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550/1096【往復書簡】泥に入らずんば蓮は咲かず

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で550日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

550日目。日本でもはやこの世の終わりのように恐れられているロックダウンに入ってしばらく経つイタリア。どこまでも白い曇り空の日曜日に、冷蔵庫のドアが外れた。この状況で冷蔵庫の故障である。

神はわたしたちを見捨てたのだろうかと一瞬思ったが、ほぼ同時に「問題ではない」と思った。こんなことは大したことではないのだ。ストレスになるだろう、不便になるだろう。でも生死の境をさまようわけではない。外ではバタバタと人が亡くなっているのだ。危機感レベルが高くて、冷蔵庫のあるなしのスケールに固執しているほうがストレスが溜まる。だからいいやと思ったら、夫がすんなりと直してくれた。

イタリアの感染者数は8万人を超えている。家の外に感染者がたくさんいる状況で、わたしはなによりとにかく、生き抜かなければならない。

だからブログを書かねばならない。喜怒哀楽を野放しにして、思いつくままに遊んで休んで楽しまなくてはならない。なんでって、それが壇珠さんの注文だからさ。わたしはこれを叶えないという自由を持っている。けれど、個人的に、叶える以外の選択肢は持ち合わせていない。

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上の圭吾さんの記事へのお返事です。
 
おはようございます!!日本はすでに朝ではなく、そしてこれを圭吾さんや読者さんが読んでくださるのは朝なのかどうかわかりませんが、おはようございます!!そしてこのおはようございます!!に全てが詰まっているのが、少なくとも圭吾さんにだけは通じていると勝手に思っています。俺たちが言いたいのはこれだぞと。こういうことだぞと。俺は朝の気分だ。だから世界の時間や反応はどうあれ「おはよう」と言う。「今日本は朝じゃないんで。おはようじゃないだろ。調べてから言えよ」などと言われても、気にもとめない。お前は朝かどうかを時計を見て判断するのだろうが、俺は俺の好きな時間を朝にする。そういうことだ。これを書いてなんの躊躇もなく送ることのできる圭吾さんがわたしにとって大変貴重な人です。

壇珠さんの文面から、静かなる「お死になさい」のエコーが聞こえてきます!!ありがとうございます!!死にます、俺、死にたいと思います!!死にたいと言う言葉には語弊がありますが「俺たち、死ぬぜ」ってことを肝に命じたいと思います!!

なぜわたしが記事を書きながら自然と「お死になさい」と感じ、その気分が非常に好きなため口元にほほえみをたたえながらそれとともに書いていたのがわかったのだろうと思い、坂爪圭吾霊能者説が頭に浮かびました。そのシックスセンスに脱帽です。わたしは毎日のように、異常なほどに「ある日あるとき、わたし自身が死ぬ」ということをどこまでもリアルに感じることをしています。わたしにはわたしというものがどこにも居ないと感じられていて、わたしの人生は「わたし」という壮大な勘違いを仕掛けとした、精密で、信じがたく許せないほどにシンプルな遊びなのだと感じられます。そう考えるとわたしという個は生まれてもいないし死にもしないのだろうかと思いますが、わたしはそれは放っておいて、この肉体が動かなくなり肉の塊になることを考えます。

さようなら、五感よ。さようなら、地球上でのこの肉体の反応の経験よ。そう思っています。なにもかもが物質でなくなる瞬間を想像します。あの、誰かの肌が、これ以上ないほどのリアリティをもってして「ここにある」と思えていた日々。花の香りが、人間の鎖骨が、音のもたらす脳と神経の反応が、水の冷たさが、これ以上にないほどのリアリティをもってして「現実だ」と感じられていた日々よ。そう、この瞬間よ!!なにもないところからは、そのあまりに強烈な経験は『奇跡』などという寝ぼけた安い言葉では表現することのできない、太陽を肉眼で見るときのような、自分の脳では「感覚」として再生し体験することの不可能なほど眩しい、宇宙の大きさの爆発の瞬間の連続だったと感じられます。ビッグバンは毎瞬起こっている。わたしの気のままに。宇宙サイズの娯楽、究極の贅沢です。

