僕は、一度、死んだ。
今日(2021年7月21日)で、個人事業主の開業届けを出してから、ちょうど10年が経った。いい機会なので、社会人人生を振り返ってみる。
まず、ここまで生き残れたのは、偏屈な私に仕事を依頼してくださった寛大な方々はじめ、関係各所の皆様のおかげです。心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
さて。
私が社会に出たのは、就職氷河期に超がついていた時代で、あんな大きな新聞社にヌルッと入り込めたのはラッキーだった。
元々は、広告代理店の営業志望。
大学で一番仲の良かった友人が1年前に代理店に入社していたので、多分に感化されていた。
ただ就活中に新聞社の営業セクションの説明会に参加し、今度はめちゃめちゃ楽しそうに仕事を語る社員さんに感化され、
「この新聞社ならメディアもあらかた持ってるし、スポンサー前提の代理店より、自分たち主導で色々できそうだな」と志望度がググッと高まった。
しょせん世間知らずの学生の見識だが、それが就活というものだろう。
ただ私はすぐに仕事に音を上げた。辛抱が足りなかった。新聞社の広告営業として、すぐに結果が出ないことを、自分には適性がないと決めつけた。
幼さ、過剰な自意識、打たれ弱さ、ゆえだと思う。
「激変するメディアの世界で、この先、自分は生き残っていられるだろうか」と不安ばかりが募っていった。
「ここではないどこかに、きっと自分の道がある」と、営業1年目の終わり頃には、転職がチラつき始めた。
面接で「あなたの学部の人はすぐ辞めると言われていますが」と問われ、「私は大丈夫です!」と大見得を切っておいて、本当に申し訳ない。採用担当者に輪転機で轢き殺されても文句はいえない。
ただ同僚たちはめちゃめちゃ楽しい人たちばかりだし、給料もよかった。
「本当に辞めていいのか。人生転げ落ちるのでは」と逡巡もあった。
なので、元来、無神教だが、運命を神に委ねることにした。
当時、出版社の宣伝会議が主催する「コピーライター養成講座」なるものがあり、若手コピーライターやコピーライター志望者が通っていた。
半年間の講座の最後に卒業制作があり、一等賞になると、実際のクライアントさんの広告キャンペーンにコピーが使用されるという特典があった。
私は、これに賭けてみることにした。
広告業界にいたこともあり、良質なコンテンツをつくれるコピーライターになれば、メディアの栄枯盛衰にかかわらず重宝されるはずだと踏んだのだ。
何とも自信過剰な作戦だが、ともあれ、若手が集まる講座の中で一等賞になれないようなセンスなら、たとえダメ社員でも新聞社にしがみつく人生の方が何倍も幸せだと思ったわけだ。
で、結果は、まさかの一等賞。
正確には、1位はもう1人いたのだが、クライアントさんたっての希望で私のコピーがキャンペーンに大々的に採用されることになった。
当時住んでいた名古屋の街で目にする自分のコピーに、「まさか、俺、、、天才か」と勘違いしそうになった。いや、、、した。若かったし。
そして転職活動を開始。
未経験では代理店の制作職は門前払いだったが、リクルート系の小さな制作会社に採用された。
某年4月12日。
私は、新卒で入った新聞社を4年で辞し、ほぼ求人広告しか作らないわずか15人の制作会社に転職した。
地獄の始まりだった。
最初の給料は、新聞社時代の3分の1だった。
愕然としたが、すぐに賞でも獲って、大手代理店の制作職に転職すればいいさ、くらいに考えていた。
しかし、まったく通用しなかった。
企画やコピーで周りを「おお!」と唸らせるようなことは皆無だった。
人も少ない会社だったので、顧客対応から入稿周り、お金回りと業務領域が広く、そういう事務的、営業的な仕事でもミスばかり連発した。
能率が低いので当然だが、残業時間は毎月軽く200時間は超えていた。気絶している時間を含めて、400時間を超えるような月もあったと思う。
また、人間関係もきつかった。
「新聞社からきたっていうからどんな奴かと思ったけど、超使えねーな」
「お前みたいな奴が入らないような採用広告をつくらなきゃな」
そんな言葉が、自意識過剰な私の心をグサグサ突き刺した。
発言者からすれば、マネジメントの一貫だと言うのだろうが、パワハラとしか受け取れなかった。
私はどんどん心を閉ざし、ひとり勝手に孤独を感じ、酒量ばかりが増えていった。転職の翌年に結婚したが、式には会社の人は誰も呼ばなかった。またそれでチクチク言われた。
