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601/1096 凡と非凡に優劣なし、という視点

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で601日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

601日目、なんと新鮮なことだろう!600日目台の数字を書けるなんて!早くも700日目が楽しみだ。800日目も楽しみだ。最後の日なんてどうなっちゃうのだろう。ぎゃぎゃー!エキサイティングなことだ!

毎日、Twitterやnoteで、リツイートやコメントやサポートを送ってくださるお方に改めて心から感謝いたします。本当にありがとう。涙が出ます。

今日はまっすぐに感謝と喜びを込めて書こう!
おおーい、始めた日の自分よ、皆さんのお陰で600日に届いたぞー!!
重ね重ね、本当にありがとうございます。。

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この毎日投稿を読んでくださっている読者さまの多くが、心のことや人間の意識のことなどについて興味を持っておられるものだと想像しているのだけれど、みなさんがそこに至ったキッカケはどのようなものだろうか!

毎日投稿を書きながら、そのことによく思いを馳せる。きっと、辛いことに出会って、そこから何らかの経緯をたどって「自分の人生を存分に楽しみたい」という思いがあったお方が多いのではないかと思ったりしている。

そしてまた、少なくないお方がそのために自由を求めるというプロセスにも出会っていることではないかしら!わたしはそれを、素晴らしいものと思う。

自由を求めるのは苦しくて楽しい旅だ!自分の持っている「こうしなくてはいけない」「こうあるべきだ」という決めつけを見直すプロセスは面白くて、たくさんの解放が起こる感動の経験だと思う。劣等感とさよならしたり、自分への思い込みが解けたりして、ダメな自分をそのままでよかったのだと思えたり・・・

がんじがらめだったところがどんどん緩むので、これからの行動に選択肢も増えて自由度も増し、ダメ出しが減っていって安心感も増して、良いこといっぱいだ。

わたしはそれがどれだけ進んでもいいと思うのだけれど、進んだことによって逆に、迷いを感じるということがあるのではないかと思う・・・今日は、そのことについて書いてみよう!(昨日の記事の補足でもあります)

たとえば、

◯人に優しくなくてはならない→人に冷たい自分でもいい
◯必ず完璧にしなくてはならない→完璧でなくてもいい
◯同じ会社に定年まで勤め上げなくては負けだ→自由に転職したっていい

挙げればキリがないのだけれど、こうして信念を解いて反対の感覚になることができると、とても嬉しいものだ!本当に呼吸までしやすくなるほど。
自分を縛っていたものから解放されて、より自分の思いを実現していきやすくなる。

でもそのときに、「本当はこうしたほうが気分が良いとわかっているのだけれど、それを選ぶととても大変だ・・」というような状況に出会ったときに、

◯それを選べなくてもいい
◯逃げてもいい

などの選択肢を用意して、それを自由だとして言い訳にして甘えてしまうということが、往々にしてあるのではないだろうか。わたしは弱いのでそちらに流されるのを打破するのはとても大変だったのだ!毎日投稿を宣言したときも、こうした言い訳をしないのが大変すぎて、ぴえん✕億千万だった。

また、選択が多いことや常識に囚われないことのみを自由として、『ぶっ飛んだ選択至上主義』になってしまうと、混乱してしまう。「自分が望んでいるなら大変でもやるべき」なのか、「それを選べない甘えをも許しちゃうべき」なのか、と迷ってしまうものではないだろうか。

このあたりで、苦しい思いを抱える人が多いのではないかと勝手に思っている。その気持が、とてもよくわかる気がするのだ。

わたしは、何かを選ぼうとするときに自分の中に湧いてくる、

◯弱くてもいい
◯ダメでもいい
◯甘くてもいい
◯逃げてもいい

という許しばかりを取り上げることを、本当に自由だとは言わないのだと思う。わたしたちは、ただ単に楽で、自分に都合の良い方だけしか選べないというとき、それを心地よく感じられないものだと思う。

だからそのときは、それらの他にも、ちょっと見ないようにしているけれどもしっかりと湧いてきている、自分の良心や真面目さもぞんざいにせず大切に取り上げて、並列に扱ってみるのが良いと思う。

たとえば上に挙げた、

◯人に優しくなくてはならない→人に冷たい自分でもいい

を例にしてみると、自分の冷たいところがあるのを許せるのは良きプロセスだと思うのだけれど、そのあと、だからといって冷たくしていることにスッキリほっこり良い気分になれないときは、そこから一歩進んで、本当にコアで感じている良心や優しさや真面目さなども、のけものにせずに選択肢に入れてみるということだ。

