#57 沖縄の慰霊の日に寄せて・日常生活の愚者であり続けることの意味

宮沢くんが、沖縄慰霊の日を書いている。そうか、そういう日だった。日常のなかでそうしたことを忘れている自分がいる。

6月に沖縄が事実上米軍に占領され、当時の沖縄県最後の官選知事の島田叡(しまだあきら・兵庫県生まれ)もそのまま行方は分からない。地上戦に民間人がまきこまれ、その後本土でも原爆と空襲で多くの人が命を落とす。

個人的には、教員として、修学旅行引率で何度も沖縄を訪れた。その都度、ガマにはいり、語り部の方を招いて話を聞き、平和の礎で平和宣言を読み上げる生徒がいた。

「平和の琉歌」の歌詞は沖縄のすべてを語る。https://www.youtube.com/watch?v=TAM-uUux8BA

戦後日本は戦争を否定し、平和な国際社会をつくる教育をおこなってきた。政治家自体が戦争体験を知る世代だった。

日常生活は継続する。戦争の犠牲の上に成り立った戦後日常生活。次第に戦争の意味を考える機会は退色減少しつつある。

想像力がいる。他者への配慮と共感の力、こころ、という。犠牲者は日常のなかにいつのまにか生まれ、日常の質をいつのまにか変えている。犠牲者は、貴重な遺言を生きているものに託す。信託である。その信託に応える憲法を日本は有している。今を生きている私もなにかの犠牲者であるかもしれない。何かを託す必要がある。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、という。

戦争における賢者とは、権力者であり私腹を肥やす知識人である。彼らは戦争を好む。犠牲は愚者に及ぶ。日常生活の中の不正や偽善・暴力の萌芽。愚者はそれに敏感である。生活をするからだ。優れた愚者は生活の知恵として知識を持つ。その知識はこころに通じて深い。

戦争の犠牲の上になりたつ日本。その未来は、日常生活を生きる愚者のこころのなかにある。

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