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605/1096【シンプル解説】「今ここに自分がいる」

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で605日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

605日目、イタリア全土のうちの広範囲に言えることのようだけれど、ネットの通信が非常に不安定だ・・今日は更新できるのだろうか!?ちょっと通信が復活しても、すぐに不通に戻ってしまう・・・

まさかこれが原因で不可抗力的に更新が途切れてしまったとしたら、まったく想定外の虚しさと対峙することとなるだろう!
悲しく虚しく悔しく、すごい喪失感だと思うけれども、なにかを大切に思うということはそのリスクを追うということだ。いいのだいいのだ。
そうなったらそれを受けて立つまでだ。
運を天に任せて、とりあえずは全力で執筆だ。いくぜーうりゃー!

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普段いつもあるものが無くなったり不安定になったりすると、身の回りにあるさまざまな「いつもあるもの」がより有り難くなる。ああ、こうしてパソコンを触ることができるのは、なんと幸せなことだろう。

今日はそんなふうに思ったから、そこから「今ここにいる」という感覚について、わたしなりの感覚をできるかぎりシンプルに書いてみようと思う。

わたしは、今こうしてパソコンに向かってブログを書いている。これはわたしにとっては幸せなことだけれども、もし他の人がわたしと同じ環境に置かれたとしたら、果たしてそれを幸せだと思える人がこの世に二人といるだろうか。

もしあるときあなたが、朝起きて、わたしになっていたとしたら・・・

まずここは祖国日本から遠く離れたイタリアである。わたしはイタリア語が堪能ではなく、車の免許もない。そして175センチもある女型巨人だ・・まずこのあたりでもう、多くの人が逃げ出したいのではないだろうか!!多くの男性よりも大きく、そして、サイズの合う服があまりないのだ。

さらには、夫がイタリア人で日本語が通じない。そして恐るべき天然男だ。娘にも日本語はあまり通じない。両者とも、英語かイタリア語であなたに話しかけてくる。外にはコンビニがない。大事なことだから二度言おう。外にはコンビニがない。TSUTAYAもない。ここも忘れずに念を押すが、TSUTAYAがないのだ。日本語の本を売る本屋もない。一般的なスーパーに、日本の食材はほぼ売っていない。毎食のようにイタリアンを食べ続けている。

そして毎日毎日、家に閉じこもって三年間の毎日投稿を誓った無料ブログを執筆しながら仕事をしているのだ。あなたは明日も書かなくてはならない。ブログは三年に達するまであと491日ある。どうだろう。オラこんな村いやだ~オラこんな村いやだ~東京へ出るだ~と思うのではないだろうか。きっと少なくない人が、わたしの生活を味わえば「うぎゃーたまったもんじゃない!早く自分に戻して~」と感じられることだろうと思う・・

そんな環境を通常モードとしており、そんな環境を幸福だと感じている自分は、他者目線になって見てみると特殊な人物だ。この毎日を生きることは、わたし以外の誰にもこなせないことだろうと思う。

そして、これを他者に当てはめて見てみると、ひとりひとりの人に対して、ああこの人をやれるのはこの人だけだなあ・・・と思う。誰一人として、完全に真似ることのできる人がいない。すげえなみんな!!!と思う。

もしわたしが朝起きたら別の人になっていたとして、わたしが自分なりに勝手に楽しい方向に行動してしまうと、はたとその人がたとえば数カ月後に自分を取り戻したときには、生活は大変なことになっていることだろう。

まず、出勤しようにもそれまでの職場をやめてしまっているに違いない。そして外国人の胸毛・体臭・筋肉を備えた恋人がいて、なんなら妊娠していたりして、貯金はハイスペックパソコンやデジタル機器に使われていて、さらにはオンラインでガンガン仕事を始めてしまっており、パソコンを開けるとゲームはダウンロードされているわ、スマホを開ければゲーム実況を見た履歴ばかりになっているわで、な、な、なんじゃこりゃああああああとなるだろうと思う。なんじゃこりゃどころか、大変な不幸に陥ってしまった!!と感じるのではないだろうか・・・・

