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私のキャリアは決して順風満帆じゃない①〜グランドスタッフになれるまで〜

こんにちは☺️micoです。

2023年は副業でお仕事をもっともっと挑戦したい!と思っているので、私が何者で、どんなことを考えて生きてきた人なのか?を知ってもらえる機会をこうしてnoteでアウトプットしていきたいなと思っています♡

経歴コンプレックスがある私

最近、自分の経歴について人前でお話しする機会がありました。
私は、以前から自分の経歴を人前で話すときに、地味にコンプレックスを感じることがあるんです。

私の経歴はざっくりいうと、
・大手日系エアラインで国際線グランドスタッフ
・大手広告関連企業で住宅アドバイザー
・同企業の関連企業で、人材派遣コーディネーター(現職)
という経歴です。

「この人めちゃ恵まれた人生を送ってきたんだろうな」
「大手ばかりで自信たっぷりなんだろうな。自慢げに話すなよ〜」
「え、めちゃバリキャリなんでしょ?」

すごいネガティブ炸裂してますが、こんなふうに内心思われているのではないか。。。と先日も不安でたまらなくなりました。確かに、自分が今まで築いてきたキャリアは後悔もなく、努力してきたことも間違いはない。でも決してラクに生きてきた訳ではない!、と声を大にして言える。

今日はグランドスタッフになれるまでの私の軌跡を書きたいなと思います✏️
私の辿ってきた道が必ずしも正解かはわからないですが、グランドスタッフになりたいとか、エアラインに興味を持っている方にももし目に留まっていただけて、頑張ろう!って思えるきっかけになったら嬉しいです🌟

ひたすらできることをやると決めた大学時代

私は中学生の時に、グランドスタッフになりたい!と人生初の夢ができました。

地方出身のため、何かやりたいと思っても都会に出ないと叶わないんだ、と幼少期よりずっと感じていました。縁あって、大学進学と同時に関西で暮らし始めました。

大学時代はグランドスタッフになるためなら、何でもやりました。
大学3回生からは、1回生から続けてきたテニスサークルも辞めました。
3回生は、サークル活動において幹部になる時期なので、練習に半強制参加になることや、合宿、集まりなどサークル運営において時間の拘束が多いため、今の私にとっての優先順位を考えて決断しました。

平日週2日は夜にECCエアラインスクールへ通い、他の日は夜に大学併設のエクステンションセンターで、TOEICや旅行業務取扱管理者資格のコースを受講し資格を取得しました。エアラインは受験資格にTOEICスコア提出があります。会社によってスコアは異なりますが、英語があまり得意ではなかった私は、TOEIC講座は2〜3期は繰り返し通いました。
金銭的にもかなり厳しかったですが、親が支援してくれ本当に感謝です。

私は外大ではないし英語専攻でもない。さらに帰国子女でもない。
ライバルの受験者よりも何倍も努力しないと同じスタートラインに立てないと思っていたので、我ながら人生で一番努力した時間だったと思います。

採用試験は落ち続きだった

受験が始まるとエアラインスクールの同じクラスの友人は続々と内定をもらっていました。3回生の秋頃〜4回生の夏まで当時はエアラインの受験時期が続いたのですが、私は内定をずっともらえず、実費で羽田・成田・名古屋・福岡と受験で飛び回りましたが中々結果が出ませんでした。

悔しくて悔しくて、たくさん泣き、誰より最後までスーツを着て大学に授業に出ているそんな私支えてくれたのは、大学のゼミや学部の友人、家族、エアラインスクールの先生でした。大学のゼミや学部の友人へは、グランドスタッフを目指していることを公言していました。
やりたいことがあるって口にだすと、応援してくれる人が増える。
そしてその人たちが自分を支えてくれる。
なれるかもわからないのにいいのかな、、と不安にもなるけれど、口に出すって本当に大事だなと、今考えても感じます。

当時は売り手市場だったため、旅行業務取扱管理者の資格を持っていた私は、旅行業界はたくさん内定をいただくことができました。
しかし、最終的にエアライン関連は、大阪のJAL予約センターのオペレータと、実家のある小松空港のグランドスタッフのみでした。

両親は実家に帰ってくることを切望しましたが、私は外国と日本がつながる国際線のある成田か関空で働くことを目標にしていたため、本当に悩んだのですが、既卒採用で再チャレンジすることを前提で大阪に残ることを決意。
JAL予約センターでまずは働くことを決意しました。
当時親も、それなら仕方ないと反対せず見守ってくれました。
小さい頃から、私がやりたいと思ったことを黙って応援してくれる親を喜ばせたい、制服を着て働いている姿をいつか絶対見せたいと、この時本当に心から感じました。

支援者はたくさん実はいる

予約センターに入社後は、覚えることが多く、電話の仕事は本当に辛かったです。もちろんクレームも多いし、ビジネス客が多い国内線担当だったため、予約を作るのが遅すぎて怒られることもありました。
同期や先輩には、グランドスタッフになりたくて採用試験を受け続けていることを言えませんでした。誰にも相談できず、メンタルも限界に近づきそうで、私は辞めたいとある日上司に意を決して相談することに。

しかし、幸い当時の上司が本当に良い方でした。
私が「グランドスタッフに本当はなりたかった。だから辞めたい」と入社3ヶ月ほどで伝えた際、こんな言葉をかけてくださいました。

「あなたの目線は今下ばかり見てる。ちょっと視線を上に向けたら見えてないものが見える。顔をちょっとあげてみない?」
「夢があるのは素敵。もし採用面接で休みが必要な時は遠慮なく私にこっそり教えてね。私ができることがあれば応援するから」

それから程なくして、私は第一志望だった、関空のグランドスタッフの会社に既卒で内定を頂くことができました🥺
上司にご報告できた際は、本当に喜んでいただき入社わずか5ヶ月ほどで私は円満退職し、長年夢見た国際線のグランドスタッフになる夢を叶えることができたのです💐
今は亡き大好きだった母が、電話で興奮気味に喜んで頑張ったね!とたくさん褒めてくれたのが今でも忘れられません。

そして入社して数年後、JALの制服を着て搭乗手続きをする姿を、関西空港で両親に見せることができました。あとで母親に聞いたのですが、父親は今まで他社を使っていたにも関わらず、出張であえてJALを使ってくれるようになり、マイレージカードの入会までこっそりしていたそうです笑

人に恵まれ叶えた夢

小さい頃から呑み込みも要領も決していい方ではなかった私は、このように周囲の方にたくさん支えられ応援され、夢を叶えることができました。生まれ持った才能や家庭環境がなくても、私は努力していたらいつか誰かは見てくれていて、自分に助けを差し伸べてくれると身をもって体験しました。

実際にグランドスタッフになれてから、周囲の同期や先輩たちは、本当にすごいなという人が多かったです。ほとんどが外大卒の人たちだったし、帰国子女や、英語の発音がすごすぎる人、遅延などがあった際は自分で英語を考えてアナウンスをかけなければいけないシーンもありましたが、英語力が乏しい私は文章を作れずできる人に聞いていました笑

それでも5年弱、外資エアラインを含めいろんな便を担当させていただけたし、フライト責任者や教育担当も最後は担わせていただきました。

苦労した時間があっただけ、仕事に思い入れを持って働けたし大事にできた人生の時間だったと思います。退職してもう長く経ちましたが、ここが私のキャリアの原点。私も次は誰かの夢を応援サポートできる、優しい人でありたい、そして想いを持って仕事に取り組む人でありたい💓
今の私の人生のモットーにつながっています。

長くなってしまいましたがここまでお読みいただいた方、本当にありがとうございます!🌟

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