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#95 若手教師に一番伝えたいことってなんですか?という質問に答えます。

若手教員に伝えることがあるとするならなんでしょうか?という問いを、ある先生からもらいました。お答えします。

結論からいうと、最低条件は授業を他者(同僚)に公開し協議すること。これはあまりに当然すぎるので、その上で次の3つです。

1・探究と協働学習をベースに授業をつくること
2・自分の研究課題をもち発表すること
3・スーパーバイザーにつくこと

以下で捕捉説明します。

1.はじめに


1.1【キャリアから得た知見】
教職30年以上経過し、国立附属・学会・研究者・教員と協力し共同研究により論文も書く。ECC・高校の倫理政治経済・探究・中学校の常勤・非常勤となり、教師志望の大学生・大学院生の授業指導から大学・教師・研究者・を繋ぐ学びを探究。研究の言語と実践の言語の両方、いわゆる中間言語が必要。公教育としての学校の正統性の崩壊の危機が現場に直いことこそ危機。

1.2
【問題設定・・・21世紀の若年層の失業・社会参加の危機】
多くが農民の子弟であった昭和初期の時代は、国民国家・兵役・産業報国に向け一斉授業が効率的であった。一次産業・二次産業、重化学工業時代の教育といえる。戦後の高度成長が終焉、高度情報社会とユビキタスの21世紀はデータアナリスト、プログラマーといった高度知識労働人材を準備する。ゆえに授業方法改革を意味し「主体的で対話的で深い学び」を要請。教室はそれを達成していない。時代から脱落する大量の生徒が目の前にいる。

2.授業と学びをとらえなおす


2.1【授業その可能性と限界】
時間・内容を制限し教室空間に生徒に指示を与える役割としての教師。この近代学校の教室様式が採用されたのは日本では1872年の学制である。以来100年以上を経過する。この間、経済社会は大きく変容。一方で教室様式はほとんど変化がない。人間の根源的な学びが欠落し、競争と格差を生産。人類史上、人は長期にわたり動き回り自ら学びを行った。1896年から7年間継続したデユーイのシカゴの実験学校における経験主義教育はあらためて学びを問い直し、いまもここをスタートラインに授業が再検討されている。授業・カリキュラム概念は変更されていく。

2.2【授業の効率性とデザイン】
密室性・限定性・媒介性の3つにより授業は成立する。時間と空間の密室性、授業参加する生徒個人と生徒集団の限定性、課題と教師の媒介性。ここに文脈依存性と状況依存性が固有性が追加される。一定の速度と計画で達成される工業モデルの効率性ではない。授業の効率性とは3つの特殊性と固有性のバランスで成立しそのデザインが教師に求められる。

2.3【授業の成立≠学びの成立】
授業が他者に公開されず私物化され、学校そのものが教師に私物化され、学びが生徒から疎外されていく。この私物化の過程で権力構造とポリティクスの一翼を教師に無自覚であっても担わせる。教室は静かに荒れていく。静かな荒れとは、諦めと脱落と従順性の非社会的行動になる。教室は他者に開かれてはじめて公共空間となる。公教育は民主主主義を基盤に成立する。民主主義は授業の公開を前提にする。授業は民主主義の下に公開される原則を暗黙に含んでいた。授業も民主主義も未来も権利としての学びも空洞化した教室は、見放される。それは生徒だけでなく教師にも言える。教室が職員室と教育委員会の制度の統制だけで運営されたとき、学びの主人公の生徒は静かに逃走し、教師はシニシズムとニヒリズムに堕落する。授業公開は授業と教師と生徒と人類の未来の可能性を創造する。

2.4【公教育としての授業の成立 】
日本中のあらゆる教室で起こっている事象はすべて異なりすべて成立している。成立とは教室が荒れていてもその荒れが成立しているという「意味」である。現象の成立であり学びの成立ではない。現象としての授業一般は成立しても教育学上の公教育における授業の成立ではない。授業一般の成立は統計の数値と書類で清算されるがそこには学びの質が剥落している。

3.教職専門性の確保

3.1【公教育における教員の位置】
教員という言葉の意味を限定しておく。義務教育学校の教師、教員という職種のもつ教職専門性とはなにか。教職専門性とは、職業上では専門職性としての社会的地位をいう。一方、教育学上では教育内容(content)と教育哲学に関する知識と教育方法(pedagogy)に関する知識及び実践の固有性である。その上で授業という教育の本質にかかわる日常がある。
3.2【若手教員の定義】
若手という言葉の意味は暦年齢の浅さではない。またその対義語は経験年数を重ねた教員・ベテランでもない。若手とは、職務初任者である。職務の中心は授業である。授業初心者でもある。その初任(ここでは授業を任されたという意味)者の対義語は熟達者。経験年数が自動的に熟達者を意味しない。アメリカの研究では教職の初任者が熟達化するには5000時間を要する。単純計算で、週17時間授業を月4週でかけて68時間/M×12か月で816時間/y。5000時間で割ると最低6年。3年程度やってわかる仕事ではない。熟達者がいるのではなく、熟達化の過程が継続できる人をそう呼ぶ。

3.3【教職専門性とはなにか】
職業としての教師がある。これを教職という。国家ライセンスに裏付けされた専門性を持つ専門職である。その中身は対人援助サービス。専門性は常にアップデートされ職能共同体のなかで育まれる。医師や弁護士と決定的に異なるのは、専門職の要件である時間・給与・職務内容。労働時間の自由裁量のなさ・給与水準の低さ・職務内容の拡大と本来の職務の空洞化(部活指導・生徒指導・進路指導による授業の質の低下)。これらは職能の低下に拍車をかけ、職能共同体は崩壊し、職能・職責・職階・職務のミスマッチが起こる。ここに教育の効率性は失われる。

