ここにいられないから。春の海辺で。
めずらしく9時前に帰って来た夫と、ユミカは、夕食の食卓に向かい合った。
「今日のイサキ、美味しいね。どこで買ったの?」
「んっ? いつもの魚マサさん。おじさんが、今日はイサキだっていうから。初がつおも美味しそうだったからねぇ、迷ったんだけど。」
「もう5月だから。イサキの美味しい季節だね。初かつおはまたのお楽しみにしよう。」
夫はニコニコしながら、イサキの塩焼きを大根おろしと一緒に食べている。ユミカは、櫛形に切ったレモンの小皿をコウスケの方に押しやった。
「柚子だったらよかったんだけど、今日はレモンで我慢してね。」
「うん、ありがと。」と小さな声で応えて、コウスケは魚の上で、レモンをしぼった。
その日、午後早い時間に、夫のコウスケから携帯にメッセージが入り、家で食事をすると連絡があった。ユミカは、外食続きの夫のために、煮物やらサラダなどを食卓の上に並べた。久しぶりの夫婦そろっての食事なので、ユミカは、張り切って、料理をした。
「めずらしいね、ふきの煮物? これ、どうしたの?」
「千葉から、届いたの。昨日のうちに灰汁抜きして、煮ておいた。筋をとってたら、爪が真っ黒になっちゃった。」ユミカは、コウスケの目の前に右手を差し出した。
千葉に、ユミカの実家がある。時々、ユミカの母親が、畑で取れた野菜などを、宅配便で送ってくる。
「ユミカ、今日は何をしてた?」
「えっ? 今日? 別に何も。銀座に出たけど、何も買わなかった。デパートまわったんだよね、夏物のワンピースが欲しかったから。でも、気に入るのが無かった。それから、ヤマハで楽譜を見て。夕方に、駅前の魚マサに寄って、イサキ買って、料理しただけ〜。」
ユミカはみそ汁に口を付けながら、何気ない風で、応えた。
「昼頃、家に電話したら、出なかったから。」
ユミカは、怪訝そうに、顔を上げて夫を見つめた。
「どうして? 携帯に連絡くれればよかったのに。何か急用だったの?」
「いや、別にたいしたことじゃない。ただ、携帯に電話するのも、大げさな気がしたから。ユミカさ、今日、誰かと会ってたんじゃないの? 携帯に電話して、邪魔したくなかったんだよ。」
ニコニコとした表情を崩さず、コウスケは、ユウカの目をしっかりと見つめた。
「邪魔じゃないよ。私一人だったし。今日は火曜日でしょ。平日の昼間に遊んでくれる友達なんて、誰もいないよ。みんな仕事があるから。」
ユミカは、コウスケとの結婚を機に、残業も多く勤務時間の不規則だった会社を止め、家庭に入った。そのうち仕事を始めるつもりでいるものの、コウスケの「慌てて仕事、探さなくていいよ。」という言葉に甘えて専業主婦として家に引きこもっている。
「綾乃さんとは、会ってないの? 最近、名前聞かないけど。」
ユミカは、ドレッシングをとる振りをして、立ち上がり冷蔵庫に向かう。
「ダメだよ、綾乃は、今つわりがひどくて、安定期になるまでは、会えない。落ち着いたら遊びにいくって、話はしているけど。」
綾乃は、ユミカの幼なじみで、大学を卒業後、東京にあるインターナショナルスクールで仕事をしていた。今は千葉の地元に戻って、在宅で翻訳の仕事や、英語教室の講師などをしている。去年、結婚して、今は、始めての妊娠でとてもナーバスになっているようだ。
「そうなんだ。てっきり、千葉に出かけたのかと思ったよ。綾乃さんの家って、やっぱり海に近いんでしょ?」
「近いっていってもねぇ。まだ泳ぐには時期が早いし。綾乃も私も、もう若くないから、日焼けしたくないでしょ。千葉に行っても、海岸までは行かないよ。」
「おかしいなぁ。今夜のユミカ、潮のにおいがするよ。だから、千葉に行ったのかと思ったんだ。」
「潮の匂い? まさか! ないない! むかしはさ、銀座の辺りまで海だったらしいけど、今は、さすがに海の匂いはしないでしょ。」
心無しか、ユミカの耳が赤くなっている。声も少し上ずっている。コウスケの視線を遮るように、顔の前で、手をふりながら、ユウカは、早口でしゃべりはじめた。
「イサキのせいかな? 魚臭い? 部屋の中に煙が籠ったのかな。換気扇、回そうか。」
「うーん、そうじゃないんだ。イサキの匂いじゃない。潮風にあたった後みたいな匂いが、君の髪の毛からするんだよ。気のせいならいいんだけど。」
コウスケは、ユミカから目を離し、しばらく、イサキの小骨との格闘に神経を集中させた。ビールを飲み終えた夫のためにユウカは、炊きたてのご飯を茶碗によそい、みそ汁の鍋を火にかけた。ご飯茶碗を受けとったコウスケは顔を上げず、煮物をつつきながら、また口を開いた。
「先週の火曜日も、君の身体から、潮の匂いがした気がしたんだ。あの日は、僕は夜おそかったから家で食事しなかったし、君も魚を食べたとは言ってなかったと思うよ。お惣菜買ったって言っていたから。」
