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697/1096【往復書簡】女神を微笑ませたくば「人間」であれ

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で697日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

697日目、少し前からどうも「おかしいぞ」と感じることがあって、それは時間を置いて落ち着いて感じてみても今のところ変わらず、自分が好かないことだと判明した。それに対して、いい感じのマグマを感じる。あとで、ベストタイミングでスッと動こう!

最近自分に起こる出来事は、人間関係における断捨離を黒帯級にしていくためのことばかりで、これに楽しんで取り掛かろうと思うとその「おかしいぞ」が面白い。そうしたセンサーが働いているのを嬉し面白ろありがたし、と思う。こういうことに、正解はどこにもない。センサーが正しいのか、それを基準に動くのが正しいのか、どう決断すればいいのか。

人は正解を探してさまよう。さまようことで苦しむ。苦しむことで、正解のないことを恨む。でも最初のステップがなんか変なのだ。最初から正解がないのだと思えればいい。ただわたしたちの心が嫌なことから離れ、喜ぶ方に進むしか、嫌な思いを減らし嬉しい気持ちになる手段なんてない。

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上の圭吾さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!最近ブログに思ったことをそのまま垂れ流すように書いて、サクッといい気分で公開して、あとから「あれ?!まずくないか大丈夫か」と思って見直してみるのですが、意外にもほんとうにまずいということがよくあります。しかしもうもはや自分のことは、人類の一員、この世界の歯車のひとつ、自分の開放感は宇宙の開放感という感覚になってしまいやすく、それを削除も修正もしません。喩えるなら「ここアタシの私有地だから」と言って扉さえ開ければ見える場所でヌードで寝転がって日焼けをしたり踊ったりしているのと変わらない気分です。

勝手に自爆をして「俺は人間が大嫌いだ」となりかけていたのですが、壇珠さんのお返事を読んで世界は薔薇色、人間も薔薇色、大嫌いだなんて思っちゃってごめんね♡大好きだよ♡これからもよろしくね♡と、仲直りしました!!あっぶねー!!またしても極端な結論を出すところでした!!笑えるって最高ですね!!壇珠さんのお返事を読む度、爆笑しています!!

笑ってくださり本当に嬉しゅうございます!!わたしたちってついつい、真面目になってしまいがちですよね。とくに圭吾さんとわたしは、遊ぶこと・不真面目でいること・生きること・自分に心地よくあることに真面目になりがちだと思います。この矛盾ってほんとうに面白くて、「じゃあいいや!!遊び心を忘れて、生きることにあくせくしちゃうのもいいやね!!それも遊びやね!!」と思えたときこそが、どちらにも向かって身軽で気軽なときだと思います。そういう風に考えると、わたしの知る限りではそのような人はほんとうに少ないです。このブログも、別に役に立たなくても真面目でも真面目じゃなくても、笑えればいちばんだなと思って書いていたいです。

ちなみにわたしを最も笑わせてくれるのは自分自身で、自分の考えることで茶を吹くことが多く、日頃から妹や娘とのやりとりで爆笑することが多いです。くしゃみをするとき、人間って一瞬死んでいるらしいのですが、笑うときは毎度、その人の枠が破られ、好奇心の扉が開き、がん細胞が死ぬのだそうですね。こんなにすごい天然薬があるのでしょうか。圭吾さんにも往復書簡を通して何度も爆笑をもらっています。ありがとうございます!!

笑えると言えば、壇珠さんは「エイブラハムの感情のスケール」というものをご存知ですか??私は最近知ったのですが、それによると感情には22の段階があるのだそうです。感情ランキング1位が「自由」「愛」「感謝」で、波動が高い。最下位は「恐れ」「憂鬱」「無気力」で、波動が低い。だから波動が高い感情を抱きましょうね的な紹介をしている男性を見たのですが、私はこれを見た瞬間に「は?」と思いました。なんと言えばいいのでしょうか、私は巷にあふれるポジティブシンキングが苦手で「大嘘じゃん!」とか「無理してるだけじゃん!」とか「俺にはお前が幸せそうに見えない」って思っちゃうのですが、あの瞬間と同じ気持ちになりました。もっと正直に言えば「お前絶対モテないだろ」と思いました。嘘ポジティブの人々は、心にどす黒いものを抱えているように見えて、それを隠しているから怖いです。どす黒いものを抱えていること自体は全然問題ないのですが、それを「ないことにしている」から怖いのです。怖いと言うか、腐敗臭を感じるのです。

