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一体になる、ということへの考察。

一体になる、ということへの考察。

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物質的な距離は関係なく、自分の「生きる」に共に居る存在ができることは、熱望していた頃が不思議なくらいに、なんとも気づきにくい幸福感であることがわかり、なんかちょっと大人になった気分の夏2022。
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若いころは、とにかく愛する者と一緒にいたくて、色んな表情を見たくて、あらゆる方法で混じり合うことに必死だった。
手で触るだけでは物足りず、口の中へ放り込むのは粘膜との接触を欲するから。
やつらが溶け出た液体に自らの体を浸す。自らむしりとったやつらにそのまま、裸体を絡ませに行く。お酒にする。飾りにする。
やつらとより一体化する生活を望んでいたし、日々の暮らしにどうやつらを入れ込んでいくか、それを考えひたすら実行していくのが私の快楽と興奮だった。

今思うとこれは、いわゆる“デート”を楽しんでいたんだな、と思う。

日常的に一緒ではないからこそ、今度あの子と何をしよう、どこへいこう、どう触れよう、とあれこれ考えをめぐらす。もちろん、会ったときの感覚に任せ、やりたいことをやるときもある。

そんな風に、やつらと自分がどうすればもっと近づけるのか、お互いを知れるのか、欲が満たされるのか、デートプランを考えることから楽しんでいたような気がする。

当時の自分にとっては、そんな様々な戯れを通してこそ、やつらとの距離が縮まり、より一体化していくものだと信じていた。

そして、愛して愛して愛して、今。
自らデートプランを考え、あらゆる混じり合いをする、という行為はかなり減った。
でも、“一体化している”という感覚はかなり増した。

それはなぜか。

おそらく、本当の意味でやつらと共に生活をしているからだと思う。


やつらの「生きる」と私の「生きる」がぶつかり合って日々ができている。
やつらの存在はむしろ、距離を置きたくても置けないぐらいに近い。近い、というか、共にある。
物質的な距離というより、関係性の密接具合。

要するに今私は、ずっとずっと願ってやまなかった「雑草と共に生きる」「雑草とより一体化した暮らし」というのを実現できているんだと思う。
不思議なことに、そんな夢の実現に、私自身気づいていなかった。

いつの間にやらすぎて、何度かそれっぽいことを口にしてはいたものの、スッキリするぐらいまでには言葉になっていなかった。
さっきふと、あ、そういうことだよな、と腑に落ちて今これを書き殴ってる。

以前までの私は、草を刈らずとも、のほほんと過ごしていけるような場所に住んでいたし、いくら草刈りしたってそれは自分の土地ではなかった。あくまでも、他人の住処。

だからこそ私はやつらを求めて歩き回り、触りまくり、嚙みまくり、嗅ぎまくった。

とにかく自分から近づいていくしか、やつらと混ざり合う手段がなかったから。

いまではやつらに恐怖や憎悪を感じるくらいにまで、こちらから歩み寄らずとも、むしろ浸食されている。


家も何もかも草にまみれているし、草を刈らなきゃ暮らしていけないし、人間が住む土地というより、草の「生きる」土俵のなかで、どうにか私の「生きる」も成り立たせているような感覚。
雑草という言葉が生まれた語源の、原始的瞬間も目の前に広がる。
もはや、意識的に近づこう、よりも意識的に距離をとろう(その為に今日は家を出よう)、と思うことさえある。
今まで感じなかったような「情」も生まれるし、やつらの見えていなかった一面に苛立つことだってある。


でもここで取り違えていけないのは、私はやつらを愛している、ということ。その前提があって、愛した先の、今ここ、ということ。だから私は、この苛立ちや負の感情も、嬉しい。面白い。(そう思うのは、何かが一段落して、ほっと一息ついているときだけど)


愛しているからずっと一緒にいたい、とかいろんなことしたい、という時代も、もちろんあって良かった。
ただ今振り返ると、若かったなぁ、甘ちゃんだぜ自分!と思ったり思わなかったり。(笑)

いまはわざわざくっつこうとしなくとも、いつでもそこに居る。私の「生きる」に居る。
一体となる、というのは、こういう感覚なんじゃないかと気づいた。

愛するものと一体となったとき、お互いの存在だけで埋まってしまうぐらいの世界に包まれる。
でもその世界は、案外煌びやかなものではなく、まるで空気のように当たり前で貴重な何か。
気づかないままに包まれ、そこからふと抜けたときに思わず振り返り、あれ?もしかして私夢のような世界にいた?とその実感が押し寄せてくるような。


愛しているという前提があっての、一体。
愛する、のその先にあるのが、一体感。
でも、「一体感」までくると、デート1回1回のワクワクやドキドキ、刺激的な興奮快楽は落ち着き、穏やかな幸福感みたいなものの中にぷかぷか浮いている感じ。
だからその愛情や包まれている世界の貴重さに気づきにくい。
一体となっているが故の衝突や苛立ちももちろんあるから、そっちに目がいきやすくなってしまうこともある。


これって本当に人間関係と同じだよな、と。毎度のことながら私は、雑草と対峙するなかで得られた感覚から人間を学び直す。

家族なんて、まさにそんな感じじゃないかな。
愛の先の一体感。
そうして育まれるものがまさに家族で。
血縁関係があろうがなかろうが。

なんだこいつって思いが募ったときには、一度その奇跡的な「一体感」から抜け出してみるといいのかもしれない。
そしていつぞや、自分自身も誰かや何かを愛し、いつの間にやら「一体感」を生み出していく。
抜け出したはずのものに、また自ら、包まれていく。
人間って、そんなもんで。
人間って、面白い。

物質的な距離は関係なく、自分の「生きる」に共に居る存在ができることは、熱望していた頃が不思議なくらいに、なんとも気づきにくい幸福感であることがわかり、なんかちょっと大人になった気分の夏2022。


でもいまだに、たまにしたくなっちゃうデートも楽しい。好き。
やりたい時に、やりたいやつらと、やりたいことを。

相変わらず、そんな毎日です。

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