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666/1096【往復書簡】無関心ですら愛の仕業

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で666日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

666日目、666のゾロ目の日!今日は特別な日だ。
今日の投稿を見る人、それはとても運の良い人!なぜなら、書いているわたしがそう決めていて、ゾロ目の日に良いことがいつも起こるからである。

毎日投稿のゾロ目日はまたきっと特別な日になると思っていたら、今日は大切な、自分の仕事上の憧れが形になった新企画のスタート日だった。なんという偶然だろう!

わたしはこの三年間を目標とした毎日投稿を、母の誕生日に始めた。そして半分を折り返した日が父の誕生日だった。それにも驚いたけれど、今日の偶然にもまた心躍っていて、これを読んでくださっている方にも幸運が舞い降りますようにという祈りを込めて書こう!!

あなたは運がよいのです。あなたはツイています。これからいいことがいくつもありますよ。よかったですね!!という勝手な思いを込めて、さあ今日も書くぞー!!

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上の圭吾さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!本を手売りする先の見えない旅をしながらお返事を書いてくださり、ありがとうございます!なかなかハードな日々を送っておられる様子をブログなどで拝見しながら、こうした日々が、またあとになってからも、どれだけ良い思い出として回想されることかしらと勝手に思い、微笑ましく見させていただいています!ご無事で何よりです。

おはようございます!!壇珠さんのお返事を読み、猛烈に元気になりました!!なんなのでしょう、この「引き上げていただいている感」は・・・私だけでなく、壇珠さんの言葉に触れる方々はきっと「引き上げていただいている感」「高みに連れて行ってもらっている感」「心が風になる感」を感じていると思います。いえ、他の人なんてどうでもいいのです。いま、まさに私が壇珠さんによって引き上げられています!!ありがとうございます!!

こんなふうに言ってくださって、嬉しくて、嬉しさのあまり生きていてよかったと心から思いました。わたしはご存知のように毎日無料でブログを書いていますが、それがなぜなのかと言うと、自分が伝えたいことはこちらの都合で伝えたいからなんです。どんな都合で伝えたいのかと言うと、どこかの誰かに、「良い気分」になってもらって嬉しくなりたいという都合のためなんです。

それでどんな良いことがあるのかと言うと、わたしが心底から、良心に何ひとつやましいことなく嬉しくなること、です。お金をいただくのが悪いという意味ではないんです。わたしはお金が大好きで、お金というのは「あなたのところに来たよ、何に代えてもいいよ、そのためならどこへでも行くよ」と言ってくれる、とても可愛く純粋なものだと思っています。

ではどんなことをやましいと思うのかというと、伝えたい、良い気分になってもらいたい、と純粋な遊びのように思う気持ちがあるというのに、それをどこかで思い切り発散したいのにしない、ということです。これが自分の心にやましくて、そういう場を設けないと、なんだかモヤモヤしてきて、うつうつとしてしまうんです。

これを有料でやることもできましたが、ただ、ひとつ好奇心が湧いてしまったことがあるんです。それは、「自分が純粋にそれだけをしたときにどれくらい嬉しいのかを知ってみたい」というもので、それを知るのには一度お金をいただかないでやってみないことには、わからないからです。

今も無料なのは、読んでくださるお方に良い気分になってもらえたらそれで自分が非常に嬉しいために、もうそこで必要なものを得ていると感じるからです。

こうしてわたしは読んでくださるお方の「幸せな気分になることができる」という機能に頼っていい気分をいただいているので、今回もまたすっかり圭吾さんのその機能をATMのようにして、嬉しい気分を引き出しました。ほんとうに、ありがとうございます!!!

ちなみに、わたしはお金も必要なので、お金がATMから出てきても嬉しいです。そういうときもまた、どなたかの「お金で応援してくださる機能」に頼っていると思っています。どちらもありがたきことですね!!

