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せめて髪くらいは

短い夜と、長過ぎる夜がある。今日は夜が長いな、金曜なのにやけに静かで生温い夜。こたつも暖房もいらなくて、音楽もラジオも何だか煩く感じて、テレビやYouTubeはもう見飽きて、本は読んでも内容がすうっと頭の表面をすべっていく。お腹もすかない、喉も渇かない、洗濯もし尽くしてしまって、シンクに汚れた皿もない。何もない、何もなくて、長い夜。

何をしても心の上澄みの部分で片付いてしまう夜があって、そういうときには何をしても同じ。眠ることもできない。見る気もないスマホの画面をなんとなく見たり見なかったりして、夜はまだまだ終わらない。

こんな夜は、誰と居ても一緒だと知っている。誰に連絡をしても一緒で、下手したら誰かと繋がることで「無」は悪化する。それならば一人でやり過ごす方が良い。朝になれば何事もなかったかのように普通の人間の顔をして当たり障りのないメイクをして、大人の顔をして車を運転して、澄ました顔をして働く。だから、大丈夫なのだ。

問題は、この夜の長さだ。ベッドの上である程度のストレッチはやり尽くして、スマホにも飽きて、音楽すら体内に取り入れたくない夜。無音は寂しいけれど、少しでも意図的な音は煩く感じてしまう。冷蔵庫が小さくうなっているこのくらいの音がいちばん良い。

そうだ、髪を乾かそう。突然、そう思った。シャワーを何十分前に浴びたかも思い出せないくらいの夜だけど、髪が濡れているから、乾かそう。それが良い。「せめて、髪くらいは」そのフレーズが頭をよぎった。何の「せめて」なのかは敢えて考えないようにする。

洗面台の前に立ち、ドライヤーを右手に持つ。ぶぉぉぉぉんという音の中で、髪、綺麗だね、といつか言ってくれた人たちのことを一人ずつ思い出す。その半分くらいには、どう足掻いてもこの先ずっと会えない。

長いこと私の髪は、誰かに褒められるための髪で、誰かに撫でられるための髪で、誰かに乾かしてもらうための髪だった。黒髪が好きと言われ黒染めをしたり、憧れていた漫画の登場人物に近付くためにパーマをかけたり、恋人と別れた時には分かりやすくバッサリ切ったり、誰かに振り回される私の気持ち次第で扱われてきた髪だった。でも、最近は、少し違う。生きてきた中で一番髪を大切にしているのは、今だと思う。こんな腑抜けた夜でも髪を丁寧に乾かしているのがその理由。わけもなく珍しく髪を綺麗に伸ばそうとしているのがその理由。ショートボブがまわりに好評だということも、ショートが楽で自分も慣れていることも理解しているけれど、それでも少し頑張って髪を伸ばそうとしている。せめて、髪だけは。せめて。

私は私の髪に何の祈りを捧げているのだろう。捧げるほどの祈りすらない焦りを、髪を大切に扱うことで緩和させようとしているのかもしれない。大体予想はつく。こんな長い夜がこの先増えること、何となく分かる。その度にすがる友人や恋人や娯楽なんて、たかが知れている。期待をしていないということではなく、根本的な解決にならないのだ。長過ぎる夜をつくるのは自分だって、夜を長くしているのは自分自身なんだって、こういう時に誰の顔を浮かべても何だか違うのは、自分自身の問題だからだって、私が分かっていれば良い。そんな夜は、せめて髪だけは乾かして布団に潜り込むようにしようと思う。そうして気付いたら知らん顔した朝を迎えられるよね。明日のことは知らんけど。





ゆっくりしていってね