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551/1096【往復書簡】自分が自分の北極星

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で551日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

551日目、朝から体力のほとんどを泣くことに使った。志村けんさんが天に召された。大好きな人だった。彼の動きが好きだった。なめらかな動きを持った人だった。あの神経を愛していた。あの声の出し方、かわいい声が好きだった。泣いても泣いても涙が止まらなくて、別れが寂しくてたまらない。ケンちゃん、ありがとう。心の底から好きだったよ。

朝食もとることができず、昼近くなっても食欲もわかない。ブログを書いたらきっと元気になるけれど、書き出すまで5時間も泣いてしまった。

ケンちゃんは、テレビに出る人には珍しく、真顔を見せる人だった。なにひとつ飾らない、ただの真顔を見せる稀有な人だった。あんな真顔を見せられるのをすごいことだとわたしは思っている。女性が大好きなのがテレビから伝わってきて、女性のみっともないところや汚いところもぜんぶぜんぶ愛してくれるようなでっかい愛を感じる人だった。天で、どうか笑っていてね。

今日の毎日投稿は、泣きながら書く。泣き止まないのでこのままいくぜ!

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上の圭吾さんの記事へのお返事です。

暗いニュース一色の毎日ですが、うまく言えませんがどんよりする気にはなれないので、今日に限らず泣きたいときに思いっきり泣いている日々です。たくさんのイタリア人がコロナに倒れ、亡くなってしまった。他の国でもバタバタと我々の兄弟同胞が命を落としています。悲しくて、ときどきぶち泣きながら、気合いとともに生きて見届けようという気持ちで家の中にいます。そして、人類全員が選ばれし命であることを強く感じて、そのうちの一人であることを誇っています。この時代に生きることはわたしの誇りです!

そして、「みんなすげーな。生きてて、心からすごいと思うよ。あなたが自分でどんなにダメだと思っていても、関係ないから気にすんなし!その役をやってくれてありがとう。生命体であるなんて、すごすぎると思うよ。俺たちは仲間です。友だちです。きょうだいで、同じものです。だから、誰かが笑ったらそれは俺たちが笑ったことなんです。誰かが泣いたら、それは俺たちが涙でなにかを流したんです。だから、心配しないで遠慮しないで、泣きたければ泣こうぜ、なあきょうだいよーーーー!!」と思っています!!

生きている気がしない人は、アマゾンで今すぐ聴診器を注文して、自分の胸に当ててその鼓動を聴いてみればいい。そのシャオンシャオンと絞り出され続ける血液の音を。バシュンバシュンと胸を打つ爆発のリズムを聴けばいい。自分の身体が、意図を超えた音楽を奏でている不思議を知ればいい。全身の細胞に栄養と酸素を届けようという、己のただただ無心の「生きる意志」に驚けばいい。身体に謝りたくなる。こんなに生きてんのかよ、俺を乗せてこんなに必死かよって、自分に自分が渾身の喝を入れられる瞬間です。

俺が朝と言えば朝なんだよ。俺が自由だと言えば自由なんだよ。俺が「おはようございますで泣ける」と言えば泣けるんだよ。幸せも喜びも、全部自分が作り出しています。その点において我々は神です。神の往復書簡です。そんなんじゃ泣けないと言う人には「俺が手本を見せてやるよ」と言いたいです。俺は生きたいんだ、俺は生きたいんだ、俺は生きたいんだと主張する熱き激情の全部を「おはようございます」に注ぎ込む限り、絶対に泣けます。だって、命は、こんなにも生きたがっているのだから・・・!!生きたい!!生きたい!!生きたい!!生きたがる命の叫びを「おはようございます!!」に全部凝縮させて叫ぶとき、もう、涙を抑えることはできません。

神の往復書簡!!泣いていたのに、肩を震わせて笑いました。そう、そうなんです。自分を堂々と神と呼ぶ。神と名乗る。実は我々がやってみたいことはこれなのかもしれません。「お仕事はなにをされているんですか?」と聞かれたら「仕事であり状態でもあるんですが、神です」と言う。最初の一発で躊躇するとその後も回復が難しいので、潔く言う。上級者になってくると、神です。ではなく「ワタシハカミダ」とカタカナの威光を放って言う。「えっと・・・神主さんとかですか?」と聞かれたら「そうではなく、ゴッドのほうです、ジー、オー、ディーでGOD」と言う。「というと、新興宗教などをお持ちなんですか?」と聞かれたら「違うな・・・わかるだろう、宇宙の創造をしているほうの、ほんとうの神さ」と言う。言い放つ。そこでさすがにどん引きされたタイミングで、「俺は自分のことをそのくらい大切に思ってリスペクトしてます」と言えばいい。言えるとモテます。わたしはここでモテる男のマル秘会話術をお伝えしているのでしょうか。なにをしているのでしょう。でも、ほんとうにわたしたちは神なのだと思います!!

