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1016/1096【質問回答】見方を変えたい…苦労人に優越感を持ってしまう

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1016日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1016日目。煉獄杏寿郎は「心を燃やせ」と言った。わたしは煉獄さんというキャラクターをとおして得た教訓を人生に活かしたいと思う。

煉獄さんは架空のキャラクターであるけれども、そんなことはあまり重要ではないと思う。相手が生身の人間でなくたって、人は感動や人生訓を得ることもあるし、その人への思いが生きる力になることすらある。

わたしは「そうだ!わたしは心を燃やしたいんだ!」と改めて思った。煉獄さんのおかげだ。わたしは心を燃やして生きたい。

わたしには、「ゆる~く生きる」「仕事をせずに生きる」「働かないで稼ぐ」「努力をしない」「遊んで暮らす」というものに、いかんせん心が響かない。どうにもそれに胸熱にならない。これらのことは、わたしの幸せとは関係がないと感じる。フッ…不幸な俺さ…

たまにならいいが、わたしは年がら年中カクテル片手に南国のビーチでのんびりしていたくない。いいのは最初の数日で、結局そのあとはつまらなくなって砂浜でスクワットを始め、死体のように浮いて波と完全に一体化しようとするという謎の修行を始め、『ピンク色の二枚貝だけを100枚集めるまで終われまてん』などのタスクを設け、血眼になって探してしまう。遊びでも仕事でもなんとよばれることでもいいが、心を燃やしているときが結局面白いと感じてしまう。だから結局、気がつけば手に持っていたはずのカクテルはすっかり温くなって二層に分かれている。そしてしかし、わたしの頬は、アルコールに頼らずとも紅潮しているのである。

この毎日投稿を三年間続けて終えた暁には、まずはいきなりのんびりとしたタスクフリーの暮らしに放り出される。それは南国カクテルライフと同じように、初めはえらく幸せだろうと思う。が、いいのは最初のうちで、だんだんスクワットが、死体浮きが、血眼貝探しがしたくなるはずだ。

わたしはそのときの自分が「ぐぁりゃァ~~~なんだこのクソ暇な日々はァ!!心燃やしたいじゃねえかアアアアア」と爆発するのではないかという希望的な予測を持っていて、これを密かに楽しみにしているのだ。三年もかけて習慣づけたことをバッサリと抜いたら、一度はカクテル南国暮らしに心もトロピカルになるだろう。しかし、その間潜伏していた、「心を燃やしたい病」が突然発症して、やる気のあまりサイヤ人のように金色に光るのではないだろうか?!?!はわ~~~とにかくこれが、楽しみだ!!

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本日はこちらのご質問にご回答いたしますよ。

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このご質問について、ふたつの観点についてお伝えいたします。

ひとつは幸せの本質について。
もうひとつは、苦労しているという認識についてです。

◯幸せの本質とは

幸せというのは本質的に、誰かと比べて感じる相対的なものではなく、個々人にとっての絶対的なものです。ですから、人と比べてそれを感じようとする癖がなかなか抜けない原因というのは、「人と比べないと幸せだと思えないから」なのですね。端的に言うと、幸福感をもっていないからです。

この”絶対的なもの”というのは、どういうことでしょうか。
この場合では「他者との比較を必要としない」ということ。つまり「他者の状態によって左右されない」ということです。

例えばあるところに、ケーキに囲まれていれば幸せだという女性がいるとします。彼女は毎日ケーキを焼いていましたが、美しいケーキたちをショーケースに並べてみたくなり、ついにはケーキ屋さんを始めました。ケーキに囲まれていると、甘い香りと、自作のケーキたちの可憐で優美な姿にいつも触れていられます。すると彼女は、幼い頃からの夢が叶ったような気持ちになって、どこからともなく喜びがこみ上げてくるのです。新しいケーキのアイデアが湧いてきたときなどは、早く作ってみたくて、わくわくしていても立ってもいられないほどです。

この女性の「ケーキに囲まれている幸福感」というのは、たとえば他の誰かが苦労をしていれば強まり、苦労をしていなければ薄れてしまうものでしょうか。そうではないですよね。彼女にとってケーキに触れているときの幸福感というのは自分自身から湧き出るものだからです。その幸福感を測るために、他者と自分の状態とを照らし合わせる必要がありません。このように、幸福感というのは自分の感覚のみを介して成立するものです。

