうではないので、常にマイペースですね。それでも自分の中で、アイデアが尽きないっていうのは、幸福なことだと思います」

――多作な人は、チャレンジ精神も旺盛なのかもしれないですね。深く悩みすぎず、その時の音楽的な関心や気持ちを優先して、出来た作品を思い切って世に出してしまうというか。

「《自分はこうでなくてはいけない》と枠にはめるのは、あんまり好きじゃないですね。私は好奇心がすごく強いので、今でもいろいろなジャンルの音楽を聴いてますし」

――後で「なんで、これリリースしちゃったんだろう?」と後悔するようなことはありますか? 

「今聴くとすこし気恥ずかしい作品も無くはないですね。若気の至りだったり、ちょっと暗かったり、といった要素はあるんですけど、《そういうことをやりたい時期もあったよね》くらいの感じで受け止めてます」

――今からほぼ30年前にリリースされた『HACO』ですが、改めて聴いてみて、どのような気持ちになりますか?

「《私って、昔から全然変わらないところがあるんだな》と思うと同時に、今と全く違う部分もあって、それは常に模索しながら創作しているからなんですよね」 

――逆に当時のHACOさんでしか作れなかった部分もあるでしょうしね。

「そうですね、同じことはできないです。歌い方とかも変わってきていますし」

――HACOさんが当時の自分を出し切った作品と捉えてもいいのでしょうか?

「うん、まとまりのあるアルバムだと思います。今回、リマスタリングしたことで、音がすごく鮮明で綺麗になって、自分でもウキウキします」

――『HACO』のリマスター版を聴く際は、音の良さもじっくり楽しんでもらいたいですね。最後に告知があれば、お願いします。

「はい、色々とプロジェクトは進行中です。まだ具体的な日程をお知らせできませんが、ライブやリリースの情報をSNSなどで今後も発信していきます。よろしくお願いします!」

インタビュー・テキスト/midizine編集部

HACO
ヴォーカリスト、作詞作曲家、電子楽器奏者、サウンド・アーティスト。80年代に音響芸術を学び、After Dinnerを結成すると共に作品が国際的に評価される。近年、声と有機的なエレクトロニクス手法をむすびつけた独自のパフォーマンスを展開。その透明感のある歌声と音響技術の融合により実験的かつポップ感覚をつめこんだ楽曲によって、世界中にファンをもつ。これまでにソロやHoahio等、複数のプロジェクトで多数の作品リリースがある。海外の革新的な音楽/アートフェスティバルからの招聘をうけ毎年のように公演ツアーを行ってきた。その作風は各プロジェクトによって分けられており、歌、楽器アンサンブル、電子音、音響、環境音、即興コラボレーション、電磁波の収音にいたるまで、多岐にわたる。1999年に創設したView Masters (現音採集観察学会) を起点にサウンド・アートの文脈でのレクチャー、ワークショップにも精力的に取りくむ。2005年には音響作品『Stereo Bugscope 00』がオーストリアのアルスエレクトロニカで入賞。2017年、歌ものアンビエント・アルバム『Qoosui』、2021年には『Nova Naturo』が、豪州Someone Good (Room40) より世界発売され絶賛される。2024年1月には、1995年の1stソロアルバム『HACO』のリマスター盤がMIDI Creativeよりリリース (CXCA-1319)。“これはまさに、未来の電子的無国籍空想民族音楽である。” (畠中実氏、intoxicate) 等、各誌で称賛を受ける。

オフィシャルwebサイト:www.hacohaco.net

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