私は、誤って足の小指をタンスにぶつけたときなど、痛いと叫ぶ代わりに「生きてるぅ!!」と叫びます。不思議なことに、痛いと叫ぶと苛立ちや後悔や自責の念が湧き上がるのですが、生きてるぅ!!と叫ぶと「本当にその通りだ」と冷静沈着な自分を取り戻し、なんならちょっとほくそ笑みます。不敵に。ふふふふふ、俺はまだ生きているぜ。痛みで涙がこぼれたとしても「これは血の涙だ。生きている証拠だ。」みたいな感じで、悲しくも勇ましい英雄を気取れます。

当たり前の反応を裏切ってみたいことってありますよね!ついつい、オートでやってしまうことを、意図的なものに変えてやりたい気持ちがわたしにもふんだんにあります。それは、なにか怒りのようなものや悔しさや悲しみなどではなくて、いたずら心です。実験してみたい心です。わたしたちは、子どもの頃にはこの実験心が満ち満ちていたのに、生きる時間が長くなるにつれそれが失われやすいように思います。わたしは、実験心旺盛な人が好きで、尊敬心が湧いてきます。圭吾さんのことを実験心旺盛な人だと勝手に思い、その点を勝手に慕っています。「こんな世界が見たい!」と誰かが言ったときに、その喜びの予感にわくわくして、「じゃあ俺はそれを実行して叶えてみちゃいます!!そのためにまずはどんどん実験します!」と言ってランドセルをぶん投げて家を飛び出していく人だと感じます。

よく巷でも「自分の心が鏡に映るように現実世界に反映される」と言いますよね。わたしはそれを楽しむのに、この実験心こそが最高に役立つのだと思います。自分の心の中に、「これが欲しい!」を感じ、自分がそれを叶えようとあれこれ動く。自分自身との関係がこんなふうに良好だったら、それが現実になったとき、欲しいものが手に入り、欲しい物を見て触って遊べる世界になるのだと思います。自分との付き合い方を相思相愛にすること、自分と恋に落ちること。それって自分の特徴をひとつひとつ好きになんかならなくていい。そんな遠回しな方法はとらなくていいから、ダイレクトに自分を愛して舐め回せばいいと思います。ベロンベロンに、前後不覚なほどに。

だって、自分をこれ程愛せる人って、自分自身だけだと思うんです。その点、自分というのはとてもかわいいやつです。

恋と言えば、わたしは恋をすることって、なにかに飽きてやりたいという感覚なのだと思います。知って知って追求して、飽きてやりたい。知らないところがあるのを苦しく思うから、知り尽くして自分のものにしてしまいたい。飽きたいから味わい切りたいという狂気のことを言うのだと思います。わたしはほんとうに好きな人ができると、好きすぎて狂おしすぎて、自分を狂っていると思うことばかりでした。あるとき、じゃあ自分はどうしたいんだ、なにが欲しいんだ!!と思ったときにポロッと出てきた望みは、「この狂おしく好きな相手に、心底から飽きてみたい」でした。これが破壊的に思えて自分でも驚き、自分はおかしいのだろうと思いましたが、恋が始まった途端、それは「相手が地球のどこでなにをしていてもどうでもいい、なにも知らなくていい、どうなっていてもいいと思えるくらい、なんの条件もなく愛してみたい」ということなのだと思いました。狂おしいほど好きなのに、独占欲も束縛もしないどころか、相手を見ることが叶わずとも構わないというほど愛してみたいという矛盾を恋なのだと思いました。

これを自分に向けるというのは、生きようが死のうが構わないと自分に思ってあげられるということだと思います。そのとき、なにが最高値に達するかって、実験心です。自分がなにかを欲しがっている。そのために手当たりしだいに試して実験して、それで死んだとしても構わないという思いです。

