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開いた注意

僕らが日々経験している現象とは何か、どんな構造になっているのか。
今、目の前の出来事を題材にして、調べてみる。
目の前にPCのモニターがある
キーボードもある
その背後にお部屋の窓や壁がある
外から車の音や鳥の声が聞こえてる
指先はキーボードに触れている感覚がある
お尻は上半身の重みを感じている
足裏は床にぴたりと付いている感じがある
何かのイメージや想いが湧いている
何かの感情がわいている
このように、僕らが刻々と経験している現象は、五感や思考、感情で構成されている
その五感や思考、感情はどこに湧いているのか?
もちろん、いまここだが、もうちょっと詳しく。
五感は体で感じている
思考は頭、感情は身体かな、と思うかもしれないが。
五感は体が発する感覚。
ではその五感を含めた体はどこにあるのか?
目の前の空間の中にある。家の中、大きく見れば地球の上、宇宙空間の中に。
では空間、無限の宇宙空間はどこにあるのか?
もちろんそれは目前に広がってるのでどこかにあるとは言えない。
では、その無限の空間とその一部としての体は、なぜそうだと認識できるのか?
それをそのように見て感じている何かがあるから。
身体を体として認識している何かは、身体ではない。
心を心と認識している何かは、心ではない。
感情を感情として認識しているのは、感情自体ではない。
何がそれを認識しているのか。
ここで「自分が認識している」という言葉を使っても良いが、あえてそれは使わずに調べてみる。

ちなみに、五感、思考、感情、あるとあらゆるものは、常に変化し、同じ状態が固定されることはない。
じっとして湧いてくる感覚をみていればわかる。
その変化する感覚は、形なき色なき場で湧き上がってくる。
その形なき色なき感覚なき場が意識。
「意識がある、ない」と僕らが理解しているその意識。
意識に形はないし、制限はないし、無色透明で静寂不動。
しかしあるかないかだけはわかる、それ。
無色透明静寂不動であるからこそ、ありありと鮮明に感覚や思考、感情が湧き上がる。
無色透明静寂不動であるからそれ自体を確認することはできないが、それが常にここにあることだけはわかる。

現象とは、このように非感覚の意識場と、そこに現れ変化する感覚で織りなされていることがわかる。
これは般若心経でいうところの色即是空、空即是色と同じものだと感じる。
空が意識場、色が現象。
この2つは違う性質のものだけれども全く分離していない。
意識だけがあって現象がないことはないし(どんなに静かでも、なにかしらの感覚が起きている)
現象だけがあって意識がないこともない(この場合、そもそも現象を認識できない)

ふだんの生活で「意識場」を自覚することはない。
常に現象面のみに注目し活動している。
五感や思考でとらえられる現象のみに注目している。
意識場は忘れ去られ、個々の現象がそれ自体で運動しているように感じる。

ここに「意識場」の自覚を加えるとどうなるか。
いま目前に立ちあがっている「意識」を、思い出したら即自覚してみる。
自覚は一瞬。いまやってみればわかる。
今ここで立ち上がっている意識を意識する。
あ、あるな、と。
それだけ。

それをするとわかるが、特に現象や感覚に変化は起きない。
ただ注意が意識全体に変わっただけ。
変わったのは「注意の範囲」。
「開いた注意」とも言える。

「開いた注意」とは、心が本来の居場所である「意識場」にもどること。
幼いころは心は無自覚に開いた注意状態にあるが、自我が芽生えてからは、現象のみに注意が集中し、意識場への注意がなくなる傾向にある。
意識全体への注意が切れ、心は対象物のみにフォーカスし、エネルギーが滞った状態になる。
「開いた注意」によって、心や思考は本来のポジションに収まり、源泉と連動し創造に参加する。

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