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韓氏意拳を学ぶ(備忘録)02

「起点」を持たないこと

韓氏意拳の講習で腕を前に伸ばす際に先生に指摘されたことなのだが、この言葉がとても印象深く、いまでも心中に残響している。

体を意識的に動かす時、どうしても動かす部位を物体として意識し、それを動きのイメージに合うように微調整しながら動かしてしまう。
例えば、腕を前に出す時、肩を起点とし、そこから指先までの「物体としての」腕を前に押し出すように動かしてしまう。
これまでの認識であれば、身体を意識的に動かすとき(例えば、体操などで指示された形で運動する際など)は、ごく当たり前のこととしてこのように動作してきた。
しかし韓氏意拳では、このような動かし方は「自然ではない動き」となるのだ。

「肩に起点をもたないでください」
「ただ前に手を出してください。目の前のコップを、ふと、取る時のように」
このように指摘される。

確かに、日常的な動作は、いちいち体の部位を物体として認識して意識的に動かしてはいない。コップを取る時、無自覚に、ただすっと手がコップに伸びるだけ。歩くとき、振り向くとき、しゃがむとき、そうしようとすると同時に体が自ずと動作する。
この動きを求められるのだ。
これを韓氏意拳では「一形一意」(いっけいいちい)と表す。
ひとつの意に対して「自ずと」ひとつの形が生じるという意味。

しかしながら「手を前に出してください」と言われても「ただの」動きはどうも再現できない。どうしても腕を意識して前に押し出す動作となる。
「ただ前に出す」という動作を意識的にできないのだ。

どうしても「腕」という「部分」に意識が留まってしまい、身体全体のつながりが切れてしまうのだ。あるいは空間全体のつながりが切れてしまう、ともいえる。

「前を意識してください。意識を腕の外においてください。まさに取ろうとするそれに注意してください」
先生は言う。
先生は、腕に凝縮してしまう意識を、全体に向け直すよう問いかけてくれる。

「はい。そうそう。それです。」

これは自然な動きが出てきた時の先生の声。
しかし、これが問題なんです(笑)
なぜなら、この時、私的にはまったく「手ごたえ」が無く「できてる感」もなく、ほとんど「何もしていない」かのような「無感覚」だから。
「本当に僕が動かしているのだろうか」
「先生が引っ張っているのではないか」
などと疑念も湧いてくるくらいの「手ごたえのなさ」
これが韓氏意拳で言うところの「状態」であり、全体がつながっているときの感覚なき感覚であるのだ。

まったく何の手ごたえも、やった感もないのに
「そう。それです。できてます。」と言われるのは56年生きてきて初めての体験!であり発見でもある。
こんな驚きはここ数十年なかったと思う。

頭では理解しているつもり。
力みや手ごたえがないとき、全身がつながり、整って運動をしている。
全身が統一して自然な運動をしているがゆえ、力みや手ごたえが起こらず、スムーズに流れるように動く。
その時「力感」「手ごたえ」「やってる感」は存在せず、なんの抵抗もなく感覚もなく「すっ」と動作が流れてゆく。

おそらく身体の動きに限らず、自分の生活で起こる行為や活動、表現においてもきっとそうなんだろうと感じる。
本当に自然に全体の流れの中で行為や活動が生じているとき
「やってる感」「手ごたえ」って感じないのだと思う。
すっとただ自然に行為が流れるだけなのだと。
その状態が、本来その人から表現されるべきものが素直に表現されているともいえる。

その手始めの認識として「起点を持たないこと」がマイブームになっている。
正確には「起点を持たないようにする」のではなく、無意識に「起点」から生じている運動、または精神の運動を発見し、それがもたらしていることを理解すること。無意識の現状を理解すること。

韓氏意拳は、まさにそれを発見、理解するにはとても良い機会なのだ。


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