『エイブラハムの感情のスケール』、存じ上げませんでした!教えてくださりありがとうございます。わたしはそこでランキング一位となっている「自由」「愛」「感謝」について、波動が高いとか低いとか、波動が高いから自分に役立つとか、そのほうがいいとか悪いとかいうあれこれうんぬんの前に、「自分が好きな感覚だ」と思いました。あの気持ち、あの体感。それでいっぱいのときって、寂れた工場の錆びたフェンスからの光の反射ですら最高に美しい天国の光に見えて、「この世界に生まれてよかった」と思うきっかけになっちゃったりしますよね。わたしの中に感じられるそれらが、他の人にとってどうなのかを実体感としては知り得ませんが、わたしはとにかくそれらを感じるのが心地よくて好きです。

ただ圭吾さんの仰るように、それらをもしどす黒いものをないことにするために感じるべきだとするのは、おかしいと思います。

わたしは根本的に、われわれことを大してどす黒くなどないと思っています。よく「わたしはすごい腹黒いんです」と言う人がいますが、わたしはそれをまったく信じていません。ワルぶりつつ、それを明かした勇敢な正直者を装っていますが、多分惨めなだけじゃないかなと思うんです。

そういう人は結局誰かのマネかなにかで思い切った自己開示をしたことで「すごいことをしてのけた」みたいに思いたいだけなんだろうなと思っちまうわたしです。結局その腹黒さの中身自体が、「嘘をついている」「印象操作をしている」「いい人に見せる小細工をしている」程度のことなので、それってそんなに腹黒いかな?と思っちゃうんです。

それを腹黒いなどと呼んで「ちょっと悪い女」みたいなポーズ決めなくてもいいから、どうせなら「正直になる勇気がないだけで寂しいだけでした」「人によく思われたいだけでした」みたいな惨めな本音をさらせばいいのにと思います。なんというか、わたしたちの多くが世間知らずなのだなあと。

世の中にはほんとうに残酷冷徹な状態でいる人が実在しますよね。人を騙したり死に追いやったり殺したりするのを生業としていて、相手が幼児だろうとなんだろうと気にならず、常日頃からそれで「今日もいい仕事をしたなあ」と言って美味しいお酒が飲める人が世界にはいるのです。そこまでいければ、さすがに「ワル」だなあと思いますが、あとは大したことないと思うんです。

ほとんどすべての人がエゴの部分を持ち合わせていて、それで完璧・完全体・健全な人間だと思います。なので、それを消そうとしたり変えようとしたり、そこに悩んで「見て!!腹黒いです!!」とかいう大道芸を繰り広げて見せたりしなくていいと思うんです。いや、普通じゃん。と思います。

そんなわたしたちは、放っておけばつい、悲しみに、身勝手に、不安に、心配に、嫌いに、孤独に、イライラに、恨みに、疑いに、怒りに、傾きますよね。人のせいにしたり、癇癪を起こしたり、何かに怒ったりするのは、幼児でもできます。何もしなければすぐにそうなっちゃうんですから、いちばん簡単なのがネガティブでいることです。精神的な病気のケースを除けば、ネガティブでいることを、「こんなに辛い思いをしているんだ」と主張しても仕方がないといいますか、言葉がひどいのですが「いちばん楽してんじゃん」と思います。

わたしは「自由」や「愛」や「感謝」は、他の感情と並べたり比べたりする類のものではないと思います。なぜなら、それらは「意志」だからです。
放っておくと水が低い方に流れるようにすぐにネガティブになるわたしたちを、いい気分にさせるのは自分の「意志」だと思います。自由や愛や感謝は、感情ではなくて状態だという人がいますが、わたしはわたしたちが「やること」だと思っています。やらなきゃ、起こらない。吸わなきゃ、重力に反して頭を使わなきゃ、引っ張ってこなきゃ、水は上には上がらない。「自由」や「愛」や「感謝」は大脳新皮質を使わなきゃ感じられない。人間にしかない脳を使わないとやってこない。それらは、人間が人間であろうとしたときにしか微笑まない女神です。