私は自分の能力を過信していたのだろう。
現実とのギャップを受け入れられず、常にサイドブレーキを引いたまま、アクセルを踏み続けているようなフラストレーションを抱えた状態で生きていた。
成果は上がらず、社内外の誰からも認められず、家に帰れず、常に睡眠不足。
「こんな人生なら早く終わって欲しい」とさえ思っていた。
おそらく精神も病んでいたと思う。
それでも地獄の日々を3年4年と生き延びていたら、後輩も増え、一応それなりのポジションになっていった。
会社の景気も悪くなっていたこともあり、精鋭部隊という名目で、会社に反発ばかりしている面倒な奴ら5、6人を集めた別会社を作ることになった。
その会社の代表を、あろうことか、私がやることになってしまった。
薄々「俺がやることになるのかな」という予感はあった。
千葉から来たという行商のお婆さんが、いきなりビルの8階にあるオフィスに入ってきたことがあった。
でっかい荷物を背負ったお婆さんは、他の社員に見向きもせず、一目散に私の元へツカツカ近づき、落花生を売りつけてきた。それで買ってしまう私も私だが、それほど私は断り下手な圧しに弱いキャラに見えたのだろう。
ゆえに社長就任にしても、「まーお前だろ」とほぼ議論なく決まった。そもそも制作だけしたい人種ばかりだから、面倒な経営など誰もやりたくないのだ。
株式会社を設立したので、代表の私は転籍になる。当然、他のメンバーも転籍すると思っていたのだが、「そんなリスクを冒せるわけないだろ」と平然と拒否した。
あんなに会社の不平不満ばかり叫んでいたくせに。。。と裏切られた気分だった。
「何をするかより、誰とするかが大切」という私の信念は、この頃の経験からきている。
すぐに経理、法務面でパニック状態に陥り、親会社の社長に泣きついて助けてもらえたが、あのまま1人でやっていたら、ぶっ倒れていただろう。
しかし、その後、私は本当にぶっ倒れることになる。
ちょうどその頃、病気持ちだった父の状態がいよいよ悪くなり、週3回の人工透析が必要になってしまった。
すでに1人で歩くことはままならない状態で、行政頼みのヘルパーさんだけでは対応しきれず、必然、家族がやることになった。
プレゼンに向けて徹夜で準備し、そのまま会社から実家に帰り、父を病院に連れて行き、透析している間に待合の長椅子で仮眠を取るようなことも何度かあった。
そんなことが長続きするわけがない。
ある日、父の透析から戻り、会社で用を足していた時だった。手を洗おうとした私の視界が突然、グニャリと変形した。巨人に首を捻られるような感覚の後、私は崩れるように、その場に座り込んでしまった。
しばらくして、よろよろとオフィスに戻り、後輩デザイナーに「さっきトイレでぶっ倒れちゃったよ」と軽口をたたいた。
すると、その後輩が人差し指のタトゥーを震わせながら、「やばいっす。すぐ病院行った方がいいっす。目が、目が。なんか眼球がブルブルブルブル震えてますよ」と教えてくれた。
診断は突発性難聴。左耳の聴力が極端に落ち、ずっと海の中にいるような耳鳴りが響いていた。めまいがひどく、片足立ちができない状態だった。
再発するようなら「メニエール病」だと言われ、悪魔的に苦くてまずいイソバイドという飲み薬を処方された。以後、今に至っても、極端に忙しくなると、めまいや耳鳴りに悩まされている。
私は、この時、事実上、死んだ。
すでに私の自己肯定感は、この会社で完全に崩壊していた。
たまに仕事を褒められても、どうせバカにしてんだろと素直に喜べないほどひねくれ、ネガティブになっていた。そんな自分がまた嫌になり、自己嫌悪の無限ループに陥っていた。
給与は大して上がらず、労働時間は高止まり。1年後もどうせ同じような状況だ。未来に明るい希望なんて見いだせない。
そして、ついには体も壊れた。
このままこの会社にいたら、本当に死んでしまうかも知れない。それもこれも自分が選んだ道であり、誰も守ってはくれないのだと恐怖した。
私は、6年半勤めたこの小さな制作会社を辞めることにした。
そして、一度死んだなら、生まれ変わろうと思った。
カビ臭い古アパートから引っ越し、フレンチブルドッグと暮らしはじめ、まったく畑違いの国際NGO団体に転職した。
私にとって数少ない夢中になれることが、途上国への旅だった。これまで40ヶ国くらい旅してきた。
自己肯定感が破壊されていた私は、きっとわかりやすく自分の存在価値を感じたかったのだろう。
国際協力という好きな途上国を対象にした、社会貢献的な支援活動の仕事なら、やりがいを強く感じられると考えたのだ。