自分の中の死を思ったときに湧き上がるものを見ることと、人生を限りある最高の夢であると感じることは、わたしにとってまさにイコールです。生きるとは、命とは、人とは、圭吾さんとは、ここにあるちり紙の一枚とは、わたしにとってどれほど言葉を尽くしても表現することのできないものです。

死ぬことが怖いと言うよりも、死んでしまったら愛せなくなってしまう。顔を見ることができなくなってしまう。触われなくなってしまう。そのことを恐れているのだと思います。ならば、先に愛してしまえばいいのです。愛して、愛して、ベロベロに愛しまくってから、「あばよ」とこの星を離れればいいのです。

はい!!!はい!!!はいすぎて、この背中から宇宙に放たれる光をどうすればいいのかわかりません!!わたしたちは、ただ愛したい。愛したいのです!!!愛しているから、「これが愛か」と思い知りたいのだと思います。生きたいのは、愛し足りないからだと思います。人生には、愛するのが簡単なものから始まって、クリアするごとに愛するのが難しいものが順番に現れるものだと思います。順番通りに並んでいて、その最後に死があるのだと思います。愛して愛して、自分の何もかもを愛していくと、最後に死を愛せる時がある。言い換えたら、わたしたちは愛して愛して、しまいには自分とこの世に飽きてみたいのではないかと思います。この神の遊びに飽きてみたい。愛していないものがあるとき、それは「まだまだ死ねねえぞ」ということなのかもしれないと思います。うるせーよと思います。さっさとすべてを愛して、さっさと死と隣り合わせにさせろ。死に好きなだけヒヤヒヤして震えて、生きていることをアホみたいに面白がりたいんだよと思います。

愛すべきものが順番通りに現れるのは天で決められたルールなのかもしれませんが、その順番を蹴散らかして、ルール破りの「死を先に愛す」をやっちまえばいいと思います。オセロだって、角を取ればぜんぶがひっくり返る。死を先に愛せば、自分のあばたもえくぼに見える。人生の辛いことだって、死んだ気になりゃ味わう前からすでにいい思い出です。そういうのはダメだ、天で決められたことには従うしかないなどと言う人には、「そういうお前は午前中にだけ『おはよう』と言っていればいいさ」と思います。

年齢を重ねるごとに、人間のままであり続ける人間と、人間であることを諦めてゾンビになってしまう人間に、残酷なほどに分かれます。なぜか。私は、その原因を「自分が嫌だと思うものを、受け入れるかどうか」にあると思っています。ゾンビになっちゃう人々は、自分よりも他人の意見、しかも「自分が嫌だと思っている考え方」を受け入れてしまった結果、ゾンビになるのだと思います。

よく人は「子どもの頃は自由だった」と言いますが、わたしの感覚はそれとは逆で、子供のころ、まさにここで言うところのゾンビだったと思います。学校に行くしかなかったし、親の言うこと先生の言うこと世間の言うことを嫌なのに受け入れていました。そちらに合わせなくてはならないと、本気で思っていました。いい成績をとるべき、学校に行くべき、卒業するべき、就職するべき、家に居てはならない、自立しなくてはならない、親を大切に、先生を敬い謙虚に生きなくてはならない、それができないと人生が惨めになる、そう信じてゾンビのような目をしていました。高校を卒業してもまだそんな状態でした。徹底的に落ちて、部屋から出られませんでした。わたしはキレる若者だったしニートだったし片付けられない女だったしお風呂にも入れない廃人でした。今思うと、あの廃人期はどんなホメオパシー薬も敵わないほどの自然治療だったと思います。ゾンビ化するウイルスに感染すると「他者から評価されることへの渇望感」という症状が現れますが、その脱ゾンビのためのワクチンは、「優しい人」「いい人」「思いやりのある人」「よくできた人」「道徳的な人」「常識的な人」だと思われることを諦めて、最悪に残酷になることでした。わたしは当時、父が帰らず生活費の入らなくなった家に取り残されて、パートに出て身体を酷使してお酒に溺れ荒れていた母を置いて家を出ました。自分がそばにいることが、母の助けになるのだろうと信じ込んでいたのにも関わらず。自分の喜びを追うためなら、自分を腐った残酷な人にしました。世間からはみ出させて、愛だと思っていたものから斬り離してさらし首にするしかありませんでした。その罪悪感に耐え抜きました。それが、わたしたちのワクチンでした。結果、母は立ち直り、わたしは廃人を抜け出ました。そこからしか動かないものがあった。蓮の花は、泥からしか咲かないのだと思います。