なので、質問者さまに必要なのは、”なにが自分にとっての幸せなのかということを追求してみること”のみなのですね。ここに納得がいっていないから、他者との比較をしてしまうのです。

「人と比べて自分が幸せ」という考えが正しいのか間違っているのかを検討する必要もなければ、そう考える癖を直そうとする必要もありません。あなたが、他者の状態に関係なく自分について幸せだと思えているかどうかのみに着目すればよいことなのです。

ただ湧き上がってくるような幸せの中にあるときにはもう、それを確認するのに他者との比較を介さなくなっているものですよ。

言い換えてみると、人と比べている間は、自分が幸せかどうかがわからないでいるということなのですね。まだまだ幸せの余地がたっぷりあるということです。

◯苦労しているという認識について

わたしたちが誰かのことを「苦労をしている」と思うとき、それはわたしたち自身の持つ「こういう状態であれば、それは苦労だ」という個々の基準に照らし合わせて考えていますよね。けれども、苦労というものも、しているかしていないかということは、その本人の自覚がすべてです。

もしかするとわたしのこの三年毎日投稿も、「この人は苦労なことをしているな」と思う人もいれば、「やりがいに満ちていて楽しそうだな」と思う人も「たいして大変なことでもなさそうだ」と思う人もいることでしょう。そして、多くの人が、その自分の感覚を真実だと思うものです。なぜって、その人にはそう見えているからです。

けれども真実はわたしにしかわからないことなのですね。もしかすると、私自身にもわかっていないのかもしれません。今は苦労と思っても、あとになれば充実していた時期だと思うかも知れません。今は楽しいと思っても、あとになればなんて苦労をしていたのだろうと思うのかも知れません。では、わたしのこの毎日投稿はわたしにとって苦労なのでしょうか、そうと言いきれないものなのでしょうか。

時とともにわたしたちの感覚は、流れたり、覆われたりネジ曲がったり解放されたりしながら、変化していきます。この観点をもって考えてみると、なんとわたし自身にも、自分がそうと決めつけるまで、これが苦労なのかどうなのかを決定づけることはできないのです。

わたしは過去に家を失って公園で寝泊まりしたこともありますが、意外や意外、その最中にはそれを苦労だと思っていませんでした。そうとは認識しておらず、なんと自分でも驚きなことに、こんなに解放感のあることなのか!?という意外性に満ちた体験だと感じていました。それどころか、なんだかどこか滑稽にすら感じられていて、クスクスと笑ってしまうことでもあったのです。

今になるとそれは、とても貴重な美しき体験でした。この星に生まれてあのような体験ができたことは、「家がなくなるのは悲惨なことである」という恐れのジャッジを一発で吹き飛ばしてくれる、大変ありがたいことだったと(強がりではなく)感じるようになっています。さて、すると、わたしのあの体験はわたしにとって苦労だったと言えるのでしょうか。
こう考えてみると、それを苦労だと決めつけることができなくなってしまいますね。

もちろん、だからといって大変な目に遭っている人を助けずにいましょうということではないのです。本人が苦労だと思っているかどうかはわからないと知っていながらも、助け寄り添って自分の思いやりを発揮できることは素晴らしいことですね。大切なのは、他者の感覚を完全にわかったような気にならずにいることだと思うのです。

もしも誰かについて”この人は苦労をしている”と感じたときには、

「もしかしたら本人にはその認識がないのかもしれない」
「今は苦労だと思っていても、あとからどう思うかわからない」
「実はこの苦労は、あとからこの人をとても幸福にするのかも知れない」

というふうに、あえて真逆の発想をもって見てみてください。こうした視点の変換の反復によって、あるとき固定されていたものの見方が、クルッと変わることがあります。ものごとをこれまでとは別の発想で眺めてみると、これまでに見えていなかったいくつもの点に着目するようになり、その点と点がつながったときに、突然それが別のものに見えるようになるのですね。人の認識って面白いものですね。

なにかについていつも同じ見方をしてしまうというときは、このような体験につなげてみるのもとても良いアプローチですよ。遊びのようにして、試してみてくださいね。

というわけで今日は、人と比べて自分を幸せだと思ってしまうというときに、押さえておくと良いふたつの観点についてのシェアでございました。
幸せについての見方に、嬉しい変換が起こりますように。

それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)