自分の望みのためなら自分が死んであげてもいい。ある意味で矛盾しているのですが、でももしそんな風に思えたら、その人はほんとうに自由なのだと思います。恋極まれば、自分から命綱を外してあげられる。きっと魂の欲しいものは、自分で作った鳥かごから出ることなのだと思います。

「頑張って追いつきたい」と思わせてくれる壇珠さんと、そう思う自分が好きです。

ありがとうございます!!!光栄にございます!!これを読んでふと、ドロンジョさまを思い出しました。ドロンジョさまは優しいボヤッキーやトンズラーがいるからこそ、ドロンジョでいられます。ドキンちゃんとバイキンマンでも同じですが、わたしが思うに、この男女の役割が逆転してしまうと、いきなり悲惨な感じになってしまいます。男が女のために闘ったり頑張ったり守って命を張るとかっこいいですが、女が男のために闘って頑張って命を張って守るという図はなぜか犠牲を見た感じがします。わたしは、ドロンジョやドキンちゃんを女の鑑だと思っています。「やっておしまい!」と言えるっていいなと思います。それだけ男の強さを信じているのだと思います。わたしはスーパーなどでも、夫に「緊急の要請よ・・きゅうりが見つからないことがわかったわ。あいつはどこかに潜んでいるはず。必ず捕らえてきてちょうだい!」などと言ってみますが、夫はやる気を出してきゅうりを捕獲してきてくれます。わたしはミッション成功時に「すごいじゃない!」と讃えて喜びます。こうしてドキンちゃん(仮)として過ごすのが好きです。圭吾さんは、どちらの役割が好きですか。

私は、人間は幸せになる義務があると思います。幸せになってくれないと困ると思います。そのときに、必要になる力は「死んでたまるか」と思う怒りだと思います。愛でもなく、優しさでもなく、怒りだと思います。

ここを読んで、そういわれてみればわたしは、怒りを元に人生を動かしたことがほとんどなかったことに気が付きました。これは男女の違いなのかもしれませんね?!わたしはいつもいつも、思ったとおりにいくことを決めるとき、「はぎゃーー好きすぎる!」「ダメだもう他のことなど目に入らない!!」「やっべークソ面白そう!死ぬ!」が原動力になっていました。

なので、実際のところはどんな鬼畜なほうに進むときでも「それどころじゃない!変な目で見られようが狂ってると思われようが関係ない!もうなんとでもYEAR!!」と思うか、思う暇もないほど猪のようにそれに向かって突進していたため、苦悩の末に決断したということはなく、また、怒りの末に立ち上がったというカッコイイ感じもありませんでした。傍目に見たら、完全に浮かれて盲目になっている感じでしかなく、馬鹿にされるばかりでした。あまり考えないでやりたいことに突っ走る人を「頭が弱い」という扱いをしたがる人がいますが、わたしは熟慮してからやろうと思ったことがないので、そういう人には鼻くそをつけるか、ピンポンダッシュをするか、カメムシをくっつけるか、握りっ屁をかがしてやればいいと思っています。

わたしが怒りを原動力にしたことは一度しかなく、それは英語の勉強でした。夫との口論に負けるのが嫌すぎて、頭の頂点から怒りの柱が立って、殺気立った怒りを猛勉強にぶつけたことがあるのですが、それ一度きりでした。結果的に思うのは、「面白そう!」と思って始めようが「あの野郎ぐうの音も出ないように論破してやる」と思って始めようが、つまり好きからでも怒りからでも、夢中になってやったことはつくづく面白くて、記憶の中で、なぜかなにがなんでもいい思い出になるということです。

こんなことを書くから狂人書簡になってしまうのですが、わたしは穏やかな毎日とか、穏やかな夫婦とか、そういうものは結果的にそうなるのは良いとしても、目指すところじゃないと思っています。「穏やかを目指す」ってなんなのでしょうか。それをやろうとすると、抑えるものは浮き沈みする感情です。激しい情動を起こさない、感じない、見せない。何がしたいのでしょうか、起こさザル、感じザル、見せザルとして日光東照宮に飾られたいのでしょうか。見猿聞か猿言わ猿とライバルとしてバチバチにやり合いたいのでしょうか。こう考えていたら、なにかを目指すことすべてが違うと思えてきました。目指すんじゃない。なにか別のものを北極星のように見て進むのではなくて、自分が自分の北極星であればいい。そうすれば、世界中のどこにいたって迷うことはない。自分を見失うのは、誰か何か他のものになろうとするからだと思います。自分というものは、キンタロー飴のようにどこを切っても自分で、すでに自分100%なのだから、自分探しも自分を生きようとする必要もなく、すでに目指していたものは手に入っているのだと思っていいと思います。自分以上に自分になれる人はいないし、誰もが世界一自分です。ベターな自分を探すのなんてやめちまえばいいのにと思います。

