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#27 なんでも自由がいいかというと そうでもないのだ!その2 (2/2 結語)

  • プールで泳ぐ能力のあるあなたが、太平洋のど真ん中で泳ぐのだ。

  • それが自由

何を着てもいい。

服装の自由はだれにでもある。戦前、旧制高校進学率が低い時代には、制服はステータスだった。そこに帰属意識があり所属性がある。社会的にはシンボル。こぞって制服を着ることとなる。メリットがあるから。
服装は身分である。

学生服は縛り?と感じる時代

いまでも学生服はそういう意味をもつ。なくせば、帰属意識も所属性もなくなる。シンボルとしての記号は一分の有名校に限定される。それでいいんじゃないか、というのもわかる。
学生服というユニフォームに希少価値がなくなった。
学生が増えてその身分は希少でもないしメリットもない。むしろデメリットが強調される。

代替可能性から卓越性へ

いまや学歴もコモディティ。自分のありようと学生の身分の居心地の悪さは、学歴と身分とアイデンティティのせめぎあいになる。社会的意味が希薄になった学生服。暑いし着ごごち悪いしほかに着たいブランドもあるし。モノがあふれるとモノの価値は一般品になり代替可能なコモディティになる。その代わりになるものなにか必要な時代なのではないか。

青年の過激性を制限するもの

制限によって無制限に広がる自我の膨張を抑えることができる。せめぎあいは、青年期は自我の確立とエリクソンのいうアイデンティティの拡散だ。自分がなにものかを考えるとき、所属はある枠組みを与えてくれる。拡散する意識を無意識のうちに制服というしばりが拡散領域を制限してくれる。

60年代の大学紛争、70年代の若者の理由なき反抗。反社会的であろうが非社会的であろうが、若者は既存の体制に疑問をもち反抗し、葛藤する。(というのがいままで相場であった、いあまはどうかわからない)

自由は責任であり葛藤を生む

自由を主張することは拡散領域を膨張させた上で、自身の自我の成長と確立に責任を持つということを意味する。その責任は社会的に公共性をもつ。プールで泳ぐ能力のあるあなたが、太平洋のど真ん中で泳ぐのだ。あなたの勝手は他者には身勝手である。ここに葛藤が生まれる。その葛藤生み出す学生服なくなったとき、あなたは、なにに葛藤して青年期を過ごすのだろうか?そもそも葛藤があるのだろうか?

そのことが分かった上で、高校生が服装の自由を主張するとき、そこに自由と責任があり、他者への配慮と信頼があり、なおかつ、継続できる哲学がある。早い話、そういう議論もしないで自由というのは身勝手ということです。

あなたの勝手は自由
あなたの身勝手が他者の権利を棄損しない範囲でなら身勝手は自由。制度としての学生服を着るかどうか、自由な服装を選ぶかどうか、それは最終的に自分のプライドかもしれない。ある意味自分と誰かさんとの戦いかもしれない。ただし、学生服の持っていた機能を排除してもあなたがなおかつ太平洋で泳ぐのならそれはそれでいい。覚悟がいるということです。


追記・これで宮沢君の疑問に答えたとはおもってないけど。



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