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487/1096 わたしは、スピリット

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で487日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

487日目。487日目・・・・!わぁ~500日目まで2週間を切ったではないか!ふはははは、見るがいい、これを書き始めたばかりの頃の自分よ!お主は自分が「3日と持たないんじゃないか、1ヶ月なんて夢のようだ」と思っているのだろうが、500日目が近いのだぞ!!愚か者め、人はひっくり返るのだ、人間をなめんじゃねえぞ。

わたしは、たとえば1300日以上ブログを書いておられる方を知っている。きっと、もっともっとずっと長い間、何十年も毎日欠かさず日記を書くことを続けている人もたくさんいることだろう。

でも、わたしにとって500日が嬉しいのならばそれでいい。自分のスケールを忘れてはならない。自分が喜ぶのは、常に自分に自然と喜びが湧いてきた地点でありたい。他者のなにかを参考にして、頭で決めることではないと思う。きっと、1000日を超える頃には、500日でキャーキャーしていた自分が微笑ましく見えることだろう。

548日目で半分を折り返したら、どんな気分になるのだろう。ああ、楽しみだなあほんとにもう!

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今日は、マニアックな話にしてみよう。だから、精神世界やスピリットのことに興味のない人が読んでくださっても、超つまらない内容だと思う・・・今日は、「ゾーンに入る」「一瞥体験」などと呼ばれるものに近いことについて、その自覚がなかった頃の経験をシェアしてみようと思う!

(笑※明日は、男女のこととかエロスなことについて書いてみようと思っております。珍しく予告できる気分だと嬉しくなってしまうw)

わたしは何年間も外構工事の作業に従事していた。ほとんどの依頼が、一般家庭の家周りのリフォーム工事だ。庭造り、とも言える。庭造りをするなら庭師と言えればある意味でカッコいいのかも知れないけれど、わたしにはそんなふうに一人前の肩書きで呼んでいただくほどの実力はなかった。

直前まで夜のネオン街で高級クラブのホステスをしていたわたしは、ただの頼りなき、しかし鼻息だけは暴風雨のように荒い、エネルギーが若者男子の性欲レベルであり余っている見習い土木作業員だった。強すぎて、自分のことを原子力発電所かも知れないと思っていた。ガッツだけが売りだった。庭師ではなく石松と呼ばれるほうがふさわしかった。

外構工事の仕事は作業の内容が多岐にわたる。CADを使ったデザインや見積もりなどの作成、契約、現状の構造物や樹木などの廃棄、地面下の基礎づくり、コンクリートブロックやレンガを積む作業、左官作業、土間コン打ち、敷石作業、樹木の剪定、植裁作業、木材などを使ってウッドデッキやフェンスやパーゴラなどを作る大工作業、外水道のための水道工事、インターホンや外灯りのための電気工事、ピザ窯などの特殊構造物を作る作業・・・

挙げればキリがないが、作業はたいてい身体を酷使するひどく大変なもので、そのどれもがものすごく楽しかった。どんな作業をするのもOK牧場だった。石松なだけにな・・・!

灼熱の太陽に焼かれてマルコメ味噌よりも遥かに黒くなりながら、かじかんだ手がもう動かせなくなるほど冷たい真冬の水作業にさらされながら。わたしはいつもヤル気満々で、仕事に行くときはまるで、子供のころに裏の川周りに遊びに行くときの気分だった。これからでかいザリガニ捕るぜ!のときの気分だった。

ある時期には、相模湖から藤沢までバスや電車を乗りついでまで作業に行ったものだった。子供をあずけ、メイクをして普通のオシャレをして出かけ、作業前にどこかに隠れて着替えてニッカポッカ姿に変身して、そのまま現場に現れて作業にあたった。そうまでして、どうしても作業がしたかった。

作業車から、セメント袋や砂袋を運ぶ。セメントと砂と水を目分で混ぜる。できたモルタルを、三角ゴテで「うどん」と呼ばれる20センチほどの棒状に練ってすくい、ブロックの端に置く。その上から水を吸わせたブロックを重ねて水平器を置き、子供の肩を驚かさないようにトントンとするときのような力加減で叩いて水平にし、隣のブロックに移る・・・・・

うどんを作る。ブロックを重ねて、水平にする。うどん、ブロック、水平、うどん、ブロック、水平・・・こうした作業を幾日も、一日8時間以上も続けたりしていると、途中途中、面白いことがあった。

作業に慣れ、もうなにも考えなくてもできるようになり、それがただの川の流れのよう~~に~~なると、自分が誰なのか、名前は、住所は、性別は、今どこにいてなにをしているのか、今が何年何月何日の何時なのか、なにもかもが吹っ飛んで、なのにそれらを他人事のように全部知っていて、ただ何もかもが起こっている感覚になったのだ。

なんの境界線もなく、なのに境界線は存在していた。境界線がある、だからなにもかもが起こっている。でもなにもなかった。自分はそこにただ気がついている。自分が居た。居て、活動している。うどんを作る。置く。ブロックを置く。うどんを作る・・・わたしはただ淀みなく流れていた。なのになにも流れてなどいない。ずっと一瞬だった。驚きたときに、くしゃみをしたときに、一瞬時が止まったようになる。あれがただ続いていた。ずっと、一瞬。意思があり、それはないともいえた。その意志は誰のものでもなく、かつわたしのものだった。

わたしはそのとき、こうした感覚は、誰にでも起こりうることだと知ることができた。これが誰にでもあって、それがベースにあるから、これを忘れていることすらできるのだとも。今これを読むあなたも、それあってこそ読んでいる。ただ、それを認識していないだけで。

