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【質問回答】他者への貢献って、自分のため?

イタリアにも梅雨が来るようになったのかと疑いたくなるような、雨雨ふれふれの毎日。私のいい人連れてこい~と鼻歌を歌いながらアイロンがけをして雨模様を満喫しております。(※八代亜紀/雨の慕情参照)

私はアイロンがけにハマってからというもの、乾いた洗濯物のシワというシワを憎むようになってバスタオルにまでアイロンをかけてしまうのですが、すると知らぬ間にアイロンがけの技術が磨かれていて、そのことに人間の不思議と生きる喜びを感じる今日このごろです。みなさまはいかがお過ごしでしょうか。本日もまた、質問回答です。

質問者さんはとても親切なお方ですね。その外国からの知人のお方も、きっと良い日本旅行ができたのではないでしょうか。同じ日本人として嬉しい気持ちになりました。

私もかつて、現在の夫がまだ知人という段階のころに、近々日本に来るから案内をお願いしたいと頼まれ、それならいっちょ頼まれてみようじゃないかと前向きに了承し、数日間にわたって体力の限界に達するほど奮闘したことがあります。

その奮闘の動機には、質問者さんと同じように、日本を楽しんでほしいという純粋な親切心がありました。それと同時に、自分も自分の良心に恥じぬように行動して、良い気分でありたいという我欲もありました。優しく親切な女性だという評価を求めて奮闘したというのもあったと思いますし、そんな自分に自分で価値を感じたいという欲求も、これまた否定できません。

その他にも、我が国大日本帝国を西洋人に馬鹿にされてたまるものか、日の丸極東の誉れ高き美点の本領を見せつけてやるのだという、歪んだ愛国心があったと思います。さらにそこにはほんのりと、日本人たるもの、外国からの黒船の来客にも最上の礼を尽くすべし。という、出所不明の武士心もあったと思います。あったと思いたいだけかも!笑

こんなふうに、私たちの行動の原動力というのは、一見するとひとつではなく、いくつもあるように見えますよね。私はそれが自然なのだと思います。これが自然なので、それそのままで良いのだと思います。

役に立ったら嬉しいというのは、人間の持つ自然な感覚です。それは裏返せば、役に立たないのは嬉しくないというのも、自然だということになりますよね。その感覚にフォーカスして「自分は足りない何かを見出そうとしているのではないか」と解釈することも、できるのだと思うんです。

他者の役に立ちたいと思う。それを常に完璧に叶え続けるのは難しい。だから、いつも自分にはなにかが足りない気がする。人には、そういうところが常にあるものだと思います。矛盾のない人間というのは、存在しないものですもんね。

質問者さまも、他者の役に立たなかったとしても、そのことで自分に完全にまったくなんの価値もないと、厳密には思えないものだと思います。逆に、他者の役に立ったからといって、自分は確実に価値のある存在だといい切れる気持ちになるかといえば、それもまた無理のあることですよね。

だから、私たち人間の他者への貢献の動機については、そんなふうにかっきりくっきりとは説明のできないことだと思うんです。

しかしせっかくご質問をくださったのですし、このテーマにむかってどんな思索ができるのか。今回は、それを考えてみましょう!

アメリカの作家であるマーク・トウェインは、『人の善意というのは、その人本人のためのものである』と言いました。

例えば私は、娘にいつも幸せであってほしいと思います。そのためなら母ちゃんは何でもするぜと思います。それから、たとえば道を渡ろうとする子猫がこのままだと車に轢かれそうだという場面に遭遇したならば、猛ダッシュで駆け寄りつつオランウータンのような狂気めいた叫び声をあげて車を止めようとすると思います。他にも、こんな私めですが、災害地や、尊敬する住職さんのいるお寺の改装のための募金などには、誰の目に触れるわけでもないところで密かに送金をしています。

これらは、本当に善意なのでしょうか。真の無償の愛なのでしょうか。
マーク・トウェインは「人間がすることはすべて、自分が良い気分になりたいからやっていることだ。だから私たちのするあらゆることは、自分のためにやっているに他ならない」と言ったのですね。私も自分について考えてみると、その通りだと思います。自分の行ういかなる奉仕も、どこまでいっても自分のためなのだと言えると思います。

