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766/1096【やる気・集中力】”今ここ”を見て甘やかせ!

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で766日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

766日目、英語のチャットを理解するのが不可欠なMMOゲームに興じているため、必然的に英語の勉強をする羽目になっている。英語を鍛えることが今後なにかにつながるのかどうかはわからないけれど、今はただただプレイに必要な勉強が楽しい。

不覚にも、ひたすらに英語のチャットやメッセージやお知らせを読み理解し続けなくては外される可能性があるチームに入ってしまっているため、猛然と翻訳を頭に叩き込んでいる。わたしは仕事量が多く、日によっては一日に14時間も仕事をしてしまうため、そのスキマ時間にたくさんの英語を読まねば追いつかない。もう必死。滑稽なほど必死だ。

だからきっと傍から見ればとても窮屈そうな大変そうな生活をしている。でも最近いくつかの「自由になること」に囚われて不自由になるというケースを目の当たりにして、「現実の波に乗る喜びの前には、自由の魅力すら無力と化す」と心から思った。わたしの個人的な趣味でしかないけれども、劣等感ですら、苦悩ですら、思う存分に使い倒せばいいだけのことだと思ったりする。

毎日投稿の窮屈さも半端じゃないのだが(笑)、やっぱり面白い。それも一種の囚われですよと言われたら、「たしかにその通りでがんス」と言いつつも、心のなかでは(わたしにゃそれも面白いんだなあ…)と思うだろう。

この世界では、なにかしらの限定や制限、つまりは不自由によってわたしたちが認識できる現象が起こっている。完全に自由になってしまうと、なーんもなくなってしまうから。わたしは、関わっている現象について、感覚的には「そこから自由になろう」というよりはそれを「乗りこなしてみたい」と思うとワクワクする。

”不自由をそのまま遊び道具にする自由”を、ゴールを伴う人間らしくて三次元らしい楽しみだと思う。みなさんはどう感じるかな…!

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わたしは一体何に恵まれているのやら、この毎日投稿の読者さまは、とてもとてもお優しい人ばかりだ。ひとつひとつのコメントやサポートへの返信ができていないのだけれど、胸に染み入るものばかりをいつもいただく。そしてそれがものすごく支えになっている。みな、かたじけない…!!恩に着るぜ!!

今日は、…というよりもいつものことだけれども、お礼の心を込めて、どんなことにも広~く適用できて、わたしのとても好きな考え方をシェアしてみようと思う。使って楽しめる人がいますように。

さて、それが何かと言うと、ズバリやる気を持ったり維持したりするためには「自分に甘く」、「簡単なことをやる」のが秘訣だということ。は。なんじゃそれ。と思うでしょう?嘘に決まってる!と。でもこれ、とても大切なことなのです。そして意外な盲点なのです!!

というのも、今日まで約2年ちょっとの間毎日書く間に、それからわたしの非常にズッコケ(古)かつちょっと悲惨なコント風の過去について記した自伝を(※取り扱い注意です。話し盛ってますよね?と思わざるを得ないうえ、泣き、笑い、などに見舞われてしまうため、電車内や職場などで読むのが危険な内容となっております。ご注意ください!)を読んでくださったお方から、何度も何度も訊かれてきたことが、

「あなたの集中力はどこから?」
「あなたのやる気はどこから?」

という、どこか聴き馴染みのあるフレーズに似たご質問だった。しかしこれまでそれに、とくに明確に答えたことがなかった。なぜかというと、質問の内容と自分の感覚にすれ違いを感じていたからだった。

これまでさまざまな人の「やる気が出ない問題」について、お話を聴いたりメッセージを読んだりしてきたのだけれど、多くの人が、好きなことをする、そもそもやる気の出ないことはやらずにやる気の出ることをやる、嫌なことはやめる、といった素晴らしきアドバイスを知ってはいるけれども、なかなか変わらないという事情をおもちだ。

最近になって自分を分析する機会に恵まれて考えてみたのだけれど、それは根底のところに大きな誤解があって、そのために起こっていたものだとわかった。

その誤解とは、

○集中した結果、周りが見えなくなる
○やる気があるから、困難なことに挑戦できる

これらの、当然のように思われていることが、根底からの誤解ではないかということ。当たり前のように存在していると思われている『集中力』『やる気』と呼ばれるもの。これらはほんとうに、わたしたちが考えるような性質のものなのだろうか。

まず、わたしは自分を振り返ってみるかぎり、集中というものを「して」いるのではない。そんなことは、「やった」覚えはない。それはあくまでも結果であることに気がついた。

ではなんの結果なのかと言うと、

欲しいゴールが思いつく→今できることを考える→見つける→その「今」できること以外のことへの気の分散が遮断される→「今」できることのみが残ってそれをやる→結果的に「集中している」と呼ばれる状態が起こる。わたしが集中するときというのは、こういうプロセスになっている。いわば遮断力、といえるものこそが=集中力だと思うけれど、このときに起こっているのは大げさに言えば「火事だ、逃げろ!」というときと同じ感覚。

