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韓氏意拳を学ぶ04 観察

昨夜、韓氏意拳初級の講習。
「客観的に体を観察しないでください」
「観察は動きを止めるものです」
という先生からの指摘。
一方で
「運動で生じる感覚の変化を途切れなく観察してください」
とも言われる。
要するに、感覚の変化を注意を切らずに感じ続けるということだろうか。

一般的な瞑想などでは、湧き上がる思考や感情、感覚をそのまま観察・見守るよう指導されることが多い。
それらは全体の中で生じる断片であり、生まれては消えていくものであると。
あなたの本質はそれらではなく、それらを見て感じている主体である何か(意識とも表現される)であると。
これは自分自身の実感にもあっているもので「現象を観察する」とはこういう状態だと理解していた。

しかし韓氏意拳では、どうもニュアンスが違う。
まず「観るもの」と「観られるもの」という関係がそこにはない。
主体と対象という関係もない。
おそらくこのような視点で感覚を見るということ自体が、幻想であるとのことなんだろう。
どうも韓氏意拳では「固定された状態」というものは現象や生命には存在しないという理解で、例えば「観るもの」という固定概念、「観られるもの」という固定概念そのものを幻想とみている。

それと「主体的な動き」というものも強調される。
これは「意図的な動き」という意識にコントロールされる動きと言う意味ではなく、自分自身に自然に起こる動きそのものであること、ということのように感じる。

韓氏意拳では、言葉や概念から離れた時に起こる身体の自然な動きを求める。
逆に言うと、日常の運動は、社会や自分の世界観や価値観に無意識に制御されていて不自然であるということ。

思いつくまま綴ったため、まったくまとまりのない表現になってしまったが、これが自身の頭の困惑をそのまま表現していると思う。

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