だから、感謝が自然に起こるのを待っている人、自由が勝手に訪れるのを待っている人、愛が勝手に起こるのを待っている人、つまり「自分で考えず自分で判断せず自分で決めずにそれらが訪れた人」を見たことがありません。「求めた人に、さらばと与えられたケース」しか見たことがありません。

そしてその「意志」は、恐れているときだって悲しんでいるときだって働かせることができる。わたしがなにかを恐ろしいと思うとき、いちばん簡単なのは恐ろしがっていることです。なにもしなければそれしか起こりません。でも、「これを超えたらどうなるのかを見てみようぜ!!」と意志を使いさえ、自分からそれを良く見ようとさえすれば、「来たか、次なるチャンスが…!」などと思え、それに燃え面白みを感じ、感謝すら湧いてきます。

だから、その『エイブラハムの感情のスケール』なるものは、「その感情を起こすのに必要な意志の強さランキング」だと言ったほうがいい気がしました。最も強い意思を必要とするのが「自由」や「感謝」や「愛」で、ほとんど意思を使わずにサボっていても自動で起きるのが「恐れ」「憂鬱」「無気力」です。

「恐れ」は爬虫類でも持っています。起こすのは非常に簡単です。だから、恐れを超えて心が愛や自由に至った話は「爬虫類脳の反応を神の意志に変えたぜ」という素晴らしいものですが、怖れのみの体験について武勇伝を語る人は「俺爬虫類と同じレベルのことできるんスよ」と言っているのと同じです。ちなみにわたしがよくやっていたことです。くそー!

嘘ポジティブの人々は「恐れではなく、愛を選びましょう」みたいなことを言います。しかし、私は感情にランキングなんてないと思いました。やや、実際にランキングがあっても一向に構わないのですが、どうしてもドヤ顔傾向にあるキモ男に一発かましたくなったのです。そして「こいつをどう調理してやろうか」とひとり頭の中で2秒くらい考えたあとに「笑いだ」と思いました。どれだけ波動が低いとされている感情であっても「その感情を笑えたら、全部エネルギーになるじゃないか」と思ったのです。

わたしも心からそう思います。笑えたらいい。笑えたら楽しいんです。たとえ二度と覆せないと思える悲しい感情だって、泣いて、泣いて、壊して、投げて、叫んで蹴っ飛ばして、自分も怪我したりなんかしながら肺が破裂しそうなほど泣いて、泣きすぎて気管と頭に激痛が走ってくると、なんだかバッカみてえに思えてきて、泣き笑いになってしまったりします。

それを悲しいことだったとする記憶は変わらなくても、一度笑ってしまったことを、わたしたちは二度と以前とおなじようには感じるとができなくなる。だから、どんな手段をつかってでも、最後にそれを笑えさえしたら助かることって、いっぱいいっぱいあります。

冒頭から口が悪くて申し訳ないのですが、ポジティブ信者の方々が語る愛を耳にするたびに「ちっちぇえ。ちっちぇえ。お前らが言っている愛なんて全然ちっちぇえ。」と思います。俺たちは、自由や愛や感謝だけではなく、恐れや憂鬱や無気力からも笑いを作り出せる存在だと思います。私は、ここに「永遠に奪われることのない自由」みたいなものを感じます。どのような環境に置かれたとしても、泣く道を選ぶか、笑う道を選ぶか、それを決める自由が我々にはある。恐れのど真ん中にいても、憂鬱のど真ん中にいても、無気力のど真ん中にいても、それがそのまま「自由ではない」とはならない。「愛がない」とはならない。いつだって、私たちは自由のど真ん中にいるのだと思います。いつだって、私たちは愛のど真ん中にいるのだと思います。

名文。名文が爆誕しています。選ぶのはわたしたちですよね!!愛を「ひとにやさしいきもちになること」みたいなテキトーで盲目的で従順な解釈しか持っていない人って多いと思いますが、愛って万物のことだと思います。恐れているから愛を持てない、つまんないから、やる気ないから、それらの中にいるからここには愛がない、などということではないとわたしも思います。

それは大脳新皮質を使っていない怠け者の言うことです。むしろ逆に、愛のど真ん中にいるから恐れも退屈も持つことができる。そこに気がついたほうがいい。もしそれが欲しいのなら、求めて手を伸ばせばいい。さらば与えられん。意志を使って、考えて考えて悩んで悩んで、ひっくり返って逆立ちして、現実と格闘して、感情と身体と心と脳を使って、人生を懸けて自分で気がつくしかない。黙っていたってやってこない。どんなセミナーにいこうが誰に師事しようが、自分で気がつくまで気がつくことができない。でも自分さえ求めれば、自分が答えをくれます。