ダイニングテーブルに戻り、椅子に座ったユミカだったけれど「京都の漬け物があったかな。」と言って再び立ち上がった。漬け物の小鉢をテーブルに置き、作ったような表情で、コウスケと向き合った。顔には微笑みが浮かんでいるけれど、目は少しも笑ってはいないようだ。
「今日のお味噌汁のアサリも魚マサさんで買ったんだよ。今度、一緒に千葉に帰って干狩りしようか。たまには実家に泊まって、のんびりしてもいいかも。」
テーブル越しに座るコウスケは、返事もせずユミカを見つめている。ユミカも、コウスケの視線を柔らかく受け止めて、夫の表情を読み取ろうとする。『私の夫ってこんな男だったかのな。』どこか、茫然自失したような表情。『なんだか、少し年をとったのかもしれない。老けて見える。年寄りくさいかも。』ユミカは、目の前に座る夫が、全くの別人にすり替わってしまったように感じだ。
コウスケは、ユミカから視線を逸らし、静かに箸を置いた。ご飯とみそ汁から、ゆったりと湯気は上がっている。二人は黙ったままだった。新婚旅行で買ったドイツのゼンマイ式の振り子時計がコツコツという音を立てていた。
コウスケは、大きくため息をついた。
「ユミカ、君は、今日、銀座には行かなかったんだ。君は鎌倉に出かけたんだよ。違うかい?」
「コウスケ、何を言っているの? あなた、何か誤解しているみたいだよ。大丈夫?」
ユウカは、努めて明るい声をだし、笑顔で夫を見つめ返した。
「ホントだな。誤解だったらよかったのに。僕だって信じたくはなかったんだ。君の愛人、いやだな、この言葉、ボーイフレンドか? そんな男の存在なんてね。」
コウスケは、イラついたような声をだし、表情を歪ませる。
「まぁ、どっちでもいいや。君の愛人だか、ボーイフレンドは、大学の講師をしているんだよね。彼は、火曜日は、大学で講義がないんだ。独身で、両親が亡くなった後は、鎌倉の家に一人で暮している。名前も調べたけど、敢えてそれはここでは言わない。というか、名前なんて、僕の記憶には残らなかった。君たちは、ずいぶん長く関係を続けているようだね。僕たちが結婚するより前から続いているそうだから。」
コウスケは、早口でそう言うと、テーブルに肘をついて、額に掌をあて、目を閉じた。
「いいかい、ユミカ。君は、毎週、火曜日に鎌倉の男の家を訪ねている。それは、間違いないんだ。」
ユミカは笑顔を貼付けたまま、目の前の夫の姿を凝視し、小さな声でつぶやいた。
「コウスケ。あなた、私のこと、調べたの?」
「君が、どういう気持ちでいるのかわからないけど。あの男と君は一緒にはなれないよ。残念だけどね、君は僕の妻だ。何より、あの男は、君を幸せにすることはできないし、責任をとることもしないだろうねぇ。」
ユミカは、大きな音をたてて、椅子から立ち上がった。
火曜日の朝、ユミカは、夫を見送った後、急いで身支度をした。1分でも1秒でも早く、ヒロに会いたい、そんな気持ちで、手早く、そして、念入りに化粧を施した。昨日のうちに、煮ておいたふきを小さなタッパーに入れ、千葉から届いたたらの芽などの山菜をキッチンペーパーに包んで袋に入れた。『コウスケは、山菜は、灰汁が強くてあまり好きじゃないから、あっちに持って行こう。ヒロはたらの芽の天ぷらが好きだから。』ピクニックに行くときのように、ユミカは、ウキウキとし、小さな声で歌を歌いながら、準備をした。薄い水色のブラウスに、紺のカーディガンとスカート。素足に白いぺたんこの布靴を履いたユミカは、30を過ぎた人妻のようには見えなかった。
待ちきれないように電車を降り、駅から長谷寺の近くにあるヒロの家まで小走りで向かった。呼び鈴も押さずにヒロの家の引き戸を勢い良く開けようとした。それなのに、手をかけた引き戸は、鍵がかかっていて開かなかった。不安になって、今度は、何度も何度も繰り返し呼び鈴を押し続けた。家の中は、ガランとして、人の気配はなかった。ユミカは、泣きたいような気持ちになって佇んでいた。
「何だ、だいぶ早かったじゃないか。」
ユミカが振り返ると、そこに、ヒロが立っていた。
「いつもの電車より、一本早いのに乗れたらから。」
わなわなと震え、泣きそうな顔で立っているユミカの前に立ったヒロは、手にした袋を顔の高さに上げ、笑った。
「ユミカが好きだって言ってたから、あそこのライ麦パンを買いに行ってたんだ。コーヒー豆も切れてたし。」
ユミカは、突然、ヒロの胸に飛び込んだ。
「ヒロ。心配したよ。ヒロが私との約束を忘れて出かけたのかと思った。会えなかったらどうしようって。そうじゃなかったら、ヒロが、家の中で一人で倒れているのかもしれないって。死んじゃってたらどうしようって。私、心配で。もう少しで玄関のガラスを割るところだったよ。」
