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咳をしても一人、ということ

 痰の絡んだ咳が出る。特に起き抜けは乾燥していて、どこかの近所の窓から聞こえてくるおじさんの「カハッコホッウェッエエエッホン」みたいな豪快な咳が続く。

 遂に先週、「ヤツ」に感染してしまった。いつかは来ると思っていた。インフルエンザの季節にはインフルエンザに、胃腸炎が流行ればもれなく胃腸炎に、流行病には必ずと言っていいほどやられてきた自分なのだから、きっと今回も避けられないだろうとは薄々感じていた。これだけ感染力の強いものだから、仕方ないとも思った。それでも、何故自分が、何故このタイミングで、どこから貰ってきたのか、あんなに予防していたのに一瞬の気の抜けでこんなことに、などと考えて、罪悪感に駆られたり悔やんだり仕事が出来ない焦燥感で息苦しさを覚えたり強い孤独を感じて絶望的になったり、感情の忙しい数日間をひとり自宅で過ごした。

 幸い症状はとても軽く、今は何事もなかったかのように家にこもって過ごしている。自宅療養、あと三日。


 生まれてこのかた十連休なんてものは初めてで、ああ平日の昼さがりはこんなふうに静かに時間が流れるのだと知った。忙しい日々の中ではあんなに大切でかけがえのなかった夜中の時間も、ゆっくり流れていく時間を過ごす中ではとてつもなく長くて怖い夜になることも知った。窓を開けると涼しくて懐かしい気持ちになることも、最近の風は水色と薄緑を混ぜ合わせたような色だと気付いて初夏を感じることも、自分が雨が降る直前に何となく身体も心も沈んでしまう質だということも、物事をじっくり考え順序立てて行動すれば割と何でもちゃんと遂行できる性格なのだということも知った。初めてではないのに初めてみたいな発見ばかりの毎日だ。出来るだけ水分をとるように心がけた。白湯、もしくは水。特別な気分の時には丁寧にコーヒーや紅茶をいれてみた。野菜が足りないと感じれば野菜ジュースを。「今自分は何が飲みたいのか、本当に欲しているものは何か」そんなこと今まで考えていなかった。考える暇なんてなかった。無駄に摂取していたカフェイン。必要だったのに適切に摂られてこなかった水分。これまで一杯一杯の飲み物を適当に流し込んでいたのだという反省が生まれた。

 深く息を吸い込んで気持ちを落ち着かせて、自分のペースで生活できている時は良い。たまに呼吸が浅くなって、一つの考えにとらわれて頭から離れなくなって苦しくなることもあった。私が休んでいる間の仕事について、人に迷惑をかけているような罪悪感、自分がいなくても社会はまわると知っているのに、私の知らないところで動き続けている社会が存在していることがこわい。そんなこと言われてないのに、必要ないと言われているような気持ちになる。被害妄想。許されたい。誰に?何を?早く社会に戻りたい。暗いニュースは見たくない。誰かと喋りたい。ひとりぼっちって、物凄くこわい。知らなかった。ひとりぼっちじゃないのに、家族も友達も恋人も、ラインや電話に付き合ってくれるのに、それでもこわい。分断。私はちゃんと元の世界に戻ることができるだろうか。弱音ばかり出てくる。キリがない。心のどこかでは仕方ないと分かっているし、皆が同じような不安に苛まれていることも理解しているし、もっと症状が酷い人は考える余裕もないくらいに苦しんでいるはずだ。私ごときの小さな弱音なんて取るに足らないことで、きっと私も数日後には当たり前のような顔して、何事もなかったようにすん、とした顔で社会に戻るのだろう。


 今まで頑張ったから休む時だよ、そういうタイミングだったんだよ、何かあればすぐに連絡してね、仕事のことは心配しないで。思い返してみれば、陽性でしたと連絡した人たちからかけてもらったのは優しい言葉だけだ。優しい言葉を貰うたびに胸が詰まるような、じんわり涙が出そうな気持ちになった。私は今までこんなに優しい言葉をかけられる人間だったろうか。優しさに囲まれて、こんなにあたたかい人たちの中にいて、それでもこんなに孤独を感じるのだから、もっと強く寂しさを抱える人はたくさんいるのではないか。


 一度咳き込むとなかなか治まらない。喉の奥につっかえているのは痰だけだろうか。吐き出したい何かがずっとある。でもその正体が分からない。咳をしても一人。所詮一人。だけどひとりではないことも理解している。改めて自分という存在について考えている。休養ができてよかった。私にはきっと必要な時間だった、不安になる度に、息をいっぱい吸って、自分にそう言い聞かせている。



ゆっくりしていってね