最近「祝いと呪い」について考えていました。漢字はとても似ています。しかし、意味合いは真逆と言っていいほど違います。祝いの顔をした呪いがこの世の中には多い気がして、たとえば「あなたのためを思って言っているのよ」的な言葉は全部(全部はさすがに言い過ぎですが)呪いだと思います。祝いの言葉に触れると、心が軽くなります。呪いの言葉に触れると、どれだけ正しくても心が重くなったり、窮屈になったり、窒息したり、身動きが取れなくなったりします。漢字を見ると「示」が祝いで、「口」が呪いです。私は、祝いと呪いの違いは「神の導きによるものか、人間の導きによるものか」の違いなのかなと思いました。呪いは人間から来ている気がしますが、祝いは人間を超えた大きな何かから来ている気がします。ひどく抽象的な話で申し訳ないのですが、壇珠さんの言葉からは、祝いの力を強く感じます。

祝と呪いを並べて考えてみるの、面白いですね!直感的にわたしは、同じことを伝えるのにも、示せば祝い、口で言えば呪い、なのかなと思いました。

たとえば、同じように相手を思って「自分を大切にしないといけませんよ」という素敵なことを伝えたいとして、それを自分が実際に実践してその姿を見せることで伝えていればその姿勢は祝福され、自分ができないのに口で言ってばかりいれば、その言葉は相手にとって口うるさいだけになって呪いのように思われてしまう、というように。

圭吾さんの仰るように、口で言うのは人間に簡単にできることだけれど、自分の背中で示すことができればそれは神のお仕事ですよ、ということかも知れませんね。こちらが示していれば、相手はその人にとって必要なものを吸収するようになっているのだろうという、他者への信頼がありますもんね!

本来、女性の中にはマリアもカーリーもいるような気がします。カーリーは、旦那のシヴァ神を踏みつけています。その理由が「勝利に酔ったカーリーが踊り始めると、そのあまりの激しさに大地が粉々に砕けそうだったので、夫のシヴァ神がその足元に横たわり、衝撃を弱めなければならなかった。(Wikipedia参照)」からなのです。この理由、すごくないですか!?私は、なんだかここに男と女の理想の状態と言いますか、自然を見ました。そして、ここが一番肝心な部分だと思うのですが、猛り狂っているカーリーは可愛いのです。カーリーと可愛いは語感も似ていますが、可愛いのです。

たしかに、この理由すごいです!!そしてこれぞ男と女ですよね!!女は暴れることに遠慮しちゃいけないと思います。思いのままに踊ればいいと思います!!シヴァ神がその踊りを止めようとしないのが重要ポイントだと思いました。男が女をコントロールしようとしてはいけないということだと思うんです。だから、止める代わりに自分が踏みつけられて大地を守っているのでしょうね。

もうひとつ重要だと思ったのは、カーリーが踊れば大地が粉々に砕けるというところで、これはつまり女性は「地球のために」「自然のために」などと言って自分のやりたいことを止めてはならない、ということだと思います。
そうではなくて、それがどうなったとしてもやりたいようにやって、大切なことはきっと男がなんとかしてくれると信じることではないかと思いました。本当にこれにはたくさんの意味が含まれていますね。

女性がひたすらマリアを目指すと、ダメ男製造機になる気がします。乱暴な言い方ですが、女性は男性に寄り添う必要はないと思います。寄り添うよりも、相手をぶんぶん振り回しながら「いってらっしゃい」と放り投げるくらいが、ちょうどいいと思います。私も、過去に同棲をしていた彼女に振られたことをきっかけにブレイクスルーを果たしました。男は、女に振られることで勇者になります。一時的な優しさは大歓迎ですが、優しくされ続けるとダメ男になります。男に優しさはいらんのです。優しさよりも「かっ飛ばせー、けいご!行け行け圭吾!死ね死ねけいご!」とか言われた方が、結果的に生きます。なので、男の生首を抱えて牙を剥き出しにして笑うカーリーよろしく、この場を借りて女性陣のみなさまには「男性に優しくするのもいいけれど、時にはしっかり殺してあげてください」とお願いをしたいです!!

全文引用ばかりしてしまいます!!わたしもこれに完全に同意です。マリアを目指すと、ダメンズ製造機になると思います。以前わたしがブログに「女は出せ、男は出すな」的なことを書いたことがありますが、それはつまり女は我慢するな、男はやせ我慢しろという内容でした。すると、「わたしは男が泣きながら弱さを見せて自分に甘える姿に癒やされるし、それをわたしは受け止めてあげるのです」という内容のメッセージやコメントが、同じ女性からいくつも送られてきました。それを見て正直、そのマリア様ごっこは男をダメにすると思いました。女性がこういうマリア化への自己満足を求めると、それに応える男はダメ男になります。

こうした共依存的関係に陥るくらいならカーリーになって男の首を掻っ切ったほうがいいです。男ってメソメソ泣いて甘えたりすると、もうその相手を女として見られなくなりますよね。女じゃなくてお母ちゃんです。やはり男たるもの、女の前ではカッコつけたいじゃないですか、いいとこ見せたいじゃないですか。だから女の方も信頼をもって、思いっきり頼りたいことをぶん投げるほうが遥かにいいと思います。