世界一、と書いて思い出しましたが、わたしは嫌われ発言ついでにさらに嫌われようとしてみますと、オリンピックが昔から嫌いです。子どもの頃からなんでオリンピックなんかやるのかが不思議でなりませんでした。なぜ国同士で戦うのだろう。どうして、どの国のものがより優れた選手を出せるのかを競うのだろう。まったくそこが不思議でならず、大人になったら変わるのかと思いきやまったく変わらずに今も意味不明だと思っています。勝った人がどの国の人だっていいじゃないかと思ってしまいます。

なんなら誰よりも生きていたい。千年も万年も生きていたい。執着は悪いことだと糾弾されても、生きることに死ぬほど執着したい。だからこその「死にたくねえ!!」だと思います。この世で一番素直で、この世で一番まっすぐな言葉だと思います。

ほんとうに、千年も万年も生きていたいですね!!わたしも執着をなるべく残して死んで、生まれ変わりを狙っていきやす!!もう、死んだらすぐに、すぐにでも戻してもらうのです!!即輪廻転生を狙う以上、未熟者で死ぬことになんの恐怖もありません。やり直し上等です。まだまだやり残しばかりじゃないかと言われたら「そうなんすよ~~、未練たらたらっすよ~~」とだらしなく言って、できるだけ長いやり直しをくらいたいです。今考えているセリフは、「自分が未練だらけなのは、神と他人のせいだと思うんですよ」です。これでレッドカードが出て、一発で天国から強制退出になれるといいなと思います。それほどまで生きていることが好きで嬉しいです。

ビビリな私は「あなたがいなくても私はちゃんとやっていけますよ」的な態度をすぐに選びそうになります。依存することを先回りして恐れていると言いますか、それを失うことで自分がダメになることを恐れて、深く関わることを避けるのです。~中略~巷では「あたながいなくても私は幸せ。だけど、あなたがいたら私はもっと幸せ」みたいな関係性が理想とされていますが、それさえも飛び越えて、俺はお前が好きで好きでたまらないんじゃあああ!!ぐおりゃああああああ!!ぐちゃぐちゃに溶けて混ざり合ってくれ!!お前がいなけりゃこの人生は虚無!!まったくの虚無じゃ!!NO お前 NO LIFE!!って、これくらい言えた方が本当だと思いました。

わたしはすぐに誰かに「相手がいなくなったらなんの支えもなくなって即死」というほどに依存して寄りかかってしまい、どこまでもNO お前 NO LIFEになることができてしまうので、逆に依存を先回りして抑えられる感じを知らないのです。自分の心を丸々あずけてしまい、相手が去ると見事に谷底に落ちます。だから、それを事前回避できるってすごいなと思います。

でも圭吾さんのおっしゃることもわかります。わたしはそんな依存体質でメンヘラで狂っているのは自分が「自尊心が低すぎる」のが原因だったのだと気づいていましたが、そこを隠して心の広い自立したイイ女ぶることが1ミリもできなくて、狂気全開で生きてきてしまいました。でも、なんと面白いことですが、その狂気を出し切ってみることが、メンヘラの治療になりました。自分のメンヘラ力は、メンヘラオリンピックがあったら確実に金メダルを狙える位置にいる実力だと思っていたのですが、出し切ってみるとそこまでではなくて、意外と大したことがなかったのです。でも、あれを隠し続けていたらずっと自分のことを「金メダル級のメンヘラ」だと思ったままだと思うので、出してみて「すみません自意識過剰のうぬぼれでした」と思えたことは救いでした。そこから恋は意外と「飽きたい」だったと気付き、そこから本当は自分がいればさみしくなんかないんだと気づき、そこから孤独の真のさみしさと孤独を愛する気持ちを知り、そこから自分なんて眺めてりゃいいんだと気づき、最近は「俺が朝だと言えば時計が何時を示していようがそれが朝だ」と思うようになりましたが、わたしはこの自分の心の旅を愛しています。書き終えて心から爽やかです。爽やかなので、今は朝です。圭吾さん、おはようございます!!!!!!!!!!!!!!!

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