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769/1096 思い込みは、あなたの着ている服のようなもの

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で769日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

769日目。みなさん、昨日のミニミッションを達成してくださって、ありがとうございました!!今朝まで、ひとつひとつすべてに丁寧に目を通させていただきました。涙、涙。素晴らしきレポートしかなく、嬉しくて読み返しています。

ご自分を「ひとりの人」として観察する視点を送ってくださって、ありがとう。想像以上に感動してしまいました。勝手に一方通行に、わたしたちは、友達だ…!!と思いました。感謝いたします!!!

いよいよ明日で770日目だと思うと、もう800日もすぐという気がします。ここまでくると、安定の連続投稿かのように思えてしまうのですが、なにかあると簡単に崩れてしまうものなので、いつ途切れるかわかったものではなく、まだまだ緊張感バリバリです。でも、こうした緊張感というのはいいものですね。毎日投稿が終わっても、何かで緊張していたいなと思うのですが、そんな自分のことが「誰やねん」すぎて可笑しいです。

楽をしてダラダラすることだけを楽園だと思っていたのに!人は変わってしまうものですね。

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今日まで毎日投稿を書いてきて、自分のそれまでの「アイアム三日坊主」というダイヤより硬い思い込みが覆って真反対になってしまってつくづく思ったこと…

それは、「自分がこれだけ変化するのだもの、自分で自分を縛ることすらできないのに、人の変化を嘆いても仕方がなかったなあ」ということ。誰かの心境の変化、状況の変化、心変わり、などなど…

わたしは、命も、健康も、優しさも、愛情も、恋心も、好きな状況も、なんでも永遠であって欲しいと思っていた。それが無理だということを思うと、受け入れられなくて、うぎゃーー!!っとなりそうだった。

自分がそうだったから、勝手に、みんな寂しくて当然だよな。。と思ってしまう。

永遠じゃないんだなということが、頭ではあたり前のこととしてわかっていても、心では「嫌だねそんなの」と思っていた。なんだか諦めるのは哀しい気がして。でも、それが本当に腑に落ちはじめたのは、自分の自分に対する堅牢な思い込みが、実は幻だったじゃん!とわかってからだった。

自分も変わる。意図しようともせずとも、どんどん変わってしまう。人や状況に対して「変わってほしくない」と思っていた間は、だから自分にも「変わってはいけない」と思っていたところがあったのだった。

まったく透明なブレーキだったけれど、知らぬ間に「変わることは良くない」と思っていた。コロコロ変わらないほうが、続くほうが、いいし偉いと思っていた。それから他者に対しても、「こちらは変わらない」と伝えたいという思いを持っていたのだった。「わたしは変わらないのに!ホラこんなにずっと同じだよ!」とすることで、なにかを縛っていたかったのだった。ウウ…文にするとダサいんだけど、切ない思いだったんだよなァ…

だから、わてら人類の、そんな思いが痛いほどに切なくて、「うちらって切ないね、涙」と思う。そのため道行く人たちにまで、心の中で「オラたちゃ宇宙の切ない組だぁね…」という思いが湧いてしまう。この気持ちも、悪くない気がする。昨日の寂しさについてのミッションで、そんな連帯感をたくさん味わった。俺たち切ないね…!!涙

でも、みなで変わり続けて、どんどん別のものになっていくこと、考えてみれば寂しいことではないのだね。みなで、ずっと一緒に変化を体験していく。

わたしは、この連帯感が好きだ。連帯感がある以上、やっぱり分離感を認め続けるのだけれど。でも、分離感も連帯感もないなんて、そのことこそが本当に寂しいということだろうと思う。互いが居ることも、この切なさも、この愛も、愛しさも何もかも、感じられなかったものね。

寂しささえも知らない、それが寂しいだなんて、なんだか矛盾だけれどね。でも、好奇心が満たされないことは、わたしたち個人にとってもわたしたち全体にとっても、子どもが触ってみたかったものに触れなかったような悔しい寂しさがあるのだろう。抱っこしてほしかったのに抱っこしてもらえなかったときのように、聞いてほしかったのに聞いてもらえなかったときのように。知ってみたかった感じに手が届かないよりも、たとえそれが切なさでも、知りたいものを知りたいのだろう。

わたしはすっかり変わってしまった。
わたしはしつこくしつこく書いてしまうけれども、なにひとつ続かない人間だったのだ。人前に出るのが嫌いだったのだ。人に自分の思いを伝えることが何より怖かったのだ。

でも、思いは人の習慣を変える。そして習慣は人の人格まで変えるのだと思う。人格が変われば行動も変わり、味わう経験も未来も変わる。

わたしの思い込みは、わたしというものを表してなどいなかった。それらの思い込みは、ちょうど服のように脱ぎ着できるもので、好んで着ているものや、星めぐりによって着ているもの、地球上で着なくてもよいのだけれど着込んでしまったもの、後で脱ぎたくてわざわざに着たものなど、いろいろなものを着込んでわたしたちは、自分自身を「自分」だと思っている。

けれどもでは、着たものを脱いだわたしは何者なのだろう。
まっさらなみなさんは、何者なのだろう。

そんな不思議なわたしたちは、人生をひとつのドラマとして味わいに来ている。そのドラマを今の自分の判断で変えようとしているのならば、鑑賞して楽しんでみてほしい。ただ、眺めてみようとする。そうして、心のリクライニングシートを倒してみたときに、あくせくと自分を責めるところから抜け出して味わえるものがある。

その最初の心のリセットとして、わたしたちが自分を「自分の思っているような存在ではないのかもしれない」ということに心を預けてみるのが、わたしの好きなおすすめの方法だ。

うっかりさんではないのかもしれない。
今の心配は、本当はしなくてもよいのかもしれない。
だめな状態ではないのかもしれない。
自分の思う方に変わらなくてもよいのかもしれない。
この一生で消える存在ではないのかもしれない。
時空に縛られなくてもよいのかもしれない。
自分は、いないのかもしれない。
あなたはただこの宇宙のすべてと一緒に変化している存在で、その変化を味わっているだけなのかもしれない。

そんなワンダーを、人間生活をしながらも自由にしてみてね。
そのワンダーにより、わたしたちの意識は知らぬ間に広がります。その広がりはあなたの感覚を少し変え、感覚の変化はモノを見る視点を変え、視点の変化は選択を変え、選択の変化は味わうものを変えます。きっと面白いことに繋がることでしょう。

だから、わたしたち人間の特性である、「もしかしたら」とイマジネーションする能力をどんどん使ってみましょう!それを、閉じてしまわないでね。

というわけで今日は、自分に持っている決めつけは「意外や意外や意外や意外、もしかするとただの洋服のようなものかもしれないな」と思ってみることへのお誘いのシェアでございました。

どうも、3日前から急に長文にならないわたしですが、長文ばかり書いてしまうというのもただのジャケットみたいなものだったのですね。(笑)
自分の特徴を服のようなものだと思ってしまうと、人間って面白いことにそれさえも現実にしてしまうので、いろいろと変化が起こるのです。
わたしたちは、自分自身でまだまだ遊べる。それほどエキサイティングな遊びがあるでしょうか!みなさんも、これからいくらでも遊んでみることができると思うと、なんだかワクワクしてきますね!(この文章に出会うというご縁にあった、あなた、だもの!)

それではまた、明日!


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)