ある朝起きて、どんなにお金のある人になっていたとしても、どんなになにかで売れっ子になっていたとしても、権力のある人や有名な人になっていたとしても、それを心地よく感じられるだろうかと考えてみると、ほとんどの人にとって答えはNOだろうと思う。他人の作り上げたその生活ベースに馴染めないし、これまでの自分の家、家族、仕事、いつもの安心、自分の暮らしのあれこれに、まったく未練のない人などいないはずだ。

また、自分の肉体の環境を、しばらく誰かに任せてしまえるかと考えると不安ではないだろうか。あれもこれも捨てられてしまうかもしれない。実名顔出しでなにかをされてしまうかもしれない。いざしばらく経って戻ってきたら、自分には手に負えないような責任を背負ってしまっているかもしれない。もしくは逆に、今よりもずっと楽で責任のない、楽なだけでただやることのないニート生活に陥っているのかもしれない。

たとえばわたしも、自分の身が1年間叶恭子さんに乗っ取られているとしたら、1年後に自分を取り戻したときに、今とはかけ離れた暮らしをしていることだろうと思う。わたしは豊満な身体を手に入れており、いきなり周囲にグッドルッキングガイズがたくさん居ることだろうと思う。わたしはそれをキープする術をもつことができず、またそのうちのさまざまなことを楽しめず、あっというまに崩してしまうことだろう。

そう考えを巡らせてみると、今の自分はなんだかんだと言ってこの世の誰よりも自分らしい、自分の執着そのものの、良くも悪くも自分の望んだ暮らしをしているのだとも言える。わたしたちをわたしたち足らしめているのは、他でもないわたしたち自身なのである。

そしてまた、どこかにこんな感覚が感じられてこないだろうか!

自分の人生をこの手に握りしめているのだという感じ。
自分というのは自分といつも一緒にいるのだという感じ。
他の誰にも渡せない自分がここにいるのだという感じ。
あなたのすべては、あなたにかかっている。
あなたのすべてが、あなたに任せられているのだ。

自分さんを生きる方法は、他の人は誰も知らない。自分をやれるのは自分だけで、そのマニュアルなどどこにもない。なにがベストなのかを知るものはなく、あなたがベストだと思えばそれがベストなのだ。あなたはあなたという人についてだけ、その100%の決定権を委ねられている。あなたが正解とすれば、それがこの世で唯一の生物であるあなたにとっての正解だ。

誰にも任せることのできない自分の人生が、まず今こうして自分に委ねられていることを「よかった」と思えることを、わたしは限りなく「今ここにいる」と言える感覚なのだと思う(人は完全には今ここにいることができず、ちょっと過去を体験しています)。

とにもかくにも、自分がとりあえず、自分だ。誰にも乗っ取られていない。この後どうするかなどということは置いておいて、とにかく今、全自分がここにある。自分の意志で動いたり、自分で選択したりできる。右手を握ろうとすると握ることができる。自分が、自分だ。

まず一旦今、自分が自分だ。よし、確かにそうだと確認する。この感じだ。今ここにいるというのは、今の自分に全部の自分があるというところに、意識が向くことを言うのだと思う。全部の自分だから、身体も心もだ。

この感じを覚えておくのがわたしは好きだ。
覚えておくと、いつの間にかいつもその感じを持っているようになる。そうすると、日々さまざまなシーンで自分の選択をして動いていくことに、自分で選べる気楽さと楽しみを感じていられる。

人生を常々選択を迫られる瞬間の連続だと考えると、それに気楽さを持っていられるということは「人生そのものを心軽やかに歩むコツ」だとも言えるのではないだろうか。わたしたちは自分を自分の手のひらに乗せていて、また同時に、わたしたちは自分の手のひらに乗っているのだ。その安心感とともにあることができるのだとも言える。

というわけで今日は、自分は今自分である、ということを確認する感覚についてのわたしなりの一種の解説と、それをもつことの良さについて、シンプルに綴ってみました。響き合える方がおられますように!

それではまた、明日ね!

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