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右から二番目の乾燥機

欲しいものある?と聞かれて自分には欲しいものがほとんど無いと気付く。

ううん、欲しいものは探せばいくらでもあるんだけど。新しい洗濯機、小さめの鞄、パワーのあるドライヤー、シンプルな筆箱。だけどそれらは無いなら無いで何とかなるものばかりだ。「欲しいもの」を聞かれてパッと思いつくのはいつだって「もの」じゃない。

身長、優しさ、やわらかさ、才能。この中でも才能がいちばん欲しい。才能が欲しい。ずっとずっと、生まれてから今まで、才能が欲しい。

でもそんなことカッコ悪いから言えない。「才能が欲しいです」なんて言ったら「これだからゆとりは」「努力もせずに何を言ってるの」と正論で打ちのめされるに違いないから。

努力できる人が羨ましかった。努力できる人を羨ましがって、才能がある人に憧れて、いつも私にあるのはそういう少し遠くにあるもののことを考える妄想だけで、結局努力できないままここまで来てしまった。

少しの努力は出来た。人並みか、人並みより少し少ないくらいの努力。ありふれた努力。部活だって倒れるまで練習したこともない、腱鞘炎になるくらい夢中で楽器を弾きこんだこともない、血を吐くほどに勉強したこともない、受験の時だって安全策ばかりとってろくな努力をしなかった。就活のときも。とりあえず一社受かったから他の選考を全部辞退した。私はそういう人間。

「仕事はやいね」「覚えがいいね」みたいな褒め言葉は、今の状況だから褒め言葉になっているだけ。この職種、職場だからたまたま評価されていることであって、職場が変われば全く見当違いのスキルになるなんてザラだ。そんな風に褒められる度に、その過程のことを考えて、やっぱり人並みの努力だったなあと思う。たまたま向いていただけだから、人より少しだけ覚えるのがはやかっただけだから、私はこうやって評価されたのだ。

運は良いと思う。ちょっとだけ得意なことや好きなことで人に喜んでもらえたり、ほめてもらえたりしたことはこれまでに何回もあったように思う。小さな「得意」を見つけてくれたまわりの人たちに感謝をしている。でも、いつも私は運に頼ってばかりいた。それに、「これは自分に向いてるかも」「これは少し頑張ればそこそこ出来るようになりそうだな」っていう道ばかりを私自身が選択してきたから、そうなるのは当たり前だったのだ。私は無理に難しそうな道は選ばない。相当な努力が必要だと分かっているものには手を出さない。そうやって安全な舗装されている道だけ歩くことにしていたから。


たまに才能がある人のことを考える。才能がある人は「こうすればこうなる」という回路の繋がりを見つけるのがとにかく早い。言われなくても自分で道筋を見つけ出してしまう。才能がある人はイメージをすぐに絵や音に出来る。才能がある人はものすごく人を惹き付ける言葉を持っている。

歌が上手い。絵が上手い。足が速い。片付けが上手い。計算が速い。顔が美しい。ちょっとやそっとじゃない。人よりも何倍も秀でていて、しかも才能に埋もれずに磨いて自分で光らせることができるのが、才能がある人だ。


私は、たらればの女。

私は今までたくさんの「才能がある人」を思っては羨んだり涙を流したりした。自分の努力のことは棚に上げて、その人たちのことを考えた。

もしも私がずば抜けて絵が上手かったら?もしも私の顔が国宝級に可愛かったら?もしも私が特別な声帯を持っていて「奇跡の歌声」で歌える人だったら?

そうだとしても、きっと私はそれ以上の努力ができない。持っている才能以上の努力が出来ないとその才能は腐っていってしまう。「才能がある」と言われている人たちは、きっとその才能をうまくコントロールできている。才能をもて余すことはしない。そこがそもそもの才能なのかもしれない。いつも私のたらればはその結論に至って、自分には何かあったかなって考えてみるけれど、当たり前のように何もない。磨ける素材も、磨きたい素材も、磨く力も、気持ちも、なにもない。すっからかん。

結局、どれだけ全力になれるか、なのかな。私はそれなりの努力しかできない、綺麗なとこばっか見えとけば良いやってズルいことを考える、それなりの人間でしかない。元々の才能なんてないから、特に持ち腐れているわけでもないけれど、「人より少しだけ得意だった」ことを一切磨いてこなかったから、今「人より少しだけ得意だったこと」は、「人と同程度出来ること」に変わりつつある。

◇◇

隣の芝は青い。私たちは皆、無いものねだりだ。こんなに自分には何もないと思っている私なのに、「お茶さんみたいになりたいです」と言ってくれる後輩がいた。私は、その後輩になりたかった。小柄だけどいつも一生懸命で、まっすぐで素直で頑張りや。少しドジだけどそれも可愛らしくて、柴犬みたいな愛嬌で誰からも好かれた。真剣に仕事をしている横顔は見とれるほど睫毛が長くて。私はその子が羨ましかった。その子にはいつも、これから先もずっと笑ってて欲しいなって思ってた。私にないものばかり持っていて、こういう女の子になりたかったなって何度も思った。

でも、ある日その子が言った。「私、ずっとお茶さんみたいになりたかったです。頑張ってるけど、まだなれそうもないんですけど」

冗談かと思った。でも、その子の目の奥がまっすぐ私を見つめていて、一瞬、息がつまった。何故か泣きたくなってしまって、私はあなたみたいになりたかったよ、あなたのことが羨ましかったよって、言えなかった。

言えば良かった。ちゃんと、自分の弱いところもイーブンに晒すべきだった。そしたらその子ともう少し深い付き合いができていたかもしれない。


それ以来、私は考えるようになった。私も人を惹き付ける人間になれるのかな。才能がなくても、努力がそこそこしかできなくても、ありふれていても、平凡な自分でも。自分に正直にひたむきに頑張れば、ちゃんと魅力になるのかもしれないって。

そう言えば、今まで私が憧れてきた人たちの中にはずば抜けた才能がある人ももちろんいたけれど、そうでない人だっていた。その人そのものが魅力だった。

ていうか、そもそもの話だけど、才能があっても全員に「ハマる」人なんていないんだもんね。私は、どっちになりたいの?「才能がある人」?それとも、「多数の人間にハマる人」?

今さら才能が欲しかったなんて言っても仕方ない。それならば私個人の魅力を持ちたい。誰からも愛されなくていいから、少なくていいから、誰かの心に深く突き刺さりたい。私は私の持っているカードで何ができるのだろう。


でも、やっぱり才能は欲しい。私は才能というワードに死ぬまで憧れ続けるのだろう。才能があれば良かったのになってこれからもグダグダ言ってしまうだろう。人は無いものねだりだから。自分がこの先持つことがないと分かっているから、私は安心して才能に憧れて才能を欲しがる。遠くにあるから綺麗に見えているだけ。いつだって、隣の芝は青いんだから。


◇◇


欲しいものある?かあ。仕事の都合で引っ越すことになった。通い慣れたコインランドリーともあと数日でお別れ。いつも使っていた右から二番目の乾燥機を自分のものにしたいな、なんちゃって。それくらい今は欲しいものが見当たらない。最近の私は、才能とか努力のことばかり考えていたから。


コインランドリーでよくnoteを書いている。そんな暇があれば勉強をするべきなのかもしれない。でも、書くことはやめられない。もし神様にお前は書くことが向いてないと言われても、この先も書いちゃうんだろうなあ。




ゆっくりしていってね