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今、僕が、現在地(ここ)にいる理由②

こんにちは。僕は約3年前に地域資本家として起業し、3つの法人の代表者を兼任しています。

日本という美しい国の、地域社会が持つヒトやモノやカネなどのすでにそこにある経済資本、文化とか関係性などの関係資本、そして地域の自然や街並みなどの環境資本に着目し、「温かなつながりのある地域社会」を実現していく活動を行っています。

3年間強経った今だから言える、藤井雅巳という人間が、現在地(ここ)にいる理由を何回かに分けて語っていきたいと思います。


社会人として見えた風景

なぜ、今このような役割を担うことになったのか。何をしようとしているのか。僕の今の活動の原点は、社会人になる頃にさかのぼります。

僕が、早稲田大学政治経済学部4年生として就職活動をしていたころ。

「自分は何者なのだろうか?」とか「何ができるのだろうか?」、そして、「何がやりたいのか?」みたいなことをひたすら自問する自分がいました。

そんな中、就職活動などを通じて初めて真剣に社会人呼ばれる「世の中を動かしている側の人たち」と交わる機会を得て、痛切に感じた印象。

「なんで日本人はこんな元気がないのだろうか?」

もしかすると僕がそんなフィルターで見てしまっていたかもしれないけど、少なくとも10年前に「Japan As No.1」と言われたはずの日本の大人たちはしょぼくれている印象を受けました。そして、違和感があるほどみんながおんなじ表情とか服装とかしていることが印象的でした。

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(写真)金融の中心地・千代田区大手町の町並み

「僕は日本を元気にしたい」。

若気の至りのようなものもあったかもしれませんが、少なくとも自分という人間が日本という国を1ミリでもよりよく変えていく影響力を持ちたい、そんな人間になりたいということをこの頃から強く考えるようになりました。

社会人入門コースからの旅立ち

そして、いくつか選択肢がある中で、まずは何もできない自分の社会人入門コースとして、やることのイメージが湧いて、身につくスキルみたいなものも明確にイメージできる会社を選ぼうということで、政府系金融機関に入社しました。ただし、入社する前に3年間を目途に次のステージに行こうと決めていました。

たまたま、本店の営業部という恵まれた先輩方と顧客に囲まれた環境で3年間中小企業向けの融資業務にどっぷりつかりました。そして、入社まもなく次のステージに行くための筋トレとして、USCPA(米国公認会計士)の資格取得のための勉強をはじめました。

思えば、人生で最もハードにインプットする時間を過ごし、予定通り2年間で資格を取得し、次のステージに転ずることになりました。

コンサルタントとして日本の企業を変えたい

2004年の春、最低限の筋トレとインプットを経た僕は、自分の力を世の中の企業を変えていくために使いたいと思いコンサルティングファームへ転じました。当時、25歳。

当時、日本が「失われた20年」と呼ばれていたバブル経済の崩壊の後遺症を抱え続けた不良債権処理問題の真っただ中。僕はコンサルタントとして、大手小売事業者や老舗メーカーなどの再建に関わり、「企業再生」という分野と出会うきっかけとなりました。

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「企業再生」とは、かつては輝きを放っていたけど、何らかの理由により輝きを失い、価値を損ねてしまっている企業の価値を高める仕事。この頃は、まったく力不足にもかかわらず、「企業再生」こそが日本を元気にするためのキーになるもので、この仕事こそが天職だと感じて寝ることも忘れて仕事に没頭していました。

「企業再生」の分野には、冨山和彦さんや、佐山展生さん、および星野リゾートの星野佳路さんのような当時からトップランナーであり、20年以上経ても未だに輝き続けているような人たちが沢山いました。

そして、「企業再生」との出会いによって、その後の僕のサラリーマンキャリアの大半を過ごすことになる投資ファンドのファンドマネジャーの扉をノックすることになります。

人生「塞翁が馬」だと思うこと

「塞翁が馬」という故事成語があります。

塞翁が馬(さいおうがうま)とは、幸せも不幸も人間の期待した通りにはならず、何が禍(わざわい)となり何が福となるか分からないことを説明した故事成語である。

国境近くのとりで(塞)に住んでいた老人(翁)は、ある日、飼っていた馬に逃げられてしまった。近所の人たちが慰めると「これは幸運なことである」と翁は話をした。すると、その逃げた馬がやがて立派な馬を連れて帰ってきたので、「本当に幸せなことになりましたね」と周囲の人たちが話すと、今度は「これは不幸なことである」と翁は返事をした。実際、その馬に乗っていた翁の息子が、落馬して怪我をしてしまったのである。その不幸を同情していると、今度は戦争が始まり、怪我をしていた息子は兵隊に取られることがなく助かったという物語。(出典:実用日本語表現辞典)

この物語から、何が幸せで、何が不幸なことにつながるかは分からないということを教訓として伝えているのですが、僕の場合、USCPA(米国公認会計士)に合格した年である2003年は監査法人が不況の年であり、採用を大幅に絞り込んでいました。

そのため、会計士になってから一度は監査法人に就職し、国際的に活躍する会計士になりグローバルに活躍する日本企業の支援をしたいと思っていたのですが、その夢は完ぺきに絶たれてしまいました。

ただし、そのおかげで迷わずコンサルタントになることを選択し、結果として「企業再生」という仕事に巡り合うことができました。「企業再生」という仕事に出会うことがなければ、今の自分はおそらくないのではないかと思い、人生の不思議なめぐり逢いに感謝しています。

研究所_はじまり

企業再生をしていなければ、日本全国を巡ることもなく、日本全国を巡ることもなければ、鎌田實先生とも会うことがなかったでしょう。

そんな人生塞翁が馬を感じつつ、それでは、また続きの投稿でお目にかかりましょう。


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