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#53 風の音にぞおどろかれぬる

ご無沙汰です。連休はみなさんどのように過ごされましたか?
最終日のきょうは雨ですね。能登半島では地震がありました。おい見舞い申し上げるとともに、日本に住む以上、お互いに用心をしたいものです。気を付けよう。

さて、災害はわすれたころにやってくる、と寺田寅彦の言葉。じつは、感謝は忘れたころに気づいて、時すでに遅し、という自分の話をします。

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」
あ、そういえば、あれってこういうことだったんだ、語るときには相手はいないけど、語るべきことはある。告白とは、懺悔も後悔も反省もある。そして秘密でもある。だから葛藤する。

#52で 、カナル君が目にはさやかに見えねども・・・っていってました。。詳細は以下なんだけど。

中身は、大学進学で地元を離れて、家族と別れたときの両親のことを書いてます。はっきりわかるまでは時間がかかったってことですね。何が、というと、家族の、両親の持つ愛情としかいいようがないのですが。それを書くのに一年かかったことが感慨深いです。

ある意味で、それは告白でもある。それには時間もかかるというもの。告白っていうのは常には見せないから、本心の整理に時間かかるし、ということです。実のところ、彼のこの告白はずいぶん前にZoomか何かで話したときすでにきいていましたから、一年かーーって思う。

私も地元を離れ大学生活をしましたが、「親の心子知らず」の通り、それほど感謝もしてなかったなあ。その「慙愧の念」がお墓やトーテムポールなんだけど、今回はここでは触れません。

同時に感謝を素直に表現することができるのはすごいと思いました。なんならそんなことできないのが自分だからです。告白するには自分の耐性がいるもんです。

さて、#52で、彼は家族のことを「とんでもない」人、と表現していますけど、今思うと、わが亡父も親戚たちも「とんでもない」人、という印象もあります。「とんでもない」人、の寄せ集めが家族で親戚で血縁で、喧嘩もするし問題もおこる。世の中はもっと「とんでもない」。

「とんでもない」関係が家族の常日頃にあって喧嘩もする。赤の他人だと関係ないですから「どうでもいい」人ですね。「どうでもいい」人の集まりが世の中でもある。それがとんでもないことになったりする。

「とんでもない」関係である家族というフィルターを通過した自分がみている世の中。自分のろ過装置で世の中を見ていく。ろ過装置は経験と知恵と知識で形成され、それを付箋にして繋げる。そこに自然に自分という物語を作ることができる。

下手すると付箋のまま人生タイムアウトかもしれない。でも付箋は自分だけの言語で表現されて相手に伝わるかどうかもわからない。ひょっとして相手からは自分が消滅しているかもしれない。

まさに時すでに秋、夏は過ぎているのだ。





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