見出し画像

覚えていたり忘れられなかったり、それでも生きていくしかないんだし

「先生のこども」私が私自身を勝手にしばってきた名前。私の両親は教師で、親戚にも教師がたくさんいる家系だった。「〇〇先生の娘」という呼ばれ方にも慣れていたし、大きくなったらあなたも先生になるの?と、両親以外のおとなたちに数えきれないくらいに聞かれて育った。両親は自分のやりたいことをすればいいというスタンスで、教員になることをすすめたり強要したりしてこなかったのは当たり前のようでありがたいことだったと思う。

私は私、なんだけど、どうしてもついてまわって簡単に振り落とすことができない感情がある。誰だってそういう過去があるし、仕方ないこともたくさんあるし、私は恵まれていたと思う。たくさんの人に愛されて、たくさんの人に大切に育ててもらった。



私の小学校の入学式の日は、両親ももちろん職場の入学式で、時代というのもあったかもしれないけれど、両親ともに仕事を休んで私の入学式に来るということができなかった。入学式には父方の祖母が来てくれた。小学校入学のタイミングで引っ越してきたので、入学した学校には誰も友達がおらず、入学式に両親もおらず、なかなか不安だった。コミュ力のかたまりのような祖母が隣の席の子のお母さんとすぐに仲良くなって、その子もその子のお母さんも長いこと良くしてくれた。こういう、周囲の人のあたたかさに知らないうちにどれだけ助けられていたか考えるとキリがない。

三つ下の弟の小学校の入学式の日、母はなんとか休みを取ることができそうだったという。そのときに私は母に「私のときはこなかったのに弟の入学式には行くの?」と言ったらしい。悩んだ母は仕事を休むことを辞め、弟の入学式には母方の祖母が出席した。このときの話をするとき、いつも母は涙ぐんでいる。私としては当時のことを覚えてもいないしそんなことを言って母に申し訳なかったと思うけれど、仕事をしながら我が子を育てる母も相当苦労して悩んだに違いない。そして考える、今の私に、そんなタフさも覚悟もない、と。



二十代半ば、結婚したい人がいた。相手は子どものころ、家にお母さんがいてくれた家庭で育ったそうだ。だからもしも結婚して子どもがうまれたら、お母さんとなる君が家にいてほしい、子どもがかわいそうだから、と、何の気なしに希望を述べた当時大好きだった相手の言葉は私を突き刺した。人それぞれの価値観、育った環境、希望、考え方がある。彼の意見は意見として置いておいて、私はそう思わないと冷静に言って話し合えばよかったのだと思う。当たり前に両親が働いていてそれに誇りを持っていた子ども時代を過ごした私は、「かわいそう」の単語がショックで混乱して強い口調で反発した。けれど、あとになって落ち着いたときに、どこかで相手の言うことも理解できる自分がいた。理想だけを語るなら子育てに専念してみたい、その気持ちは分からなくもなかった。それに、両親が休みなく働く姿をみて、自分は絶対に教師にならないと誓っていた私も結局どこかで同じような気持ちを持ってたんじゃんね、当時の三交代制の自分の仕事では結婚して子育てして、というのは難しいからどちらにせよ転職しないと…仕事をセーブしないと…と考えていたのは確かだ。子どもを持つのであればこのままの仕事の仕方はできないと気づいてはいた。
それでも、育った家庭や環境でその人がつくられていくという現実を思い知った気持ちになった。悪意のない「かわいそう」に想像以上に傷ついてしまった自分に気づいたのが少し悲しかった。




仕事って不思議だ。ふと気がつくと仕事が生きることの中心になってしまっていることがある。仕事熱心だと褒められることもあれば、家庭をかえりみない人だと非難されることもある。両親の、教師という仕事を理解しているつもりだった。実子の私よりも長い時間かかわっている子どもがいるんだよな、とずっと思っていた。不満とかではなく、すごいシステムだよなと感心していた。仕事に向き合う自分の親のことを今も昔も誇りに思っている。それと同時に、ほんとうにたまに、親にとっての子どもって実子と仕事で育てている児童の二種類あるんだろうな、別枠で、どちらも大切で、天秤にかけることなんてする必要はないけれど、仕事だと言われれば仕事(児童)を取らなければいけないこともあるよなと子どもながらに冷静に考えていた。


