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【質問回答】無気力で、やる気が起こらない。どうすればいい?

質問箱へいただくご質問がたくさん溜まってしまう前に、どんどんお答えしていきたい!と思いますので、ここでガンガン進めなくてはなりませぬ。

質問箱なので質問を募集してはいるのですが、私のところに届くのは、壇珠さんの好きな食べ物はなんですか。みたいな質問らしい質問ではなく、お悩み相談がほとんどです。でもまぁ、いいよね。わてらはか弱い地球人だもの、助け合っていきやしょう。

というわけで、本日はこちらのお悩みにお答えしますよ。

ああ、本当に、心を込めて伝えたい。無気力感や虚無感って、襲われると辛いものですよね。そして、自分で抜けていくのが難しいものですね。なにしろ無気力が勝ってしまうと、これを抜けるためになにかに取り組むこと自体に、やる気が起こらないものですもんね。

質問者様はご自分でいろいろと試したりしておられるのですが、自分ひとりでここからの脱却の糸口を掴むのは、至難の業だと思います。だから質問者様だけでなく、同じような状態に陥ったときには誰しも、八方塞がりになったように感じるものです。だからまず、そこに安心してほしいと思います。あなたはおかしくなんかない。むしろ『地球人あるある』なのです。

さて、エゴから完全に離れるのを目指してしまうということですが、このエゴから離れるというのは、文字通り離れることであって、自我を「なくす」ということではないのですね。だから、それを完全に消滅させることを目指さなくて良いと思いますよ。

それから、それをしないと今度は過去のトラウマに囚われてしまう、ということですが、これも、”エゴから離れることをやめたから”起きているわけではないのです。質問者様のこのあたりがちょっと、混線してしまっているようにお見受けします。

私は精神的な疾患の治療やカウンセリングなど、メンタルのケアに関することを専門的に扱うための資格を持っているわけではないので、あくまでも私の個人的な意見をお伝えしますね。

私は、このご相談における質問者様の苦悩の根源は、その「無気力感」のみではないかと思います。そしてその原因として過去のトラウマを挙げておられるのですが、それはわかりやすく理由として考えられやすいものだというだけで、それが無気力の原因ではないと思うのです。

私はこの無気力感そのもののの原因は、質問者様の持つ”完璧主義”にあるのではないかと思います。

いただいた質問の文面しか情報がないのでなんとも言い切りにくいことではありますが、

「自我から完全に離れること、私という幻想から自由になることをゴールにしてしまう」
「どうせ行動してもすべて意味なんてない、という虚無な気持ちになる」

というのは、あなたの中に

『完全に自我がなくなるまで納得できない』
『何かをするなら有意義で意味のある結果を出さなくてはならない』

という厳しい基準があるからです。

あなたは、自身のこの厳しさに付き合うことに、気力のすべてを消費してしまっているのです。だから、もうどんなことへもやる気が起こらないのです。自分ではそんなつもりはなくても、完璧主義を持っている人は往々にして、無気力感が抜けない、虚無感が消えない、ということになってから、誰かに指摘していただいてようやく、その完璧主義に気がつくことが多いようです。

この場合、ものごとを「まぁいっか」と考えられるようになると自然と抜けていけるのです。「そこそこでいいのよ~」「まぁテキトーでOKっしょ」「失敗しても無問題」と考えられるようになると、いつでも気楽に物事に取り組めるようになり、そしてそこから生まれる変化や過程そのものを楽しむことができるようになり、そのためやる気も徐々に回復してくるのですね。

けれどもとても皮肉なことに、完璧主義の人がそれをしようとして、「じゃあもっとリラックスしよう」「もっと自分を緩めよう」「完璧じゃなくても自分を許そう」と考えると、今度はそれ自体を完璧にやろうとしてしまうのです。

ちゃんとリラックスできていない気がする!完璧に自分を緩められていない気がする!自覚できる結果が出ていない!自分はこれをやっても人生に良いものをもたらしていない!と厳しく評価してしまいます。

このように、完璧主義を抜けるための何かに取り組んでも、その取り組み自体に完璧を求めてしまって、余計に疲れてしまうということが起こるのです。すると、ますます無気力になってしまいます。

私自身が、無気力で燃え尽きたような感覚に襲われることがよくあったため、このあたりの感覚が自分の体験を通して、よくわかります。

私のできるアドバイスは、2つあります。
まず1つ目は、今日の自分はまあまあの気分かな。などと思ってみること。自分のことを「まあまあ」「そこそこ」「60点」というように、自分のことをいつも100点ではないと考えてみること。

完璧主義の人は、完璧じゃない!ちゃんとしてない!じゃあもう0点!という厳しい考え方をする強いクセがついているので、その100点と0点との間に目を向けることを癖づけるのです。

たとえば天気のせいにして、今日は曇りだから、自分の気分もまあまあかな。というように、自分自身の実力や環境などには関係ないことを引き合いにするとよいですよ。

それともうひとつは、あえて最初から、60%くらいの力でしか取り組まないと決めて、そのためだけに何かをしてみること。

例えば、お花の写真を撮ることにして、やればまだまだやり続けられるんだけれど、とりあえず60%くらいの力でやるってことなのだし、このへんで止めよう。と決めて、ちゃんとやめる。

