見出し画像

佐藤悠【小山町】2日目 「足柄古道で雨の音」

The sound of rain on Ashigara Kodo.
Notebooks spelled out in the gentle rain.
Rain turned to snow in the afternoon.
Unseasonal snow cover.
So we cannot see Mt Fuji.
No way, rain forecast for tomorrow?
Lights out early again today at 9:00.

朝8時にチャイムのような鐘の曲が町内になっていたけれど、あれは何の曲だったんだろうか。(多分16時30分ごろにも鳴っていた)

3/30追記:富士山の歌のメロディーらしい。

足柄駅に集合して、足柄古道と言う山道を1時間ほど歩く。雨の中でいろんな水の音が聞こえていた。泊まっている旅館のすぐそばにも浅間神社の入り口前に小さな滝があるが、ここの古道の道中にも小さな滝がいくつかあったりして、沢の流れる音、山道の土の上を水が集まって小さな流れになっていく音や、雨が傘に当たる音、午後はみぞれ混じりの雪が降ってきてぐずぐずになった溶けかけの雪を踏んで歩く音など、今日はたくさん水の音を聞いた。

昨日もしくは今日だったか・・旅人、写真家の秋野さんが自分が小山町を選んだのは、山と言うよりも川の多さと言うポイントがあったと言っていた。

ここに来るまでは海や川のイメージがほとんどなく、小山町はまさに山の中と言う先入観があったけれど、昨日からよっぽど水の方に接している。旅館でもお風呂入り放題だし。

・・・とこの辺で、あまりテキストが進まないのでやっぱりまた旅館の風呂へ行く。

何か詰まった時にすぐ大きな風呂に入れるのは、ほんとに幸せだ。インプットしたことを練ったり、アウトプットのアイデアを考えるのによい。

ワークとバケーション、矛盾した2つの組み合わせについて昨日も少し触れたけれど、こういう時の大きなお風呂につかっている時間は、まさにワーケーション的だなと思う。

体はリラックスしてバケーション状態になっているけれど、思考はそのせいでむしろ進んでしまうというか、バリバリマッチョに稼働しているわけではないんだけれども、血流がほぐれたところで思考が普段入らない脳の隙間に流れていって、いつもとは別の部分が駆動してくるような・・そんな形ではかどる。

馬上・枕上・厠上と言う、物事を思いつくアハ体験の起きやすい場所として、移動中、就寝前、トイレの中と言う「三上」があるけれど、自分的には絶対に大きな風呂・・それも1人で入る大きな風呂がそれに当たる。
湯上?湯中みたいな場所だろうか。

そんな湯船の中で思い至ったのは、オンとオフのラベルのついていないスイッチ・・電気のスイッチや、トグルスイッチのような2つの用途に切り替わるスイッチのイメージ。

今、回線が切り替わっている側がオンなのかオフなのかはあまり関係なく、2つの回路を行き来するというか、意識的に切り替えていくこと自体に何か意味があるのではないかなと思う。

切り替えることで切り替わらない部分が見えてきたり、そこからはみ出す部分が普段より良く作動するみたいなことが起こってくるのではないかなと。

まぁそれは仕事モードと休暇モードを切り替えるような単純なことではなく。滞在している日常の中で、ふと何かが切り替わる瞬間、もしくは気づいたら切り替わってしまっていた時の、その辺の状態にに意識を向ける・・そんなことだろうと思う。


風呂から上がって、また山道の散策のことをどうやってテキストに起こしたらいいのかと悩んでいる。


見上げたときの小枝についていた水滴や、雨を帯びてヌメヌメ・テラテラと光沢を放つ岩や石、足の裏で感じる凸凹と斜面。端から見ると大変静かな道中かもしれないが、自分にとっては大変刺激的な時間だった。

さっき大風呂に入っている時の感覚を話したが、そういうものにも似た、脳みそがほぐされ動いていく感じ・・普段の物の捉え方が変容していくような、自分が考えていたものとの距離感が変わっていくような、そんな感覚があった。

地形の中で思考がうごめいていくような感覚をイメージしていたが、道中の案内看板の中にも、地形を歩くことを利用した健康法のようなものが紹介されていて、シンパシーを感じた。

小山町は金太郎、つまり坂田金時に縁があるので、足柄古道の途中にもそういったゆかりの地であったり、他にも古い言い伝えがある場所が散見されて、ホストの方に軽く解説してもらいながら歩いた。