最初の現場は、スリランカの洪水支援だった。帰国後、東日本大震災が発生し、被災地で支援活動に奔走した。やりがいに満ち満ちていた。
しかし、震災から半年もたたずに、今度はNGOを辞めて、フリーランスのライターとなった。
父に続いて、母も大病を患い、他人様の支援どころではないと、自由のきく働き方に転身したのだ。
ただ今思うと、行商のお婆さんに押し売りされるくらい圧しに弱く、人の顔色や言葉を気にしすぎてしまう私が、耳鳴りに悩まされずに生きていくには、結局、フリーランスしかなかったのかもしれない。
制作会社時代は記憶から消し去りたい暗黒時代だが、得難い経験もあった。
いわゆる中小企業、ベンチャー企業の人たちにたくさん出会えた。フリーのカメラマンさん、デザイナーさん、ライターさんともたくさん仕事をした。
個で生きている方たちと出会っていなければ、NGOを辞めてフリーランスという道は選べなかっただろう。
また数は少ないが当時の同僚の中には、一緒に旅行するような仲の人たちもいて、あの頃の人脈からいくつも仕事を発注してもらえた。
フリーで10年生き残れた今を考えれば、つらかった制作会社時代のキャリアが、今の自分の身を助けているわけで、人生はわからないものだ。
フリーになって最初の数年はご祝儀のように仕事をたくさんもらえた。一緒に暮らす愛犬にちなみ、フレンチブルドッグ専門の雑誌に毎号のように執筆する機会もいただけた。
ただ当たり前だが、徐々に発注者が歳下になっていった。
そのうち仕事は若いライターさんに奪われるだろうと、自己肯定感の低い私の不安は尽きなかった。
変化しないと、ジリ貧になる。
生き残るには、高い専門性なりが必要だと考え始めた頃、幼なじみの親友が死んだ
(親友が、死んだ)。
ひくほど泣いた。
翌年には、父も逝った。その2年後には、母も亡くした。
命はいつ潰えるか、わからない。
いつかやりたい。いつか行きたい。いつか会いたい。
そのいつかは、訪れないかもしれないのだと悟った。
自分の欲望をもっと優先しようと思った。
NGOを辞めた後も、ボランティアを続けた。
それは自分なりの信念に従ったまでだが、物書きとしては、とある賞に引っかかり、一冊のノンフィクションとなった。生まれて初めての書籍だ。
最後の最後に書き足した冒頭の一行目に、これまでの人生への私の思いが込められていたことに、書いた後、気がついた。
その後も、ずっと憧れていた北インド・ラダックを旅して執筆した旅行記がとあるコンテストにひっかかり、出版することができた。
最後の2週間は、医者も首を傾げる原因不明の鼻血が毎日大量に出続けた。
それでも耳鳴りやめまいに襲われることはなかった。体は追い込まれていても、心は解放されていたのだと思う。原稿が手を離れると鼻血はピタリと止まった。
朝日新聞に自著の広告が出たときは、感慨深かった。少しでも恩返しができていれば嬉しい。
さらにもう一冊出版し、執筆を志して5,6年で本を3冊も刊行できたことは望外な結果だ。
ルポルタージュを書くようになって思うのは、コンプレックスだった自意識過剰な性質は、案外、ささいな人の行動や言動をキャッチし、記憶するのに役立っている。
行商のお婆さんに押し切られるほどの圧しに弱い性質は、人にあまり警戒心を抱かれないようで、初対面でも家に上げてもらえたりと、一人旅ではむしろ得かもしれない。インドでインド人に道を聞かれることもあるが。
結局、自分というものを変えていくのは、なかなか大変だ。
だから、置かれている環境を変えたり、自分の活かし方を変えながら、自分の心が楽になる生き方を見つけることが大事なんだと思う。
自分を守るのは、自分しかいないのだ。
やりたいこと。嫌でもやらなきゃいけないこと。やらなくていいこと。やってよかったこと。
生きることは複雑で、多面的だ。
過去がよかったのか悪かったのか。それは、私の暗黒時代が、その後の私の身を助けているように、今をどう生きているかによって決まる。
矛盾にあふれ、正解はない。
それなら、あまり考えすぎず、意味を求めすぎず、今の自分の心に素直に従う方がいい。
自分にしか意味のないことほど、大切なことはないのだ。
つらいことも、楽しいことも、とにかく全部、笑い飛ばせるしなやかさを持って。
やりたいこと、行きたい場所、会いたい人、そして書きたいことは、まだまだたくさんある。
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