尊師・・・壇珠さんを『尊師』と呼ばせてください。それがどうした。最強のおまじないです。私はなんでもすぐに死ぬことをあてはまてしまうので、練習がてら「死ぬ?それがどうした」と唱えてみました。威力は絶大でした。絶対に死守するべきだと思っていた自分の命さえ、なにかこう、投げ出してしまっても構わないものに思えました。いつの間にか、私たちは生きていることそのものを絶対的な最上の価値と考えるようになり、死ぬことを悪いことだと考えるようになりました。しかし、本当にそうなのでしょうか。

わたくしも、わたくしめも圭吾さんを尊師と呼びたく存じます!!我々は尊師~ズですね。いつか尊師~ズで、どんなに深刻な相談にも「それがどうした」と言うだけの場を作ってみたいです。「これをしちゃうとママ友から白い目で見られて仲間はずれになるんです」「それがどうした」。「会社が首になりそうです」「それがどうしたのかしら(クスッ)」です。そしてカッとなった参加者に刺されたりして、みんなに「こんなことで死なないで!」などと言われて、死の間際に死ぬのを本当に惜しいと思いながら言う言葉は、「それがどうした」ではなく「死にたくねえ!!」です。そうですよね尊師!!そこで「いや、他人にそれがどうしたと言っていたのなら、自分の死に際にもそれがどうしたって言えよ。じゃなきゃ筋が通らねえよ」というやつには、だからさっきから言っているが、お前は午前中だけに「おはよう」と言っていればいいんだよと思います。そうですよね、尊師・・・!!!

愛を感染させるために自分を使い、そのことによって自分が死ぬことになったとしても、私は「愛に生き、愛に死んだ。素晴らしい人生じゃないか」と思ってしまいます。つまらないヒロイズムなのかもしれませんが、どうせ生きるならば、自分が自分に酔える道を選びたいと思います。命も金も、使い方。自分が「これだ」と思った道に注がれたならば、大往生だと思います。

自分に酔える道を選ぶって最高です!!ヒロイズムというものは、つまらなくないと意味がないのだと思います。どんなに「これは人類に役立つことだ」と思えることだとしても、自分にとって「ま、自分の喜びなんですけどね。勝手なこだわりです。つまらぬ執着です。テヘペロ」というものがないと、自己犠牲になってしまうと思うからです。そうして自己犠牲のもとに行われることは、自己犠牲を美しいとするなにかを放ち、自己犠牲を呼ぶと思うからです。自分がこれだと思ったものに注いだのであれば、それがたったひとりの人を守ることであろうと、大満足な曲を作ることだろうと、世界的な功労だろうと、そこから放たれ、それによって呼び集めるものは喜びなのだろうと思います。わたしも自分に酔ってベロベロに泥酔したいです。

お金と言えば、壇珠さん!!壇珠さんは「お金じゃねえんだよ」って言う人を、どう思いますか??私は、こんなことを書くのも恐ろしい話ですが、いろいろなひとと話をするなかで「なんで無料でこいつの話を聞かなきゃならねえんだ」とか思っちゃうことがあります。10万円くらい貰わないと割に合わない、みたいな気持ちになることがあるのです。

わたしは「お金じゃねえんだよ」という人に実際に会って関わったことがありまして、とても嫌な思いをしました。わたしも未熟者なのでこんなことを書くのは恐ろしいのですが、その人のことを「卑屈な貧乏人」だと思いました。お金と仲の悪い人で、そのためいつもお金に困っているようでした。お金じゃない、という人はお金側の気持ちにもなってみやがれと思うんです。そりゃあお金側だって「お金じゃねえんだよ、もっと大事なものがある」みたいなことを言われたら、あっそ。と言って離れるものだと思います。わたしだって、もし誰かに「お前なんてどうでもいいんだよ。もっと大事なものある」と言われたら、んじゃ近寄んないわ。と思います。壁に耳あり障子に目ありといいますが、お金にも耳も目もあります。ほんまやねん!!

