佐藤悠【小山町】3日目
見えてないときの方が、物事は大きく感じているような気がする。
朝、初めてこの滞在の中でしっかりと姿を現した富士山は、思ったよりも小さいというのが率直な感想で、見えてないからこそ、この二日間で自分の中の富士山が相当大きなものになってしまっていたようだ。
朝の富士の周りにはまだ「もや」のようなものがとりまいていて、今見えている山の奥の霞の中に、さらに大きな山がいるんじゃないかと想像したり、
「かげおくり」をした時つまり、日差しの強い日に自分の影をじっと見つめて、晴れた空にぱっと目を移したときにそのシルエットが幻影のように空に残るあの効果のような見え方で、実態の富士山の周りをハレーションのように別の富士山の尾根が何度も現れては消えていた。
初代バルタン星人のオプチカルな分身シーンのように、いろんな富士山のシルエットが軌跡を伴って、蠢いているように見えた。
絵に描いたとしたら、空の余白がまだまだ大きい、そんな見え方。
自分が作った手乗りサイズの富士山が昨日から旅館の部屋にあるが、扱えるものに落とし込んだ小さい富士と、イメージの中で大きく大きく膨らんだ富士の、2つのものが心の中にある。
初めて姿が見えた富士の姿を、思い出しながらスケッチに描いてみた。
旅館のエレベーターの中に、横山大観の「群青富士」がポスターのデザインになって貼られているが、今朝見た富士山はあんなに尖っていなかったので、何かこれも彼のイメージ中の富士山なのかなと思いながら、もう少し平たい、角度の開いた尾根を描いた。
後で出会う安藤さんに聞いた話だが、自分がどこから見ているかによって、だいぶ見え方が違うと言う話もあるようだ。遠くから見た方が尖って見えて、近くにいるともう少し平たく見えるそうだ。
まずは部屋の中で印象で描いてみて、その後やっぱり本物を見ながら描きたい気持ちになり、そういえば旅館の大浴場からまっすぐ富士山が見えるなぁと思い出し、早朝であることと、今日は自分しかこの旅館に泊まっていないのもあって、こっそりスケッチブックと鉛筆を持ち込んで風呂の中で富士山をスケッチしてみた。
よくある銭湯では絵になった富士山が壁にあるが、ここは本物の富士山が窓ガラスの向こうに見える。夕方もう一度風呂に入ったとき、洗い場にある鏡に写った鏡富士も発見した。(水平線ではなく、垂直線の反転だが)
本物の富士山と自分が部屋で描いた想像の富士山を見比べてみると、横山大観の群青富士ほどでは無いが、自分の富士山もまだもう少し尖っているようで、少し平たい尾根に直しながら、昨日また降った雪の部分や、地肌が見えている部分をスケッチしていった。
色も入れたくなってきたので、お風呂から上がり浅間神社の駐車場で車を止め、その荷台に座って水彩で色をつけていった。
絵を描く、スケッチをするというのは、ものをよく見るとこどだ。特に何かモチーフを使って絵を描く場合、絵としてアウトプットされる物事より、その過程でものをよく見て自分の中にインプットされる情報が重要で、むしろ見るために描いているところもある。
駐車場で描いている時にも、やっぱり富士山の奥にもっと大きなもの、大きな山の影が見えてきたり、両端の尾根がもっと外側の空の部分にあるように見えてきたり、空に全く雲がなくて距離感がつかめないためか、幻視のような変な感覚があった。
本当はもっともっと大きな山が後ろに隠れているんじゃないか、ものまね紅白歌合戦のご本人さん登場のように、真の富士山が見えないもっと奥にいるんじゃないかみたいな、そんな感覚が特にこの時見た富士山にはあった。
その後、今日は駿河小山駅前でレンタサイクルの自転車を借り、サイクリングコースに沿って、富士見の場所、要するに富士山がよく見えるビューポイントを何箇所か回った。
特にビューポイントになっていない場所でも、風景が抜けて富士山がよく見える場所があるので、その都度立ち止まって富士山を見た。