この解説を付かず離れずで聴いていたので、それも自分にとってはよかった。ある程度自分の思うまま、ふらふらとさまよう時間を過ごしたり、ポイントになるところで他の人の言葉を聞いたりと、そういった行いの往来があった。それらが自然に自分の中で切り替えることができる機会が担保されていると、良い散策になる。

さっきは大きな風呂に入っているときの感覚と関連付けて話したが、現地で実際に散策をしているときに類似性を感じたのは、(がらんと空いている)美術館の展示室の中で鑑賞している時の感覚だった。

思うようにふらふらと散策するように歩きながら、目にとまったもの、気になったものを立ち止まってよく見て、必要があれば解説を読んだり聞いたりして、また歩き出し、ぐるぐると1つの展示室であったり1つの企画の中で往来をして、再び同じ導線に戻っていく。だんだん何度も目が行くものが自分でわかってきて、それについて立ち止まって考えてみたり、またよく見てみたりするような・・そんな感覚。

特に今日の散策コース自体がとてもシンプルで、図にすると投げ輪のような形で、ほとんどの工程はシンプルな一本道の往復と言う形。

スタートとゴール地点は変わらない所がよかった。どんどん進んでいくだけではなくて、戻っていくコースがあることで、進めていくこと、進捗していくことだけが目的になっていない構造が思索することにとって良かったのではないかなと。

このNOTEを書くと言うことについても、「これをやろう」と決めてやったことよりも、そう思っていなくて、スイッチの回路が入ってない側、気がついたらなんかできてしまっていた、そういうものの方が面白いものができる気がする。この意識の切り替わりみたいなものに、あと5日ほどもう少し付き合ってみたい。

午後は雨が雪に変わって、また今日も富士山の姿を見る事ができなかった。

もちろん裾野のほうは見えるし、「富士山が見えないなぁ・・」と思って立っている自分の地点も、いつも住んでいるところから見ればすでに富士山の1部なので、「見えてない」と言うのはおかしいが、いわゆる「富士山」と言ってぱっと頭に浮かぶあのイメージがまだ見れていない。

ただ、今日のホストのアテンドの中でも、昨日から小山町に入った時からもそうだが、いろんな場所でポスターなりパンフレットなり、富士山を想起させるもの、富士山をモチーフにしたものが多分にあって、いつもよりそういったイメージの富士山というか、フィクションの富士山に出会いまくっているので、そのご本尊というか、本体が見れてないのは何か変な感じだ。

今日は姿の半分位・・5合目位だろうか、見えていたが、上のほうは雲に隠れてしまって自分の心の中でその姿を補っていた。振り返ると昨日から割とそういうことをしていた。

「あっちの方が富士山です」みたいなそういう話を聞く機会がすごく多くなったが、その時に大体見えてないので、指さされた方の雲の中や、建物の壁の奥に、富士山を想像すると言う機会が自然に多くなっていた。

昨日の交流会で、小山町の方からアーティストと街の人の関わりみたいな話をする中で、滞在の中で自分がもし、ワークショップをするならどんなことするんだろうなっていうことも少し考えたが、そういうこともきっかけの1つ・・またホストのアテンドツアーの最後に寄った浅間神社の門の中に飾られていた大小の富士山模型(神輿)が最後の一押しになって、今日は自分の心の中にある富士山を作ってみようとやってみた。

心の中の富士山なので、新富士ならぬ「心富士」。丸く穴を開けて破った色紙を重ねて作った立体なので、めちゃめちゃ小さいんですけど、旅館の部屋の中で布団の塊や障子を風景に見立てて眺めてみる。

最後に。

今日引いたカードは剣の5。なので、5と言う数字とどこかで今日は出会うのかなあと思いながらツアーに参加していた。

集合場所の足柄駅が隈研吾さんの設計で、そのイメージのもとになった嶽之下宮に寄らせてもらった時、そのご本尊がある建物が5本の指のある手を重ねて祈っている、まさに合掌型の建物になっていて、また、かつてここで合戦があったときのご遺体や武器等を安置する八角形の御堂に入らせてもらったりしたときに剣のイメージと重なったりして、あ〜今日はここがカードで引いた場所なのかなぁと思った。

他の記事
・佐藤悠【小山町】1日目
・佐藤悠【小山町】2日目
・佐藤悠【小山町】3日目
・佐藤悠【小山町】4日目
・佐藤悠【小山町】5日目
・佐藤悠【小山町】6日目
・佐藤悠【小山町】最終日
・佐藤悠【小山町】まとめ

佐藤悠:WEBサイト
   :BLOG

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?