わたしが肉体労働をして良かったと思う点は、まずひとつは単に純粋に、馬鹿みたいに面白かったこと。それからもうひとつ、宝石よりもキラキラした思い出になったこと。五体を、五感を、あんなに愛する瞬間があるだろうか。指が、目が、足があって、使うのが嬉しかった。おもちゃや砂場を与えられたように嬉しかった。わたしはそれらを思いのままに駆使した。

ものづくりの喜びは、ひとことでは書き表すことができない。自分に、なにかのスイッチがカチリと入る瞬間に何度も出会うことができる。ああ!これだ!ハッ!ここだ!と、なにかがピタリときて全身に合点がいく瞬間をたくさん経験できる。

そしてもうひとつは上記の、何もかもが吹っ飛んだ感覚だ。

家の修復でも、料理でも、手芸でも、掃除でも、話すこと、書くこと、遊ぶことでも、人はなにを通してでも、あのゾーンに入ることができる。呼び水は「動く」こと。鍵は「夢中になる」ことだ。これは一度経験するとどこでもそうなれることがわかる。ちっとも、特別なものではない。万人が持っているものだ。万人が・・・!

頭で考える。その通りやろうと思う。できやしない。何度も何度もやろうとする。何度も何度も失敗する。繰り返すといずれ、慣れる。

慣れて、慣れて、慣れて、慣れて、それは一連の流れとなり、もう頭を必要としなくなり、流れですらもなくなる。流れが極まってくると、ぜんぶが瞬間になる。

身体に慣れのためにできた轍が現れ、それをなぞることを神経が覚える。その流れに身を任せて、ただただ、ただただただただ同じように動く。すると、予期せず、フッと起こることがあるのだ。

身体がわたしのことを、身体を放り出した状態にしてくれる。
わたしと現実を、身体がつないでいてくれていた。

わたしは不思議な存在だった。どう書けばよいのだろう。どこにもフォーカスがなかった。全体にフォーカスしていて、だからどこかにフォーカスしていると言うことのできない状態。面白い体験だ。

編み物をしていても、縫い物をしていても、そういえばそうだった。わたしは自分の手が動いていることにずっと気がついていたのだった。
そう、取っ組み合いの喧嘩をしているときにも、思いっきり笑っているときにも、模様替えをしているときにも、誰の目も、自分の目さえも気にせず、おもいっっっっきり心をあずけて音楽に聴き入っているときにも!

この経験をしたくば、お金のためでも、世間体のためでも、他のいかなることのためでもなく、この経験をするためですらなく、ただノッていること。自分のリズムにノッていくこと。ノリすぎて静か極まるときがある。目が、手が、身体が、意思が、動いているのを眺めるとき。
自分の意志を、自分で眺めるときが。

なにをすればいいかというと、いちばんは夢中になっちゃうことをすること。それだと、「無心にやる」までの摩擦がなくて早い。

でも、もしそれがなかったら、身近にあって、できそうなことならなんでもいいのだ。ただただそれを一生懸命やればいい。もうやらなくていいじゃないかと思うほどやる。そういう思考の邪魔を焼き切るほどやる。そうすると、もう自分の抵抗すらも使い果たしてなくなってしまい、思考の邪魔も抵抗も、自分から離れて、ただのできごとになる。そこがポイントだ!

動かしているのも自分(意思)、動いているのも自分(肉体)、眺めているのも自分(気づき)というとき、わたしは誰で、どこにいるのだろう。

未熟なわたしには、全体だった、全体が起こっていた、でもわたしはあった、ああ、万物よ!!と思った、としか言いようがない・・・

ただ、とても良い体験だった。人間というものが、こんなふうだとは思わなかった。生まれて、良かったと思う。だって、つまりは、なにもかもどうでも良いのだもの。言い換えると、どんな状態でも、どうだとしても、大丈夫で、静かで、なにも起こっていなくて、でもそれは起きていて、それで良いも悪いもないものだから。それがその姿、その表現だ。わたしは、ああ、そうなのか!!という以外に、なんと言えばよいのかがわからなかった。

どんな作業も、人が夢中になれるなら崇高だ。なにかに夢中になるのって、いいね!!!

そして、これを書いてなにが伝えてみたかったのかと言うと、誰かもし、自分をつまらない存在だと思う人がいるとしたら、それは間違いであるということ。正しいも間違いもないのだけど、でもあえて、ちゃうねんちゃうねん、わかった気になったら間違いやねん!という執着を、力強く伝えたい。

わたしたちは、自分たちが考えているような存在ではないということ。あなたもだぞ!!!!あなたはなかなか摩訶不思議で、素晴らしく強くて、自由で、美しくて、この広大な宇宙の必然のできごとだ。あなたがいてこその宇宙だと伝えたい。

どんなふうに生きても、どんなふうに死んでもいいと思う。でも、自分をナメちゃいけないと思うのだ。どうかすげーあなたを、ナメんのだけはやめやがれください。自分のことを好きじゃなくても、社会的にどうだと思えても、自分のことを「あなたって、すごいシステムなんだってね~!」と思ってみてもいいと思う。そうしてたまには、なにかに夢中になって、身体に自分を任せてみよう!

というわけで今日は、自分の体験とそこから湧いた思いのシェアでございました。こんな変記事をここまで読んでくださり、ほんとうにありがとうねーーーーーーーーーっ!
それではまた、明日ね!

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