What A Wonderful Worldを歌うルイ・アームストロングの顔面はやばいです。デカイです。笑顔がデカイです。あの顔面を見ながら、毎回「人間って、こんなにいい顔ができるんだ!」って感動します。思わず嬉しくなっちゃいます。ポジティブ信者の方々に「ルイを見ろ」と言いたくなります。全部なんだよ、と。酸いも甘いも全部を噛み締めた人間が、最後に見せる満面の笑顔がこれなんだよ、愛はどでかいものなんだよ、などと言いたくなります!!!

わたしが子どものころから、なぜか母がルイ・アームストロングの歌うWhat A Wonderful Worldの入ったカセットテープを何年にも渡って車の中でヘビロテして聴いていたため、この曲の録音の詳細の詳細までをも、完全に脳内再生できるわたしです。そのころは、ああいい曲だな、世界のどこかには、男で、英語を話し、歌うことを覚え、ある程度の年をとり、ちょっとしわがれたしぶすぎる声で、この曲をこんなふうに表現する人物がいるのだなあ、遠い遠いところにいる、自分とはまったく違う人間なのだなあ…という気持ちで聴いていました。でも今は、彼とわたしたちとのあいだに、ある意味でなんの差もないことを思い、心打たれる自分がいます。

彼の満面の笑みには、なにかにウケて笑うのとも違う、特別にいいことがあったから笑うのとも違う、どこかに「仕方ないよね」「いろいろダメだったね」「それでもお互いが居るね」を含んだ、とても切なくて慰めたっぷりの「へへへ参ったね、降参だ、笑うしかないね」という笑顔を何度も何度も作ってみせたことでシワに刻まれた轍のようだと感じます。

ほんとうに、わたしは過去のあらゆることは、それを反面教師やバネにして今を違った視点で見てみるという使い方をする以外には、ぜんぶ、ほんとうにそうじゃないと思えることまでぜんぶ、しがみつきたいこと、後悔したいこと、断罪したいこと、取り戻したいこと、許さなければ終わらないと思えること、絶対に起こってはならなかったことまで何もかもをも、こんな風に認めるのはほぼ倫理感すら疑われることなのかも知れないけれど、「仕方ねえだろ。」と思っています。

仕方ねえんだ。そうなっちゃったんだから。そうなるべくしてそうなったんだから。それがこの全宇宙のすべてでやったことなんだから。許せとも忘れろとも言わないが、少なくとも最低限、仕方ねえぞと言いたい。

「いや、仕方なくないよ!!終わらせちゃいけない、仕方なかったなんて言っちゃいけない!!」と言う人がいるけれど、じゃあタイムマシンでも作ってなんとかしろ。わたしは過去のことを「仕方なかったなんて思っちゃダメだよ!!」と言っていつまでこだわって泣いてもどうしようもないのだと思うんです。たとえ戦争ですら。”それが仕方なかった”ということそのものが恐ろしいのであって、それは仕方なかったと認めないと見えてこない。
「仕方なくなんてなかった、気をつければ、あれがこれが違えば避けられたはず。あれもこれも失わずに済んだのに。だから過去を責めていよう」と考え続けるは一切の進歩を禁じた自分を腐らせる自傷行為だと思います。立ち直らずに居ることを、そこで推奨してしまっている。

それは、仕方なかったんだよ。どうしても起こらなくちゃならなかった。仕方がなかった。すべてがそこに向かっていたんだから。だから、どうしようもなかった。ウジウジウジ虫を捨ててそう意志を使ってキッパリと悟らないと、癒やされ得るものさえも癒やされないと思うんです。避けてほしかったの!!と泣いて、嘆くのと責めるのに忙しくて、立ち直ることすらできないと思います。

過去の出来事はそれで100%、この世界の遺産だから、それでいい。二度と起こしたくないようなことまで、それでいいと思える。ああダメだったね、仕方ないね、さてわたしたちが今いるね、嘘でも笑顔になれるのは生きているからだね、それだけは今ここにあるね。それを、過去への後悔からではなくて、今とにかく愛しいから守りたいね。そう思うことのできた人の顔には、嬉しいのとは違う切なくて胸を打つ、幸せな笑顔が生まれるような気がします。

