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【質問回答】娘に「こうあってほしい」という願望がある。そのままの娘を愛せていない。どうすればいい?

これを読む、宇宙の構成物であるあなたよ、激暑な夏の毎日をいかがお過ごしですか。近頃のわたくしめは、火事にあったりしてちょっと穏やかではない日常に当たっておりました。

しかしこのとき私が「わたし」と言っている私とは、どの私のことなのでしょうか。壇珠さんのことでしょうか。それとも、壇珠さんに起こることを眺めて体験している、壇珠さんに憑依している(悪霊みたいに言うな)観察眼のことでしょうか。

人は暑すぎたり寒すぎたりすると、思考力が低下し、思考力が低下すると自ずとぼーっとしがちなため、「この暑さを寒さを感じている自分とは、一体何者なのだろうか」と思ってみるのに良いチャンスではないかと思います。

この暑さは、私たちの身体が感じていることなのでしょうか。
それともこれは、神経を通して脳が受け取った信号なのでしょうか。
その信号を受け取り、それを暑さと解釈し、その解釈を感覚として体験したのは、誰なのでしょうか。
その誰かは、その受け取り方を本当に自分だけで決めたのでしょうか。
その決定は、どんな要素に影響されて決められたのでしょうか。

たまたま熱中しているサッカーの試合があったから、そのときは暑さのことは忘れていた。たまたま人を待っている時間があったから、そのときは暑さのことしか考えられなくてめちゃくちゃ暑かった…

もしもこのように、それが外的要因に影響されているのだとしたら、その外的要因もまたそこに影響を与えている外的要因によって成り立っていると考えられます。するとこの「外的要因」とは、どこまでも切り離すことができず、宇宙全体のことだと言えてしまいます。

ではあなたの「いや、暑!!あっついわ~」という感覚は、宇宙全体が一丸となって起こしたものではないでしょうか。何かが欠けたらそのときあなたは、暑いという感覚になどなかったのかもしれない。そう、冥王星や風俗店の看板やモナ・リザの絵画や布袋寅泰氏などなどなどの宇宙の要素がひとつとなって、あなたに暑いという感覚を起こさせたと言えてしまいます。

となると、暑いという感覚を単体で覚えることのできる個別の存在とは、果たして「いる」のでしょうか…

痺れる質問だぜ。そして自分でここに読者さんへたくさん質問しておきながら、今日はこちらの質問に回答したいと思います。

質問者さまが書いてくださったように、私は娘がありたいようにあればいいと思います。もちろん、私も親の端くれですから、娘には元気でいてほしい、怪我や病気をせず、事故にも遭わず、穏やかで平穏に、幸せであってほしい、自分の特性を活かして生きていってほしいと思います。

でも、そうじゃなくても良いとも思います。それよりも、娘がありたいようにあってくれるほうを、嬉しく思います。娘が例えば、波乱に満ちた、苦労の多い、激情に見舞われる人生を送ってみたいのなら、それをコンプリートして、そこに満足できるほうが、納得をもって人生を終えられるだろうな、それはいいな、とも思います。

けれども、私はそれを”愛情深い”ということではないと思っています。娘への愛が深いから、そのように感じているわけではないのですね。

なぜなら、例えば、私があまり愛情を感じない相手に対しては「私の思い通りにあってほしい」と感じるのかというと、そうではないからです。他の人も同じく、元気で健康で幸せであってほしいけれども、それよりも本人がありたいようにあればいいと、思うからです。

しかもそれも、私が人格者だからというわけではなく、どうしようもないんだからそう思うしかない、みたいな感じが馴染んで、そうなっただけという感覚です。だってねぇ、真にどうしようもないんです。他の人は自分の思い通りにはなりませんよね。どれほど願っても、祈っても、癇癪を起こしても発狂しても、たとえ死ぬと脅したって、他者は自分の思い通りにはなりません。人間やってきて、誰かが自分の思い通りになったためしがないのです。

それは、ドアを開けよう開けようと頑張っていたのに開かなくて、よくよく見たら、壁に描いてあったドアだったとわかったのと同じです。絵だったとわかったら、もうそのドアを開けようとは思わないですよね。それくらい、どうしようもないことなのです。

だからまず重要なポイントとしては、他者のことを思い通りに変えたいという思いについては、どうにもこうにも叶うことではないと徹底的にわかるしか、他にやりようがないのです。

つまりは、諦めたと言いますか、最初から無理なことだったと明らかに悟った、フツーに無理なことだったと目が覚めた、というのが正確なところなのです。もうどうしよーーーーもないのですね。笑