今日はひとつ、壇珠さんにご質問があります。猛烈に野暮ですが「もしも、生きてきた中でモテる秘訣のようなものを感じた瞬間があったとしたら、それはなんですか??」と、お聞きしたいのです!!と言いますのも、私自身、昔はまったくモテなかったからです。しかし、ある日を境になぜだか急にモテるようになりました。その原因を探ってみたのですが、理由は「自分を捨てた」ことにある気がします。~中略~
自分を出せばモテると思っていたのですが、自分を殺したらモテたのです。私は、この変化になんだか自分でもの凄い驚きました。

質問していただいたことにより、わたしが思う女性のモテる秘訣は、ちょうど圭吾さんの仰る男のモテる理由と対になっていると気が付きました。
言葉にして書くと激しくなってしまうのですが、わたしは女性は自分を捨てるのではなく自分を拾い、自分を殺すのではなくて相手を殺すことが根本的なモテる秘訣だと思います。

もし女性が男性に対して、相手に合わせよう、頼らないで自力でやろう、甘えないでしっかりしよう、こちらが相手を支えよう、力になってあげよう、サポートしてあげよう、強くあろう、相手を受け止めてあげよう、幸せにしてあげよう・・・と考えていて、かつもしあまりモテなくて悩んでいるのだとしたら、それらはすべて男の仕事だと思ったほうがいいと思います。自分が男役をやっているので、男性が寄ってこないだけなのです。

そんなふうに男をナメてるからモテないのです。男性のことをもし、「女性が遠慮して自分に合わせてほしいし、女性に頼られたくないし、女性に甘えられたくないし、女性に支えてもらえないとダメだし、女性のほうが強くあってくれないと困っちゃうし、女性に俺を受け止めて俺を幸せにしてほしい」という生物だと思っているのなら、その女性はダメンズ製造機です。

わたしはそれをひっくり返してカーリーになってから男性とうまくいくようになったし、モテるようになりました。誤解を恐れずに極端に表現してみると、相手の男性に対して「あなたじゃなきゃダメなの」的だったのが、「他にもいい男は世界中に掃いて捨てるほどいるんだが」的になり、「あなたについていきます」風だったのが、「こちらについてこれなければどうぞどこかでお元気で」風になりました。

女がモテるための歌は『聖母たちのララバイ』じゃなくて、『GIRLS JUST WANT TO HAVE FUN』です。このシンディー・ローパーが最高に可愛いカーリーです。だから、女性は自分の楽しみを知らなくてはいけません。

そしてその楽しみのために、男性にも頼って甘えて支えてもらって、彼らヒーローたちに感謝して喜びを爆発させていい。楽しみを抑えて、男の影で耐え忍んでいる場合なんかじゃありません。人生は短い。女は咲いて、飛び跳ねて、遊ばなくちゃ。それを助けてくれた男に感謝してウットリして、カッコいい~~!!と黄色い声援を送って。そんな女は嫌だと言う男はママのところに帰っておっぱい吸っておむつを変えてもらえばいいと思います。
ワガママでズルくて図々しくて残酷で。それがいちばんの、女性のモテる秘訣です。

私たちは、大丈夫の海の中を泳いでいる魚みたいなものだと思います。サメに遭っても大丈夫、サメに食い殺されても大丈夫、なぜならば私たちは永遠に大丈夫だから、という聞く人が聞いたら「全然大丈夫じゃないじゃん!」と思っちゃいそうなところに、私は安寧を覚えます。うまく行くから大丈夫なんじゃなくて、うまく行かなくても大丈夫、それでダメになったとしても大丈夫という点において「大丈夫」と思っている節があります。

この感覚がまったく同じで驚きます。そう、わたしも世界は大丈夫でできていると思います。世界の成分は大丈夫でできていると思っています。
ここで、なに「が」大丈夫なのかと言われても、そこに主語はありません。
ほんとうのことを極めると、主語がなくなると思うんです。

たとえば、あなたは愛されているということについても、我々はついつい、なに「が」自分を愛してくれているのか?と考えてしまいますが、そこに主語はありません。ただ愛されている。愛する主体がないので究極の矛盾ですが、主語などないところが本当だと思います。

もちろんだからこそ、危ないと思ったときは逃げなくてはならないと思います。サメに食い殺されても究極的に大丈夫であり、と同時に、なにか危ないことからはスタコラサッサと逃げても大丈夫だと思います。