恋焦れていた男の腕の中で、顔を上げたユミカは、すでに、嬉しそうな笑顔に戻っていた。ヒロはそんな女を少し持て余した風で、大きくため息をついた。
「ダメだよ、そんなことしたら。近所の人が警察に連絡してしまうだろ。約束は絶対に忘れないし、部屋で一人で倒れてたりしないから。俺まだ、そんな年じゃないし。孤独死とかないから。」
ユミカは、声を上げて笑った。
「これからは、パンを買いに行く時はちゃんとメールをしてね!」
「はいはい、まったく心配性で、わがままなお嬢さんだ。さてと、今朝は、天気も良いし、海まで散歩しよっか。」
二人は、荷物を玄関先に置いて、海に向かって歩きだした。生まれたばかりのような初々し光と風の中で、若葉は透き通り、揺れていた。ユミカは、ヒロを見上げ、彼の掌をもう一度しっかりと握りなおした。
昼間の海辺とは、打って変わって、ユミカは、どんよりとした暗い部屋の中にいた。『凝った間接照明も、こういうときは何だか、陰気くさい。』ユミカは、そんなどうでもいいことを考えながら、頭の中で、ヒロの表情を思い返していた。
「火曜日がどうだとか、愛人がどうだとか。だからなんだっていうのよ。コウスケ。あなた、コソコソ調べたことを、今、ここで、全て吐き出すつもりなの? だったらその必要は無いわよ。私、何も否定しないから。」
ユミカは、立ったまま険しい表情で、コウスケをにらみつけていた。
「ユミカ、座って。落ち着いて話しをしよう。」
「私、ここを出る。」
唐突に、ユミカは、叫んだ。思わず自分の身体から発せられた言葉にユミカ自身が驚き、その言葉は、コウスケの心を深くさし抜いた。椅子の背に身体を預けたままコウスケも表情を強張らせている。
「ここ以外に、君に行くところがあるとは思えないよ。あの男の所に行くつもりなのか?」
「ヒロ、もう私、あなたと離れて暮せない。あの家には戻りたくないの。私のことを、あの家に戻さないで。ね? お願い。私、もう限界なの。」
カーテンで日の光の遮られた部屋で、ユミカはヒロの裸の胸に頭をのせたまま、何度もつぶやいた。
黙って天井を見つめている男の表情は、疲れのためか、生気なく黒ずんでいた。女の言葉を聞いているのかいないのか、男はそれに一言も応えることはなかった。女のやわらかい二の腕をてのひらでゆっくりと撫ぜながら、男は、そこにいる女のことを少しも考えてはいなかった。
「私たち、終わったのよ。今日、別れたの。もうあの人とは会わない。コウスケ、あなたの言う通りよ。あの人は、私を手に入れようともしないし、あなたから奪うこともしない。二人で、生きていくことも、一緒に何かを作ることも拒んだの。だから、終わったの。私たち、終わったのよ。」
ユミカの目から、ボロボロと涙が流れ始めた。
「本当は、ヒロとは、もうずっと前に終わっていたのよ。それなのに、私だけがヒロに執着して、しがみついて。コウスケ、ごめんなさい。ヒロに心を残したまま結婚したのが間違いだった。私、ここを出ます。離婚してください。」
「どうして。男と別れたのなら、ここを出る必要はないよ。今までどおり、仲良く暮していけるんじゃないの?」
ユミカは、流れる涙を掌で拭って、笑ってみせた。
「あなたのこと、愛せると思ったの。でも、ダメだった。本当にごめんなさい。あなたのこと幸せにできなくて。」
コウスケは、ユミカが、男と別れたと聞いて安心したのか、顔を紅潮させて、彼女の手をとって説得しようとする。『お人好しにもほどがある。』ユミカは、コウスケの無邪気さに心をざわつかせる。そこには嫌悪感しかなかった。ユミカの残酷な心を少しも読み取ることができず、コウスケは、ユミカを失うまいと必死だった。
「大丈夫だよ。僕は、ユミカといられて幸せなんだ。だから、出て行く必要はないだろう? 僕が悪かった。君のことを調べたりして。そんな卑しいことして後悔してる。だから、ユミカ、一緒にもう一度やりなおそう。ユミカ、君に行くところなんて、どこにもないんだから。」
「ごめんね。私、これ以上、嘘をつきたくないし、あなたを傷つけたくない。コウスケ、分かってくれるかな。私は、行くところがあるから出て行くんじゃない。ここにいられないから。だから、出て行くの。」
ユミカの言葉に迷いは無かった。
コウスケと暮したマンションを後にして、一週間がたった。ゴールデンウィークも終わり、平日の海は静かだった。ユミカは一人で砂浜を歩いていた。そこは、実家のある、千葉の海だ。潮の香りを全身に纏って、ユミカは、「ここにはいられないから。」とあの時と同じ言葉またつぶやいていた。
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