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#85【放送後記】第14回ふりかけラジオ「私はバイオリンになりたい」

4月27日に第14回ふりかけラジオを放送しました。
今回の放送はこちらからお聴きい頂けます。ふりかけラジオ」は隔週(毎月第2・4)土曜日の21時30分から、FM805たんばに乗せてお届けしています。


戦後、「わたしは貝になりたい」という映画がありました。フランキー堺演じる主人公が戦中の行為を訴追され、戦後GHQに戦犯となって死刑になる。主人公の抗弁は通用しない。戦争をしたのは国家であり自分はその権力に振り回されたという理不尽。

今回の標題はそれをもじったわけではありません。毎回のこの手の題名は若手のカナル君がつけているのですから、おそらく彼はそんな映画知らないはずだと思います。ただ、理不尽、とうことはどっかでつながるのかもしれない。そのことについて書きます。(いえ、それ知ってました、カナル談)

この標題の内容は、ラジオの最後にしゃべっているのですが、その出典は、物理学者のアインシュタインがナチスに追われてアメリカに亡命したとき、かれは左手にバイオリンをもっていた、という逸話からのものです。かなり聞きかじりですが、かれが音楽好きというのはいわれてますね。

物理とバイオリン。宗教と科学。なんだか相いれない気がする。でもその幹を辿ると一本だと気づきませんか?という話。

アメリカが原爆開発を急いだのはナチスが先んじて原爆を開発しているという情報があったから、といわれています。しかしナチスはユダヤ系の書籍も学者もすべて弾圧し、原爆じたいがユダヤの思想であるとの認識から、じつは開発はしていなかった。アメリカはこの誤報情報をまにうけて結果、開発してしまう。そして日本に投下。

科学というのはそのように開発が先んじてしまう。AIもそうだ。AIができてからどうしようか?となる。日常の活用方法のソフトがない状態のままツールが生活に入り込んで、その利用方法を後追いする時代が近代であり、戦争がそれを加速する。

スマホもAIも生活を便利快適にしているか、ということ。そうなるとスマホ戦争ともいえる。高度成長時代は自動車が道にあふれ、子どもの路上での遊びが駆逐され事故が多発し、道路の地道に穴が開くのと大して変わらない。

アインシュタインは原爆投下を知って涙したというけど、スマホやAIをつくった人はいま何を感じているんだろうか。

バイオリン、これは、どう考えてもスマホとは異質。しかもピアノとちがって自分で音をあわせる必要がある、べつの言い方だと自分で音があわせられ創造できる。オーケストラのバイオリンは一丁ごとにすべて音色が異なるがゆえに音色が豊かになる、と大阪フィルのバイオリンの先生に聞いたことがある。バイオリンの弾き手によって音質は異なる。だから面白い。

政治学にしろ行政学にしろ、特に文系の学問は断固たる堅牢な建造ではなく、脆い。時代に流され毀誉褒貶に富む。ときに人を戦争という不幸のどん底に引き落とす。それを止めるのは、科学であろうか?どうやら音楽ではないのか?いわゆる芸術の役割とはそのようなものであろう。社会科学も自然科学も、一つの幹から派生し、その幹もまた枝で、さらに芸術につながりそれは宗教にもつながる。結局のところ生命につながる。

そういえば、いちばん初めにつくられた映画「タイタニック」で船が沈没する大混乱のさなか、バイオリンとチェロとビオラの芸術家がなにをしたか。彼らができること、それは四重奏を奏でることだった。近代的装備の船と弦楽四重奏。

AIとはArtificial Intelligence,ARTもともとこれはラテン語の手仕事からきている。

もしオーケストラがすべてAIによってデジタル化されて演奏されてもその演奏会にいくだろうか?それは人間の手仕事ではないですね。完璧さがかえって脆さになる。デジタルピアノはオーケストラと合わせることができないらしい。それって人生でしょ。フーテンの寅さんはそれを見せてくれる。生活はシステムではないんだから。

PCでワードをうち、エクセルで計算し統計する。これは手仕事か?はたとそれに気づくと原稿用紙と万年筆の世界がひろがる。畑しごとで野良着になって地べたにひれ伏して草ひきして土の匂をかぐ世界、農業倉庫の端っこでバイオリンの調弦をしてA線の音合わせの世界。その世界があれば生きているな、と感じる。そういう世界を与えられる人間になりたいって意味で、カナル君はこの標題を書いてくれてるんでしょうね。多分。

このラジオもそうでありたい、とカナルが言っているので。


次回は、2024年5月11日の21時30分からの放送です。
FM805たんばの受信地域外の方も、こちらからインターネットサイマルラジオでお聴きいただけます。
それでは、また次回の放送でお会いしましょう。おやすみなさい。