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網走監獄@北海道徘徊記③

網走駅の裏側。刑務所とは逆サイドの山の上に『博物館網走監獄』はある。

大人1,000円(税別)。チケット購入時に「集計を取っています。どこから来ましたか?」と聞かれる。

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受付を抜けると、を忠実に再現した門が現れる。

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門番が忠実かはわからないが、実直そうだ。

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まずは獄舎へ。重要文化財だそうだ。

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なんか木造の小学校みたいな雰囲気。

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ちなみに、5棟が放射線状に広がっている。上からはこんな感じ(HPより)。見張所から5棟を見渡せるつくりになっている。

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渡り廊下には黒電話。当時の雰囲気出てるな。

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ずらっと房が続く。

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独房は結構狭い。

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布団を敷いたら、もういっぱい。

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比べると雑居房は、林間学校みたいな雰囲気。映画『刑務所の中』のロケ地もここ。正月のおせちを食べるシーンが最高で、「足るを知る」には刑務所ほど適したところはないと思った。

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あ、脱獄だ!!!

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昭和の脱獄王と言われた「白鳥由栄」は、網走刑務所でも脱獄に成功している。

白鳥は、身体の関節を簡単に外すことができる特異体質を持っていたとされ、頭が入るスペースさえあれば、全身の関節を脱臼させて、容易に抜け出したという。

網走刑務所の脱獄の際には、特製の手錠と監視口に味噌汁を吹きかけ続け、味噌汁に含まれる塩分で鉄を錆びさせて脱獄したとか。博物館では、彼の肉声を聞くこともできる。

でも、そう簡単ではない。売れないビジュアル系バンドマンみたいな怖い顔した奴らが見張っているのだ。

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で、悪さをすると懲罰房にぶち込まれる。若い頃のビートたけしみたいな奴が瞬きもせず反省していた。7日間粥しか食わせてもらえないらしい。

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そんな彼らの唯一の楽しみが風呂。脱衣、湯船、洗体、湯船、着衣を3分ごと、15分で済ませる。自衛隊ばりのテキパキ感だ。

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博物館に併設されたレストランでは、監獄食をいただくことができるのだ。

明治時代当時の食堂は寺子屋みたいだ。

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当時のものではないが、現在の網走刑務所の昼食として出された食事メニューを食べることができる。

麦飯(麦3:白米7)、焼き魚(さんま or ホッケ)、小皿、中皿、みそ汁。本来は、みそ汁ではなく番茶が出されている。

監獄食B 820円(ホッケ)をいただく。まずいからか、あまり食べている人はいなかった。

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さて、受刑者たちは、時に塀の外へ出て、作業することもあったという。日帰りできない作業をする場合は「休泊所」と呼ばれた仮小屋で寝泊まりした。作業先で休憩所を次々建てては移動するので、「動く監獄」とも呼ばれたらしい。もう戦時中の歩兵みたいだ。

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で、塀の外で何をしていたかというと、最大の作業が道路工事だった。

開国したばかりの日本は、欧米の列強諸国に一日でも早く追いつき追い越そうと必死に富国強兵政策をとっており経済的に大きく発展するためには、未開の地北海道の開拓がぜひとも必要だったのです。

さらに、ロシアの脅威も迫っていた。

不凍港を求め南下政策をとるロシアの脅威から、日本を守るという軍事上の理由から北海道の開拓は大至急行わなければならず、そのためにはまず、人を運び物を運ぶための道路を作らなければなりませんでした。しかし、国の財政にそんな余裕はない。そこで考え出されたのが、増える一方の囚人を労働力として使うことです。

開拓のために道を作るといってもこの原始林では民間に頼めばとんでもない賃金となる。でも、囚人なら費用は半分以下ですむ。

悪人なのだから作業で死んでも悲しむ者もない、囚人の数が減れば監獄費の節約にもなる、まさに一挙両得であり今後も困難な作業は、囚人を使うべきだ。

ということで、この地に刑務所が作られた。発足当時の網走監獄に1000人を超える囚人が集められ、3割以上が無期懲役その他も重罪人ばかりだったそうだ。とはいえ、もはや奴隷政策。いつの世も権力者は血も涙もない。

道無き道を進む囚人の旅は険しい地形と熊との戦いだったと言います。道央とオホーツク沿岸を結ぶ道路の開削工事が、千人を超える囚人により昼夜兼行で強行されました。

逃亡を防ぐため囚人は二人ずつ鉄の鎖でつながれながら(連鎖という)の重労働。そもそも未開拓地だから、食料運搬もままならず栄養失調やケガなどで死亡者が続出したそうだ。

あまりの苦痛に耐え切れず逃亡を企てて看守に抵抗しようとした者は、その場で斬り殺された。たとえ逃げられても食料もない山奥なので、結局、戻って来るしかなかった。つまりどっちにしろ地獄だったわけだ。

結果、1000人の従事者から看守も含め、200人以上の犠牲者を出した。

知らなかった。

てっきり北海道の開拓は、屯田兵によるものだと思っていた。私が走ってきた道路は、囚人たちがつくってくれたのだ。

「今日の北海道の繁栄は尊い犠牲の上になりたっていることをどうか忘れないでください」

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