そういうときに、逃げることに集中できないという人はまずいない。
火事だ!逃げろ!というときに、隣の家の芝生刈りの音がうるさいから、ちょっと寝不足だから、今はゲームをやりたいから、「逃げることにはあまり集中できないな~」とならないのと同じで、一時的に一それ以外のことを気にするのがほぼ不可能になる。

ひとつのことの重要度・優先順位が跳ね上がったときにそうなるのだけれども、火事だ!逃げろ!のときって、「さてそれじゃ、今から逃げることに集中するとしますか」と言って頑張る、努力をする、スイッチを自分で入れる、という過程が入っていない。

それから、火事だ!というときに、逃げる過程が好きか嫌いか、楽しいかどうか、自分の使命なのかどうか、儲かるのかどうか、褒められるのかどうか、などなどの事も考えない。もう、オートで他の情報は遮断されてしまっている。とにかくもう、「逃げろ!」それだけだ。

そういうときに「すごい集中力ですね!」と言われても、「いや”集中力”は要らんから!もうlそれどころじゃないんだよ!」と感じるのと似たような違和感があったのだった。そうなっちゃった、だけだからである。

きれいなお姉さんのセクシーな姿を見て、男子がちょっと股間付近の部位の体積の変化を感じたときに「うわ~すごい集中力ですね!」と言われても、いや、そういうわけでは、、と感じたときと似ている。のだと思う。

それから、やる気に関しても「困難なことに挑戦している」という意識はなくて、どちらかと言えば「簡単なこと」を積み重ねるのが重要なのだと気がついた。ゴールに向かうために、今すぐ自分に100%やれそうなことに着手する。それができたら次の簡単なことに着手する…これの繰り返しをするということ。その間ずっと、「ゴールに近づく絶対にできそうなことみーっけ!!」→「やったーできたー!」という喜びに身を置き続ける、という感覚にあるのだ。

例えば「廃工場を家に造り変えよう」というゴールを見つけたときで言うと、『家を造る』というゴールに向かって、とりあえず今すぐ確実にやれそうなことをミニゴールにして取り掛かった。

まず、とにかくまず、工場の要らないものを捨てる。まず目の前にある、「ゴミを捨てる」というミニゴール。これなら達成は確実であり、かつ目前にあるのである。よっしゃほんならいくぜー!!という…(笑)そしてその次は、ブロック積み。だが積み方がわからないから、まず試す。ただ、試す!ブロック積みを試しさえすればいい…!もう勝ちは目の前にある。”試す”でよければ、もう今すぐ100%確実にできるじゃないか!!と考えて、それをやる。

こうしてその場その場のタスクにおいて、確実に勝ちを収め続ける。誰に認められずとも、個人的に勝ちである。勝った自分は褒めるしかない。喜びだ。もはや快感だ。その次は、間取りを考えようとする。のだけれどもわからないから図面を引かなくてはいけない。けどそれもわからないから、CADの勉強。来た。これだ。これならばできそうだ。これがこのわしの、ネクストステップなのだ…ミニゴールは、勉強への着手、である。フッ、着手ならできますよ!!行きますよザーボンさん、ドドリアさん!!というね…?!

その場で確実にできることを探す力。個人的な設定で個人的に100点を取る力。「難しいことをする」のではなくて、その難しいことを簡単なステップに細切れに分解する力。

目の前の簡単なことだけをやる。
100点を取れそうなことしかしない。
勝ち戦しかしない、のである。

言わばこれは、『自分にとことん甘くする力』。「素人が自分の手で工場を家に改造する」という、一見途方も無いことをゴールに見ているってのに、「”まずは要らないものを捨てる”が、この時点での100点満点じゃね?」と考える、その能天気さ。

この先の膨大な仕事量について考えることをある程度遮断して、「今ここ」の、「今の目の前」の、「今の現実」にのみ気が向いていると言えるのだと思う。トータルで見た時の仕事量に対する「敵がデカすぎる…」という萎えを遮断しているのだ。

ちょっと悪く言い換えると、「短絡的」になるということ。

TOEICで800点取るというゴールを目の前にしたときに、わたしたちはつい、その膨大な努力を思って「いや無理ッス」と思ってしまいがちだ。

多くの人がここで、「達成するには自分に厳しくしなくてはならない」と考える。ここですでに、設定が「やる気を削ぐほう」に向かっているのである。厳しくて辛いのって、どうにもこうにも大変で、ウキウキせず、結果長続きもしない。

