見出し画像

エヴァンゲリオンのアニメ版を全話見てみた

新世紀エヴァンゲリオンは、なんとなくずっと気になってはいたものの、あの世界にはとっても深い痛みが流れているような感じがして、なかなか踏み込めなかったのだけど

それでも、ここ最近の「痛みや苦しみは悪いものではない」という新たな認識が少しずつ始まったおかげで、よし、観てみるか!という気になった。


昨日、アニメ版26話すべて見終わって、いやぁ・・・こんなに精神的なアニメが1995年にやっていたなんて。

そして、それがすごく今の自分にリンクしていて、ある意味「自分だけじゃないんだよな」って、人間目線というか人類目線というか、そういう感覚になった。


誰もが抱える不足感、痛み、孤独。そしてそれを誰かに承認されることでその「空虚」なスペースを埋めたいという衝動。

それはもちろん、時に生きる力にもなるのだけれど、失った時には生きる希望さえも失う危うさがある。

それ(愛や承認)が与えられない時の怒り、絶望、その奥の寂しさ。いつも誰かに、何かに憤っている。なんとかしてくれと叫んでいる。それが誰にも届かない時、死を選んだりもする。


エヴァの感想なんだけど、これはぜんぜん人ごとじゃないし、登場人物それぞれの心の叫びは、私の中にもあって、代わりに叫んでくれているようで、深く深く響いてきた。

結局周りにどれだけ埋めてもらおうとしても埋まることはないスペースがある。それはやっぱり自分でしか埋められない場所。

誰かに頼らないとか、そういうことでもなくて、誰かに頼りながら、少しずつ練習しながら、そこが自分で埋められるのだと知っていく道にいるのだなと思う。

実際「空虚」かどうかも、それが自分の信じている現実なだけで、真実かはわからないけれど。


人類は「知識」を与えられ、その増幅は、どこまでも自分達で「コントロールできるのだ」という傲慢さに繋がっているように思う。個人のレベルから集合的なものまでそれは流れているように感じる。

エヴァでいえば、痛みや弱さ、空虚感を直視できず、そういうものを抱えた人間という存在を「不完全」だと見なして、個体の枠を融解させてひとつにし「補完」しようとする。神になろうというくらいのもの。

そういう部分を見るとゾッとするけれど、自然に流れているものに委ねることが難しく、弱い部分を排除しようとしていた私もコントローラーだ。いい人でいたいというのも、どこかでコントロールできるのだというものがあるからだと思う。


自然の流れから逸脱するような自由意志さえ与えられている人間が、ここからどんな世界を生きていくんだろう。

私自身は、コントロールから少しずつ離れ、生まれれば朽ちていくという自然な流れだったり、陰陽や光と闇の揺れ動きだったり、そしてそれらを中立的に支えているエネルギーに触れて生きていけたら嬉しいなと思う。

逃げ続けると増幅するものはきっと、生々しく直視することで、選択できる余白が生まれるんだな。

自分がどんな世界を生きたいかの選択は、いつだって今ここにある。

いやぁ、とにかくエヴァは面白かった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?