そして家に帰って、そのお花の写真を見てみてください。60%の力でやっても、お花の写真が撮れていることを確認してみるのです。60%の力でやっても、お花を探すときのちょっとした集中や、少し運動になったことなど、その過程における体験があるはず。それを思い返してみてください。なんとなく思い返すだけで良いのです。

お花の写真でなくても、なにか他のことで良いのですが、できればあまり収入や勉強などの、結果を求める気持ちが強まらないものにすると良いと思います。これによって、「まあまあの力でやって、そこにも体験が生まれ、それを味わうことができる」ということに、慣れるのです。

ちなみにですが、私は自然とそれを、家事を通してやっていました。
以前の私にとって、家事はこの世の一大事ってな感覚で、ちゃんとやらなくてはならないという思いが強かったのです。当時の私は、そう思っているくせに、家事に何日もまったく手がつけられないことがよくありました。やり出すと無我夢中でやるのに、一旦無気力になるとパタッとできなくなってしまうのです。

私はその無気力感がほとほと嫌になり、とりあえずはまったく手が付けられない日の心的ダメージを回避するために、ちょっとだけやるという手段に切り替えたことがあります。

とにかくキッチリやりすぎるのをやめたのです。主に掃除を途中でやめて、それを次の日にまた続きからやるという方式に変えました。毎回毎回、まだまだやれるけど、まあ今日はこの辺にしておこう。と考えて止めるようにしたのです。

するとまず、一日のうちに気楽にやれる分だけ進めて、それを続けるだけでその分前に進んでいくということが、楽しく思えるようになってきました。これが初めて気がついた変化です。

すると、やる気が起こらなくて手が付けられないという日が、だんだんなくなっていきました。決定的な違いとして自分でも驚いたことがあって、自分のことを「無気力に負けて家事ができない駄目な人だ」と思っていた頃は、自分は掃除や皿洗いを嫌いなのだと思っていたのですが、それがいつの間にか、掃除や皿洗いが嫌いではなくなっている自分がいたのです。取り掛かるのにもいちいち重い腰を上げるような必要がなくて、まあフツーにやれるし、やっていても気分がいい、という感覚になりました。

ブログの執筆もそうで、ちょっと書いて、夕食の時間が近づいたらスッと止める。ゲームも同じように、今日はちょっと進められたし、ここまでにしておこうと決めて、自分で自分の決定に従う。そのように、様々なことをそこそこのところで一旦OKとして、それを認めて、行動するようになりました。

どんなことも、やろうと思えばもっとやれるし、なりふり構わずに結果を出そうとしたら、それこそ飲まず食わずでやることもできます。でも、私たちは有限の存在だから、そのあと必ずバランスを取って、その時の激しい消耗を癒そうとします。その間、見事に無気力になってしまうのです。ですから、自覚がなくとも私たちがなにかに継続的に消耗しすぎていると、無気力が続いてしまうのです。これが私たちの防衛本能に由来することだとも言えますね。

あなたの無気力感、虚無感の長期間の継続も、無意識にご自分に厳しい目を向け続けていることがひとつの原因となっていると思います。意味のあることをするべき、結果が出ないならやっても無駄である、というように。

ですので、これをだんだんとゆるめて、いい加減に、楽しみこそを目的に、もうちょいとちゃらんぽらんに、ふわっとした感覚で生活できるようにしてみるのが一番だと思いますよ。

するときっと、もっともっと、ウエハースのように軽~く、マシュマロのように柔らかく、まぁテキトーにやってみるっしょ、ちょっとずついけばいいや~ってな感覚で、何かに取りかかれるようになります。一歩でも進んだら、それも確実に進歩です。

富士山に登るとしたって、1メートルでも登ったら、富士山登頂まで1メートル分進んでいるのです。結果を出すための頂上だけを目指したら、山登りの過程は厳しいものとなるでしょう。登ったあと、しばらくはやる気も起こらないどころか、立ち上がるのも嫌になるはずです。

けれども、毎日1メートルしか進んじゃ駄目と決めて登ろうとしてみると、きっと私たちは、もっと登れるのに!パワー余ってるよ!あとちょっとくらい登らせてよ~!と思うことでしょう。これこそが、やる気の源のようなものです。だから、ちょっとだけ何かをしてスパッとやめるというのは、この感覚を思い出す効果があるのですね。

それから、もっと、無駄なこと、変なこと、しよう!笑
それらをする経験を、気楽に、欲張らずに、娯楽として味わいましょう。結果としてあなたが何かを味わえたのなら、それこそが人生の収穫です。そこに意味はなくていいのですよ。その経験による味わいこそが人生の彩りなのですから。ついでにそれは、死に際の走馬灯の材料、あなたならではの冥土の土産、あの世で思い返せる楽しみのひとつですもんね。

気負わずに、毎日の自分のそこそこ度合いを確認しながら、小さな体験の中にある味わいを見つけながら、いつの間にか抜けていけるといいですね。
実験的にやってみてね、応援しています。

それでは、またね。

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