「先生のこども」であることは誇りにもなったけれど、それ以上に鬱陶しいものでもあった。私は勉強がよくできた。自慢ではないけれど、事実として、田舎の学校という狭い世界の中ではよくできた方だった。でもそれは教員の娘だから賢いんじゃなくて、私が真面目で、お父さんとお母さんの娘だから賢いんじゃぼけ、と思っていた。実際、宿題しなさいと言われたこともなく、分からないところがあれば聞くことはあっても、勉強にかんして干渉されることはなかった。塾にも行かなかったし、親も私の勉強はほぼノータッチで、ただただ私が真面目な性格だったというだけだった。成績が良いことを「親が先生だからね」と片付けられること、けっこう面白くなかった。私の努力を見ろ、と思っていた。与えられた宿題を真面目にしていたというだけで、努力もあまりしていなかったけれど。



人に甘えるのは苦手で、迷惑をかけることが恐怖。可愛げはどこかに捨ててきた。これは育った環境がそうさせたというよりも、元々の私の性格の部分が大きいのだと思う。だけどたまに「先生の子どもだから」「長女だから」という枠にくくられてしまうこともある。まあ別にそれでもいい。私の性格がかわることはないのだし。



いま自分が社会人になってみて、もしも結婚をして子どもを授かることになったらと考えると不安で怖くてたまらない。どうしても次のステージに進む一歩を踏み出せない。私はどうも完璧主義すぎるらしい。無駄な責任感で自分の首をしめすぎる。前職で店舗責任者をしていたとき、生きることの中心に仕事があった。いつなんどきでもどうしても最優先が自分の店舗で、それ以外をいちばんに持ってくることが出来なかった。夜中に地震が起こっても、家族や友達や恋人よりもまずは職場、お客様、従業員の安否確認。気づいたら体がそういうふうに動いている。非常時の自分の思考回路と優先順位を目の当たりにして、やっぱりそうじゃん、自分もそうじゃん、これからもしもこの仕事を全うし続けるのならば私は家族を持てないと思った。きっと私は家族といたとしても何か起これば家族を家にのこして職場に駆けつけてしまうと思った。仕事に打ち込んでいるとき、それが本当に怖かった。いちばんは家族や恋人や友達だって思いたいよ、でも仕事に夢中になっている自分はそういう性なんだと諦めた。バカだから、本当に大切なものを後回しにしてしまう、そんなんで家族を築くことができるのかよとずっと自分を責めて、ああやっぱり私はひとつのことにしか集中して頑張れないんだ、物事を並行して欲張った結果どちらも完璧にできないことに苦しみを感じてしまうのだと知った。完璧主義な人間がこの世界でこの日本で生きるのはかなり難しい。



仕事と私、どっちが大事?聞いたことはなくても、言われたことはある。それなのに私のほうに捨てられ不安がずっとあるのは何故なのだろう。捨てられないように先に捨てる、そんな失敗をたくさんしてきた。俺と仕事どっちが大事?君は俺がいなくても生きていけるよね?と複数の人に呆れられたほどなのに、当の私は安心がほしい。私のもとに絶対帰ってきてほしい。生まれてからずっと寂しい。向き合いたくなかったことに向き合って私はこういう人間だったと再確認して、別に器用に生きてきたわけでもなく瞬間瞬間で助けられてきたことも、いまだに毎日かっこわるく上手く立ち回ることができなくて悩むことも、婚期を逃したことを申し訳なく思う気持ちと、それでもどこか自由にほっとしている日々と、結局は私自身が持って生まれた性質や性格とこれまでに経験したことで育った価値観で私はできているということですね、とまとめようとしてしまう真面目さなんかでぐちゃぐちゃになりながらも生きている。色々と書きなぐったけれど、過去は過去、今は今、未来は未来。私の寂しさは息するのと同じような現象。幸か不幸かと問われたら、必ず幸と答えるくらいにはじゅうぶんな日々を送っている。そんな一人の人間のちっぽけな記憶の断片の記録です。







ゆっくりしていってね