でもやる気が湧いて持続する人というのは、そこからどんどんどんどん自分に甘くするのである。極端に言うと、

「TOEIC800点いくぜ!そんじゃまずは、高校生レベルに到達するか…」これでもまだ厳しい。「そんじゃまず中学生レベルに到達するか!」ここで、まあまあ、かな?中学生レベルなら、よっしゃいけそうだ!と思える人もいるだろう。けれども、「そんじゃ今日ひとつの単語だけめちゃめちゃ使えるようになってみよう!」と考えてみよう。わたしは英語の勉強を始めるとき、この程度の感覚だった。甘い。ひたすら甘いのである。たったそれだけのことをやっても意味がなさそうに見えるだろうけれども、「お!!それならやれるわ!おっしゃあ~~これでガツンと一歩近づくわあ~!!」と思っちゃう能天気力。その場の一時の快感にだけ目が行っている。一種のおバカになっているのだ。

けれども、その場の一時の快感に目が行くことを次から次へと渡っていくと、やる気が持続するだけでなく、それが積もり積もれば人間はすごいところまで進むことができる。膨大な努力にため息を付きながら自分に厳しい気持ちで作業を強制し続ける人よりも、「作業を分解して確実にできそうなことをやる→必ず勝ち戦→やったぜ見たか!!」のおバカを続けられる人のほうが、結局はウサギとカメのカメになるのだと思う。

これらをまとめてみると、自分の集中力とやる気は、

「ゴール欲しい!手に入れられないなんて耐えられない!よし、なんかやるぞ、えーとえーと、あ!まずこれはできる!確実だッペ!見てろォ~」

という、大変子どもっぽくて自分に甘い感覚から沸き起こってくるもの。今ここにある可能性と喜びを見て、後先をある程度遮断した状態で、「ほらできた!」というミニ達成感を得たくてミニゴールに短絡的に向かっている。こうした状態によって起こっているものだと思う。

この、「ミニゴールごときで達成感を得ていい気になり、自分を褒めてしまう力」。これが肝のひとつとなっているとは言えないだろうか。ではこれがどこから来るのかと考えてみると、プライドの低さ、これだと見る。

あくまでわたしは、だけれども、ある程度は人から見てもすごいと言ってもらえそうなことができないと自分を褒められない、ということがない。はあ?!そんなことで?!というようなことで、ガッツポーズをしている。
「こんな大変なことに向かっているのに、これしかしていなくて、それで喜んでんの??」と言われたら、「フッ、いかにも!!」とふんぞり返る自信がある。すごいアホぢからが高いと言うかなんというか…

個人競技に出場しているような感覚で、始めから自分に金メダルを授与する気しかない。なんか、自分には根性というものがない。家を造ろうと思ったときに、左官材の混ぜ方を知ったりなんかした日にゃあ、その日俺様は完全な勝者である。勝利のファンファーレが聴こえてくる。勝利がなんの勝利かって、左官材を混ぜるという個人競技において、である。(バカw

ゴールに向かったとき、できるだけ面白そうで簡単なことばかりをやって、いちいち金メダルを取りながらその喜びを積んでいく。とにかく自分に甘~~~~~くて、その上根性がないのでそれしかできないのだ!!なっ?なっ?難しいことに立ち向かう強い心など無用であろう?!

むしろ集中力ややる気が起こらないという人は、自分に厳しすぎるのではなかろうか。そこでさらに厳しくしようとするから、なにかに手を付けることができなくなる。

はじめから、100点確実なことを見つけて100点を取るのだ。小さな快感を与え続けると、人はついつい嬉しくなって調子に乗っていく。その極単純なウキウキ、そのワクワクこそがやる気の正体である。

もう一つの利点は、100点と言ってもそれは低いプライドから来ているミニゴールだし、あくまでも個人競技であるからして、うまくいかなくても傷つかない。100%できそうな簡単なことを失敗しても、人って傷つかないものだ。極端に言えば、車のドアを開けそこなっても心は傷つかないでしょう?またすぐにその場でやり直す。でも、大きな目標に向かってやっていて失敗すると、ものすごく傷ついてしまうのだ。

こうして見てみると、やる気を持って進むということを、「強い意志」「しぶとい根性」「困難」と紐付けて考えることはナンセンスな気がする。
もっと軽やかで、気楽で楽しいことなのだと思う。

なにかに集中してやる気を維持したいというときには、

○「火事だ!逃げろ!」のコンディションに入ること
○「簡単なこと」に着手して勝手に勝って自分を甘やかし続けること

が大切だ。そう、難しくも辛くもない。
できる人は、だからやれているのである。

わたしたちが「今の自分にも出来そうなこと」を見ようというとき、今の状況、今の自分など、「今」を見る必要が出てくる。それをしてはじめて、今ここで自分ができそうなことをして喜びを生むことができるのだが、それは言い換えてみると、

「今ここ」から喜びを創造している、ということになる。

これがなによりも大切なことだと改めて思う。
遠くに見据える叶えたいことがあるのなら、今の自分を置いてけぼりにせず、今の自分にできそうなことをし、今の自分に達成感をプレゼントしよう。わたしたちは、未来も過去も、「今」のうちに持っているのだから。

というわけで今日は、やる気と集中力についての、わたしの好きな解釈のシェアでございました!

それではまた、明日ね!


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)