勝ち続ける人間だけを英雄として扱う風潮がありますが、私は「負けても負けても諦めなかった人間」の姿に、グッときます。それは、勝つことよりも負けることの方が人間の常態だからだと思います。私は、勝ちたいとは思いません。しかし「負けたくない」とは強く思います。戦い続ける限り、人間は負けないのだと思います。その勝負をしている気がします。

これがとても良くわかる気がしました。当たり前すぎることなのですが、それがわかっていない人からのツッコミがめんどくさいだろうと思うから毎回それを予防するために書き添えますが、わかる気がしてももちろんそれはわたしの解釈でしかなく、わたしはわたしであるかぎり一生自分を通した感覚しか持つことができないのですが、わたしも「勝たなくていい」ですが「負けたくない」と思います。

勝たなくていいというのは、「他者と勝負する気がない」ということです。負けたくないというのは、「この状況でも楽しめるか、笑えるか、幸せを見つけられるか、感謝を起こせるか、良かったと思えるか、これでも生まれてよかったと言えるか、参ったのに参ったと言わずに笑えるか、外側が錆びてもいつも黄金でいられるか、自分に負けずにいられるのか」というところで個人競技に出続けて個人記録を更新し続けたいという意味です。この勝負をやめてはいけない。変な言い方ですが、これを頑張ってる人は、イイ奴だと思います。これを頑張れない人を、助けが必要な人だと思います。そう考えると、世の中にはイイ奴か、助けが必要な人しかいないんですね!!

現実世界で壇珠さんにお会いしたのは去年の11月で、半年以上ご無沙汰をしていることになりますね。でも、実際にお会いしたらこれまでの空白期間なんてまるでなかったことのように一瞬で埋まり、途端に楽しい時間を過ごせてしまう確信があります。この感覚に、私は「ふるさと」を感じます。時間は流れるなんて表現もありますが、本当は時間なんかなくって、本当は時間はずっとそこにあって、ただ、いまこの瞬間も我々が流れているだけなのだと思います。今日もこの往復書簡という優雅な時空間をご一緒できること、とても幸せに感じます!!キラキラした瞬間は永遠に残って、いつまでも消え去ることはありません!!

ああ、お会いした途端、きっと空白の時間なんてなかったかのように埋まるでしょうね!!わたしもそれを確信しています。それから、「ふるさと」の感じがわかる気がします!!その感覚がわたしにとって、時間なんかなくて、すべての時間が今であることとつながっています。過去を思うも未来を思うもいつだっていつだって今であることをいつも思います。わたしには今のわたししかいなくて、いつだって、生まれてこの方ずっと、「今」にしか過去や未来を思うことができません。

どんなものにも懐かしさがあり、どんな事象にも知っていた感じがあり、完全に真新しい経験がなぜかこの上なく自分らしく、「ああ、いかにも自分に起こるはずだったことじゃないか」と感じることって、圭吾さんにもありますか?わたしは子どものころにそれが不思議で、それを思う自分を、普通の人間の感覚ではなくて、名前や性別を持った自分とは違うなにか根本的な自分が感じていることだという感じがして怖かったのを覚えています。自分はどこかおかしいのかもしれない、狂っているのかも知れない、などと考えて怖ろしがっていました。

圭吾さんにお会いしたときにも、出会うべき人に出会った感、非常に自分らしい経験、起こるべくして起こったことだと、キャッチャーミットにど真ん中ストレートを受けたかのように思い切り真っ直ぐに感じました。

非常に変なのですが、感覚をそのまま言葉にしてみると、わたしの、われわれのある側面を生きてくださってありがとうございます!!また、わたしは圭吾さんの別の側面であり、われわれはルイ・アームストロングの別側面であり、われわれみんながそれぞれの別側面を担っている者同士であるというこの圧倒的事実に、「おおお~圭吾さんも自分かあ!!」という驚きの風を吹き込んでくださってありがとうございます!!われわれ、往復書簡を初めて良かったですね!なんだか友情や恋愛や人間愛などのレッテルを貼ることのできない喜びみたいな感泣時の「ああ!!」みたいな、感謝みたいな走り出したい気持ちみたいなうぉりゃあああみたいなものを込めて、御礼とともに締めくくりたいと思います、ありがとうございます!!

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