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「街場の教育論」内田樹 ー良き師を持つことー

2008年に刊行された 内田樹の「街場の教育論」。今読んでも学びが多いものだった。

特に「教師」という存在について考えさせられる描写があった。

教師がひとりの個人としては何ものであるか、ということは教育が機能する上で、ほとんど関与しない。問題は教師と子どもたちの「関係」であり、その関係が成立してさえいれば、子どもたちは学ぶべきものを自分で学び、成熟すべき道を自分で歩んでゆく。極端なことを言えば、教壇の上には誰が立っていても構わない。そうではないかと思います。

少し前までは「完璧な教師」を誰もが求めるイメージがあったが、完璧で無くてもいいし、究極的には誰でも良いという言葉を聞いて、肩の荷が降りる人がいたり、「何を言ってるんだ!教師は誰でもいいわけないだろう!」と思う方もいるかもしれない。

現在の教育でも教師=パーフェクトな人を求める風潮がまだまだあるように思うが、これからの教師像などを考えると、子どもに寄り添い、一緒に学び続けられることが重要になってくるので、その点でも、スーパーマンのような人でなくても、未完成な人でも十分に教師の役割を果たせるのかもしれない。

教師が教壇から伝えなければいけないことは、ただ一つです。
「私には師がいます。私がここでみなさんに伝えることは、私が師から伝えていただいたことの一部分にすぎません。師は私がいま蔵している知識の何倍、何十倍もの知識を蔵していました。私はそこから私の貧しい器で掬いとったわずかばかりの知識をみなさんに伝えるためにここにいるのです」

・・・つまり、レヴィナスの知的可能性を開花させたのは、師から「教わったこと」ではなくて、「師を持ったこと」という事実そのものだったということです。
「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を越える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。

「学ぶ」とは教師から「教わる」のではなくて、自分を遥かに超越した知的境位が存在するということを信じることによって、自身の知的限界を越えることだと内田は述べている。
以上の話を見ると、自分の本当の師というものに出会うことは難しいことなのかもしれないと思った。
自分の人生のなかで、そのような師に出会ったことは無いなと感じる。
もしかしたら出会っていたかもしれないけれど、自分の感度が鈍くてわからなかったのかもしれない。自分が求める道を探す道程で出会えるものかもしれない。


こんなふうに考えていくと、人生は「自分の師を見つける旅」とも言えるのではないかな。
今の私だったら落合陽一のような人の近くについて、何をしているのかじっと見つめて、学びたいと思う。

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