今の世界ではいろいろなことが大丈夫じゃないとされていて、世界は危険物扱いです。なのに我が国日本では「逃げるは恥」とされているものですから、これでは「危険なところで危険に立ち向かってこそ立派」と言われているようなものだと思います。これは恐ろしい軍隊思想です。わたしたちはいつまで魚雷にならなくてはならないのでしょうか。わたしは、「安全なところで安心して危険を扱ってこそ安楽」だと思います。

先日、往復書簡を見た方から「壇珠さんと坂爪圭吾さんは、人類愛がすごいですね!!」と言われました。この点に関して、壇珠さんはどう思いますか!?自分に人類愛があるのかどうかは謎ですが、人類に恋ならしている気がします。人類愛より人類恋。人類恋を今日も明日も明後日も患っています、俺です。恋する仲間、恋仲に壇珠さんとなれた今世の自分は幸せです。

こちらを読んで、「お、おう・・!!」と思いました。たしかにわたくしめは人類を超絶に可愛いと思っています。それを、恋とか愛情とかいうふうに表現すると、しっくりきます。

でも同時に、愛として考えてみると、なにもすごくはないのではないかなあ・・と思いました。愛ってある意味で全員が同じで全員が平均点で、だからこそ有るも無いもなくて完全に平等なのだと思うのですが、圭吾さんはどう思われますか?!愛、で考えるとそうなってしまうと思うんです。

愛というものの性質上、強いも弱いも本物も偽物もなくて、その強いのも、その弱いのも、その本物も、その偽物も、何もかもが愛でできていると思います。愛「してる」も愛「していない」もなく、主語すらありません。ただ愛は愛で、完全にこの世に満ちたものなので、言ってみれば人類愛も愛ですが、人類を愛していないという気持ちですらも愛でできていると思います。誰のことも愛していない人、ですら愛でできていると思います。愛の反対は無関心だと言いますが、無関心ですら愛でできていると思います。これはわたしの気分の良い解釈なのですが、人間のひとりひとりの原材料名を見ると、「愛100%」と書いてあるんです。鉛筆も、空気もです。

愛とは、それほどに何にでもなれて、それほどにジャッジがなく、それほどに自由なものだと思います。

だからとても変に見えるかも知れませんが、人類への恋心ですら愛でできていると思うんです。愛の反対語は存在せず、その愛=自由=神=大いなるサムシング的なものでこの宇宙は満ちているため、その愛でないものというのはこの宇宙の外ですが、宇宙の外は存在しないと思います。

だから、人類に恋していない人も、わざわざ愛を材料にして「別に人類に対してそこまでの思いは湧いてこないかも」という体験をさせてもらっているのだと思います。人類を愛せません!という感覚をつくるのも愛です。

誰かの、「ケッ、愛がなんだってんだ」という思いですら、その思いを起こすための神経伝達物質だとか脳細胞だとか脳内に走った電気だとかその人が落ち着いてそれを思うことのできる環境をつくるすべてだとか、その人のこれまでの経験だとか価値観だとかが揃うことで、それらすべてに支えられてやっと起こることですよね。その人のその体験というのは、宇宙に満ちている愛の成分がその環境をすべて揃えて実現させてくれているものだと思います。愛は、「ケッ、愛がなんだってんだ」という思いにすらジャッジが無いものだと思います。

そのなんだかわからないすげえものである「愛」でできている圭吾さんが今日も愛によって元気で居てくださり、愛でできた読者さんがお元気で、こうしてパソコンに化けてくれている愛を使って御返事ができて、そんな自分も愛だと思うとたまんねえ気持ちになります。愛ってやつはなんて無償なやつでしょう!!自分もそれでできていると思うと、わけもなく、涙が出てきます。あいやーーー!!

だからこそ何でもかんでも大丈夫で、大丈夫でないことすら大丈夫だと思います!安心して、「大丈夫じゃない」を味わいたいと思います!いつもこうした矛盾だらけの思いを書き連ねても受け止めてくださることにマジで感謝です!!受け止めてくれなくても大丈夫なのに、最後はカーリーとなって、もっとおかしなことを言っても受け止めてくれー!!と思いながら締めたいと思います!!その思いが、たとえ大地を壊してしまうものでも!!どうかいつも我のシヴァ神でいてください、返事を聞く前から勝手にお礼を言っておきます、ありがとうございます!!

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