◯人に優しくなくてはならない(強制)→人に冷たい自分でもいい(許し)→でもホントはやっぱり優しくできると自分も嬉しくかったから、自ら優しくしたい(自由な選択、自分のコアの表現)

このように、「優しくしなきゃダメよ(強制)」に対して「うるせー!冷たいところだってあるんだ!」となり、「そうだね、そうなったのも仕方なかったね」と許せたら、そこから好きなように選んでいくということ。
改めて自分の良心から選び直してみると、強制されると嫌だったけれど、本心から「優しくしたかった」ということだってある。反抗期をすぎて、許されたら、自分で選んで自分で決めるのだ。

他2つの例でも、

◯必ず完璧にしなくてはならない(強制)→完璧でなくてもいいやんけ(許し)→完璧を目指してみるのは意外と自分が好きだった!or適当にやってて逆に完璧だった!などなど(自由な選択、自分のコアの表現)

◯同じ会社に定年まで勤め上げなくては負けだ(強制)→自由に転職したっていい(許し)→あれ?勤め上げるのかっこいいじゃん!or転職だけじゃなくて起業がしたかったみたい!などなど(自由な選択、自分のコアの表現)

というように、許しで反対の概念まで選択の範囲を広げたら、あとはそこから、原点回帰的にまっとうで当たり前のことを選んでみるほうがスッキリすることがある。同じことでも、強制で選ばされているのではなく、自分で選んだと思えれば気持ちがいいのだ。

もちろんこれだって、許せないことを許さずにいるための言い訳にしてしまうとスッキリしない。

けれども、思い切って転職、思い切ってズバズバ言って嫌われる、思い切って無職になる、思い切ってふしだらになる、などの選択肢のみに着目しなくていいし、そうしたバンジーを飛べるところを見せることで、自分の自由を証明する必要はどこにもないのだと思う。本当に許しが起きているとき、外側への証明は必要ないのだもの。

自分の良心や道徳心までをも無視した選択に縛られることこそ、不自由なのではないかな。普通であることを思い悩んだり、一般的なことを選ぶ自分に「つまらない」とレッテルを貼ったりしなくてよいのだ。むしろカッコいいと思う。最近はコロナの影響で医療従事者のかたたちはヒーローとして尊敬されている。わたしはここでさらに、普通に暮らしている人も同じように、世界のヒーローだと思う。

堅実に人生を創ってまっとうな道を喜んで選択する人・・・サラリーマンのおじさんに、専業主婦のお母さんに、偉人の成し遂げた非凡な選択と同じだけの素晴らしさをフラットに見いだせることにこそ、わたしは自由を感じる。凡と非凡に優劣を見いださないところからフリーに選べてこそ、自由な人生の選択ではないかな!と思う。

世界にはバランスがあって、働く人がってこそ働かない人が存在し、働かない人あってこそ働く人が存在できる。そうしてわたしたちが生きて活動していることこそが実世界を回しているのだものね。わたしは、きっとこれから、上下や優劣で選ぶのではなく、良い心で選んで自分の決定に深く納得していくことが大切になってくるのだと勝手に思っている。

これまでどちらかというと、思い切った選択のできること、飛び抜けて優れたり飛び抜けて目立ったり裕福になったりすること、それから発想の転換ができることなどがとても重要視されてきたために忘れられがちだったと思うけれど、わたしたちの良心や静かな誠実さは無駄に備わっているわけではなく、人間の持つ突拍子もないアイデアを得る機能と同じだけ美しいものだ。これからはもっと、自由な感覚にありつつ、良心に素直になったところから選び直す力を持ってみると、ものごとが良きほうに進んでいきそうだ!

というわけで今日は、

自由を許して逆に迷ってしまうときに、ぶっ飛んだ選択肢だけでなく、わたしたちに備わった良心や堅実さや誠実さから生まれる選択肢を忘れずにいましょう。そこから生まれるまっとうで普通な選択肢を除外せずに並列して、自分のコアに従って自由に選んでみましょう。これで迷いがスッキリすることがありますね!(そしてそれもまたカッコいいね!)という感覚のシェアでありました。

それではまた、明日ねー!

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