3.4【経験・経験知・熟達化】
公開授業により他者との協議と対話により生成された経験知は可視化され言語化され援用可能性が広がる。その経験知を理論にするのは研究者の役割である。理論には妥当性と信頼性が与えられる。その理論を使い教室に実践が広がる。経験を経験知として可視化し理論として用い、実践のアップデートに繋げる。このサイクルが教師を成長させる。その過程を熟達化という。熟達化は教師のみならず研究者にも要請されている。学校現場における理論と実践の乖離は大いに憂うべき状況である。

3.5【経験知における他者】
経験年数とは毎日、何らかの教育実践の中で試み葛藤することで超えてきた小さな変革の年数と言い換えることができる。経験そのものは個人的であり閉鎖的である。であるなら経験は固定的で、未だ普遍性と援用可能性を付与されていない。経験が経験知として援用可能性を持つには、経験を言語化により構造化する必要がある。それには他者を必要とする。授業を他者に開いてはじめて対話が始まり経験から脱することができる。最大の他者は学び手の児童生徒であるが、かれらの言語能力を補完代弁するのが同僚性・職能共同体のメンバーである。

4.教育の哲学と理念


4.1.【哲学と理念】
もしあなたが、本当に教職専門性を発揮しようと日々奮闘したとしたら、通常は鬱になる職業と認識したほうがよい。それほどまでに複雑かつ専門的知見が必要な対人援助の教育サービスである。このサービスは消費ではなく将来の生産に繋がるサービスという特徴がある。未来の生活者・納税者・家庭人・勤労者・主権者・社会参加者として社会全体の公共性の生産が期待され持続され向上されるというミッションを持つ。それゆえ、どのような未来であるべきかの理念と哲学がいる。未来から逆算した教育が求められる。教室は未来からの使者とミッションで構成されている。この哲学と理念の欠落が教師の多忙化と無境界な職務の拡大に向かわせる。その状況は孤独である。難題を抱える能力と自らの言葉で教育をかたる言語を獲得するには孤独に哲学することが必要。

4.2【難題を引き受ける】
教職専門性は、不確実性が高く、どこまでやっても限界のない無境界性をもつ。さら指導の結果がすべて自己に帰納する再帰性がある。それゆえ行動し実践のなかで考え考えながら実践を再構成する能力を要請される。研究者の一人(藤田英典)は、教育は未完のプロジェクトという。未完とは多数解であり解が陳腐化し否定される状態である。授業は状況依存性が高い様式をもつゆえに、学習指導案通り授業が実践されても、脱文脈された解でしかない。学習指導案は設計図で教室はリアルな構造物。建築現場(生徒)が悪いならそこで即興性により再構成が要求される。この指導案と即興性が提示されてこそ授業は前進する。

4.3【スーパーバイザーを持つ】
一つの山をこえると次の山が見えてくる。最初の山を越えなければ次は見えてこない。一人で登攀はできないこともある。間違った山を登攀するかもしれない。登攀すべき山は自身の問いの固有性をもつミッションでもある。それがキャリアになる。だから孤独な登攀が準備される。同僚はあなたと共に登攀するが一時的であり各自固有のミッションゆえに、その援助は妥当かどうかわからない。ゆえに孤独との闘いと認識した方が良い。。単独で登攀するとき、自ら支援要請(help seekinng)が創発され、スーパーバイザーが現れるかもしれない。気象ラジオ・スマホ・地形図・シェルパ・綱・ザイル・食料と燃料・安全登頂と下山を待つ有力なエンパワメントとなるものが必要である。キャリアとは肩書ではない。実績である。

4.4【最後の砦】
企業は利益追求の目標がある。それは貨幣換算され数値化され明確である。学校は人格の完成が目標といわれる。学習指導要領にはその方法論・具体的マニュアルはない。目標自体が曖昧である。ゆえに方法は裁量に任されている。授業を担当するゲートキーパが判断・実践・反省・再編・創発する裁量が与えられている。教職の裁量の根拠は、根源的な哲学の問いとアカデミズムによる学びの快楽が背景にある。その志向性が裁量を実装させ実践に向かわせる。裁量を他者に委ねることは教職専門性の崩壊を意味する。教科書でのみ教授するのはその典型である。

4.5【同僚としての生徒】
チーム学校は教職専門性を担保し個人の違いを前提にしたコラボレーションの組織である。協力は学校を一元化し多様性の喪失と教師のコンピテンシー(資質・能力)を低下させる。教職専門性の経路は多様でその多様性が教育や授業の質を保障する。チーム形成という形式だけが目的となるとき、形式に堕落していく。教職を途中で離脱する最大の原因の一つである。最大の同僚であり資源は生徒であり、その多様な声=多声性を聴くことがまず教室で優先される。職能共同体のなかでこそ教職専門性は確保されていく。

5.まとめ


これまでの経験からややオムニバス的に整理した。今現場で実践する教師の授業から21世紀の未来が見えるだろうか。サービスと消費が蔓延して安定するとき、最大の被害者が教室にいることに気づく小さな変革を一人でも行う。それが静かで小さな変革・革命・イノベーションになる。生徒が静かに音もなく脱落していくまえにやるべきことはまだ残されている。2024年5月27日