普段は、どこか高所に登った時や、新幹線で駅に止まった時など、本当に限られた時間しか見ることはないが、今日は意識を持って何度も見つめていたので、見るたびに印象が変わってそれがすごく不思議だった。
あそこにあるなと思いながらしばらく自転車をこいでいて、坂道が急なので地面を見ながら一生懸命立ち漕ぎをして、道が平坦になったので顔を上げると、さっきあった場所と全然違う場所に富士山があって驚いたり、
距離的には自分が富士山に近づいたはずなのに、さっきより小さく見えたり、逆にさっきよりも遠ざかったはずなのに、振り返るとより大きく見えたり・・・みたいなことが何度もあった。
土地の高低差、もしくは視界に入るもの・・例えば鉄塔であったり、道路標識みたいなものとの相対的な大きさの印象でそう見えるのかもしれない。
または、見つめている自分の視点自体に変化があって、そう見えてるのかもしれない。
また鑑賞の話になりますが、人生の中で、何度も同じ作品に向き合ったり、鑑賞しに行ったりすることの面白さとして、見るたびに見え方が変わる点がある。
野外に設置されているものだと、環境や季節やいろんな変動するものがあり、もちろんその影響も受けるが、見ている鑑賞者自身の視点が時間の経過や成長、人生の節目を経て変化し、それによって全く同じ作品を見たはずなのに、全然違う思いが浮かんでくることもある。同じようなことを今日の富士山にも感じた。
朝駐車場で描いていた時よりも、夕方ごろに小山町総合文化会館の前で見た富士山の方が、より解像度が上がって見えて、もっともっと岩肌のシワのような部分であったりとか、ここが登山道なのかなと言うような曲がりくねった線が斜面に沿って見えたり、細部がよりはっきり見えた。
もしかしたら時間が経って、昨夜の雪が溶けて、雪が隠していた部分があらわになって細部がより見えたのかもしれないが、5時間のサイクリングの中でいろんな変化が自分にあって、そ目が変化したのかもしれない。
途中寄った図書館では、富士山のコーナーがカウンターに1番近い位置にあって、その中でいろんな人が描いた富士山の絵や記号のようなものを見た。やはり、それぞれの捉え方表し方があるんだなと思いながらノートに書きうつしたりして過ごした。
朝、レンタサイクルを借りたところにいらっしゃった、安藤さんが非常に話しやすい方で、朝から考えていた富士山の不思議な見え方のことを話した。
安藤さんは、人生の中で富士山に5回登っているらしく、最近も20年ぶり位に登ったそうだ。若い頃はテレビで富士山開きを見て思い立ち、電車に飛び乗って夜から次の日にかけてで登山することもあったそうだが、そのような弾丸はさすがに20年ぶりにはできないと思ったので、まず5合目まで登って一旦家まで帰って2〜3日過ごし、次は8合目まで登ってまた戻って一旦2〜3日日常を過ごし、次に最後まで登ると言う行程で登ったそうだ。
だんだんと運動の強度を上げていって、登山の体力をつけていくことであったり、高山に体をならしていくフィジカルな目的もあるようだが、一気に上ったのでは味わえない自然との関わりを感じるのが良いからとも言っていた。
家と富士山を短期間で行き来しながら過ごすというのはすごく興味深く、その合間の日常がどうなるのかが気になった。
おっしゃっていたのは家でも山の余韻が残っているという話で、やはり山に行くのは非日常を体験しに行くところだが、そこに一旦日常を挟む中で、もしかしたら日常と非日常がじんわりと混ざっていったり、もしくは非日常に日常が入り込む、逆転するような、そんな事も起こるのではと想像しながら
話を聞いていた。
それは仕事と余暇という、ワーケーションのテーマにも通じる気もして、昨日はラベルのついていないスイッチの切り替えに例えてその話をNOTEに書いたが、イメージとして何かつながるのではと考えながら話を聞いていました。
ちなみに今日引いたカードは棒の騎士でしたが、それは特にピンと来なかったかな。。
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