わたしはお金というのは鏡のようなものだと思っています。お金を醜いものだと思う人は、自分のことを醜いと思っていて、お金を汚いものだと思う人は自分のことを汚いものだと思っていて、お金を美しいと思う人は自分のことを美しいと思っているのだと思います。だから、お金じゃねえんだよと言う人は、自分のことを価値のないものだと言っているのだと思います。喜びからなにかを提供していてお金のことを忘れていたという人は、その最中にお金じゃねえんだよと言わないのだと思います。だって忘れているのだから。だから、お金じゃないと口に出して言う以上は、自分の喜びには価値がないと思っているのだと思うんです。お金は鏡なので、ただ単にその人のその心を映しただけなのではないかと思います。

真面目に語ってしまいましたが、お金というのは愛を表現するひとつの素晴らしい方法だと思うので、そう考えると仲良くして表現方法を増やすのは面白いことだと思います。面白いのが、壇珠調べによると『お金を積まれたらその男を好きになるか』というテーマで話したときに「それはない」ときっぱり言う女性ほど実際の生活が貧しく、「好きになるかも!」とあっけらかんと言う女性のほうがお金に恵まれている傾向にあるのです。つまり「自分の真心をお金のように汚いものだとは言いたくない」と考えるか「自分の真心をお金と同じだけキレイなものだと言える」と考えるかの差ですよね。その差は、お金をどう見ているかの差、なのだと思います。

お金を好きな自分を「良くない」と感じていると、それはお金側からすると「あいつを好きだなんてろくでもないな」と言われていると同じだと思います。わたしはそんなことを思っている人とは仲良くできません。だからお金が好きな自分はお金の価値のわかる、誇って良い自分だと考えると良いと思います。

こうして自分をどう思うかという話はあちこちで目にします。自分を好きになろうとか、自分を嫌うなとか。でも、わたしは自分に対して「好き・嫌い」を考えるなんておかしなことだと思います。圭吾さんはどう思いますか?!わたしは、好きになろうという押し付けさえも不要のものだと思うんです。自分というのは本質的に、好きだとか嫌いだとかいう次元で考える相手ではないのだと思います。わたしたちの好みと一致させようとかいう相手じゃねえぞわかってんのか!!って思うんです。てめえの命だろと。軽々しく扱うなと。「もっと好きになろう」じゃなくて、好きも嫌いもひっくるめてもう無償で愛してるだろと。なにが「好きになろう」だよ、なにが「嫌わないであげて」だよ、なに勘違いしてんだと思ってしまうんです。ひとつひとつ好きになることで愛せるのかなとか思ってんじゃねえぞと思うんです。

嫌いなまま、先に愛する。これまでもずっと愛していたのだから。嫌いなままでも関係ない。愛はそんなものには揺らがず、変わらないものでした!!と言って自分に懺悔すればいい。誰かに恋するとき、ひとつひとつ好きになる努力をしようとなどしないのと同じように。愛しているとき、相手の欠点までをも美しく見るように。ひとつひとつを好きになどならなくてもいい。好き嫌いの話じゃない。ぜんぶ蹴散らかして、先に愛せばいいと思います。

そこで、「自分を好きになるのが大事だとどこかで読んだし。好きじゃないところがあるから、まだ愛せないし」と言う人は、そうやってあれこれしてまで自分を愛したいのが、そもそもなぜなのか考えればいい。それでもわからなかったら、だったらそういう人はやっぱり、午前中にだけ「おはよう」と言っていばいいのだと思います!!そうですよね、尊師・・・・・!!

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