けれども、偉大なマーク・トウェイン氏に異論を唱えるわけではないのですが、たとえば小さな檻の中に閉じ込められていた牛が、初めて自由な空間に出してもらった時の、強烈な歓喜の様子を見たりすると、私のような身勝手な者の目からも、なぜだか抑えられぬ涙が出てきます。全力で飛び跳ねて、藁に身体をこすりつけて、四肢を曲げては空に向かって飛び上がり、牛は天にも昇りそうな喜びを全身で表すのです。これに涙が出るのは、なぜなのでしょうか。

病気の人が助かったというドキュメンタリーにも、心からの安堵と、胸いっぱいの感動を覚えます。戦争で両親を失くした子どもの様子を見ても、ものすごく悔しくて悲しい。

自分は日頃、自分が並んでいるレジ前の列にズルして横入りされただけで、背後から該当人物に向かって軽く怨念を送ってしまうほど心が狭いというのに、では自分が感じる上記のような他の存在への無償の情は、どこからやってくるのでしょうか。

なにを行うも自分のため。でも、他の存在の幸を願う思いも湧いてくる。これは、どちらかだけが人間の本性だということではなく、人間には「自分を最も大切に思う感覚」と、「自分と他人との境界線のない感覚」という相反する感覚が、どちらも生まれつきに備わっているものなのですね。

これは、神さまと呼べばいいのか、あるいは宇宙と呼べばいいのか、とにかくこの自然界というものが、私たち人間に授けた特性です。それらを両方とも持って生まれてくるのが、人間の宿命だということができますよね。だからこそ、その備わった正反対の特性のうちのどちらを重んじて行動するのか。それが唯一、私たちが選べることなのではないでしょうか。

私は、質問者さまが、相手に尽くすということを選んで行動されたということが、すべてなのだと思いますよ。それを選び、実際に行動した。私はそれを美しくて素晴らしいことだと、心から思います。なかなか真似できることではないのですが、私もそんなふうに動ける人になりたい。奉仕の心の美しさに対する、憧れの心があります。

だから、たまに自分が他者に何かをして差し上げるチャンスがあるときには、弱い自分ができるだけ恩着せがましくならないように、「これは自分のためにやっているのだ」と考えようとします。そこには本当に相手を思う気持ちも混ざっているのでしょうけれども、そこに自ら着目すると、それは汚れてしまうから。だからここはマーク・トウェイン兄貴の思想をお借りして、「ま、相手を思いやることで、そんな自分のことをいいヤツだと感じたいだけさ」と、スカッと潔く割り切ろうとする、ということです。

それとは逆に、誰かに何かをしていただいた暁には、相手の動機が薄汚い邪(よこしま)な目的があろうとも、心からの思いやりであろうとも、していただいたことにはありがたみを見出したいと思っています。

「なにか別の目的のためにやったみたいだから、ありがたいと思う必要などない」だとか、反対に「思いやりでしてくださったのだから、あの人には一生頭が上がらない」などと、相手の動機によって過剰に値打ちを左右したりせず、いただいた恩恵にそのまま感謝できるようでありたいと思っています。

※もちろん、家まで送ってくれるのが実は詐欺が目的だとわかったりしたら、そりゃあそんときゃもう「あなた、戦う相手を間違えましたね?」とフリーザの声で言い、フルパワーデスボールを放って差し上げましょう

例えば、誰かが被災地へ寄付をした動機が、それを他者に伝えて自分をより良く見せるためだとしても、寄付をすることで自分の無価値感を拭うためだとしても、心から被災地の人を思ったからだとしても、

私がもしも寄付を施した側だったのであれば、これは自分のためにしたことだと考えたい。反対に、もしも受け取る側だったのであれば、寄付の動機がなんだろうとありがたいと考えたい。と思うんです。

質問者さまがもしも、自分の行動の動機について考えることがあれば、いろんな自分が同時にいるのだということを前提に、「相手に良い思いをしてほしい」「役に立てて嬉しい」「自分に価値がないと思いたくない」などの、どの動機も本当なのだと思ってみてはいかがでしょうか。

するときっと「どの動機が最も強かったのか」「どの動機が本当なのか」ということよりも、「自分がどう行動し、その経験をどう味わうのか」が大切なのだと感じられると思います。外国からの来客のために親切を尽くした。その経験を、質問者さまはどう味わいましたか。その味わいこそが、私たちの人生を紡いでいるのですもんね。

少し、ご質問の意図から離れたところについてお伝えしてしまいましたが、本質的なところをお答えできたらと考えて回答してみました。ご参考になりますように。

それでは、またね。

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)