そしてこの、他者をそのままでいいと思えるかどうかというのは、私たちが自分をそのままでいいと思えているかどうかにかかっています。

自分で自分になにかを強制していると、どうしても私たちは、他者に対してもあるべき姿を追い求めてしまいます。私たちは、自分のものの見方を、自分にも他者にも、同じように適用してしまうんですね。そこに切り替え機能がないのです。

ですから、自分が今のままの自分を許せずにいて、「自分はもっとこうあるべきだ」というなにかがあるとすれば、他者に対しても同じように思ってしまうのです。

例えば私たちは、他者が怪我をしたのを見ると、痛いだろうと思いますよね。これは、自分が怪我をしたときに痛いからに他なりません。逆に、自分に痛感神経がなければ、他者の怪我を見ても痛いだろうと思うことができません。痛いってなんだろう、どんな感じなんだろう、と思ってしまいます。これと同じことなんですね。つまり、私たちは共感力が備わっていて、これは消しようのないことなのです。

でもここで問題なのは、私たちは自分自身がもっとこうありたい、もっとこうなりたい、という思いが完全に消えることはないということです。苦しいときは苦しみが終わってほしいと思いますし、身体がある以上はどうしても、生きていたいと思ってしまいます。なにかを学びたいと思う。面白そうなものを見ると知りたいと思う。向上したいと思う。勝ちたいし、前に進みたい。生きている以上は、どうしてもこうした「今と違うなにかを求める」感覚が伴ってしまいます。

すると、共感力が備わってしまっている私たちは、他者に対しても、完全にそのままでいいとはどうしても思えない、ということになってしまいますよね。これは、どうすればいいのでしょうか。

そこで自分の中から引っ張り出すとよいもの、それが慈悲の心です。
慈悲の心で、自分の中にある「自分だって、他人から思い通りになってくれと言われたら嫌だ。自分だって、自分のありたいようにありたい」という思いを認めて、その部分について他者に共感してみるのです。

他の人も、他者からあり方を強制されて嬉しい人なんていないんだ、自分の思いを実現させる体験を積んで生きていたいんだ、みんな落ちようと上がろうと自由にやりたいんだ。私だってそうなんだから、みんなもそうなんだ。というところに、何度も思いを寄せ、そこに立ち返ってみる。この慈悲の心というのは、その地道な積み重ねで、だんだんと育っていくものです。

そのときに、現実をまっすぐに見ることが手助けとなります。

私たちが皆わかっている、明らかな現実を思い出してみてください。
ひとつだけ確実なことがあります。

それは、私たちが死ぬということです。

私たちは、いつか死にます。ある日、本当に死にます。ある日のある時をもって、この人生は本当に終わります。このことを、自分の中でごまかさずに直視してみてほしいんです。すると、この限りある時間の中で、自分がどう生きたいのかが浮き彫りになってきます。

私たち人間は、死を不幸と捉え、忌み嫌います。だから、このことから目をそらして、なんとなく自分をごまかして、目を閉じて眠って、死と関係ないところにいるような感覚で生きています。

自分が自分の死から目をそらしていると、他人の死からも目をそらしてしまいます。すると、自分がどう生きたいのかということを見ることができず、他者がどう生きたいのかを見ることができなくなってしまうんですね。

このとき、引き寄せの法則みたいなものをここに適用して、死について考えたりすると、良くないことが起こる気がする、などと言う人もいます。

でも、死は生の一部です。死のことを考えないでいると、生のこともまっすぐに考えられなくなってしまうんです。私たちは今この時も常に常に、新たな一瞬に出会っています。出会った途端にその一瞬が過ぎ去り、その一瞬の自分は過去の遺物となり二度と戻ってきません。だからこそ新たな一瞬に出会えるわけですね。毎瞬新しくなり、毎瞬そこから去っているのです。

つまり私たちは、毎瞬生まれ、毎瞬死んでいるんですね。万物は変化しています。死のことを思おうが思うまいが、例外なくすべての人が、ひたすら生まれて変わっては死んでいるんです。10年前のあなたも、1秒前のあなたも、二度と会えない、二度と返ってこないあなたの過去世です。死は生の中に溶け込んでいて、生もまた死の中に溶け込んでいます。

あなたがそうであるように、娘さんもそうなのです。
あなたがいつかこの世をから去るように、あなたが肉体から離れる日が来るように、あなたの娘さんもこの世を去るときが来ます。これを、自分の子どもについて、目を覚まして明らかに眺められるかどうか。これって、親としてなかなかにクールで痺れるチャレンジではないでしょうか。

娘さんが死ぬのだということを忘れないで。それを忘れるのは、私たちがある日必ず死ぬということを、忘れているから。

いつの日か、あなたは死ぬ。
あなたの娘さんも、いつかは必ず老いて死にます。
彼女は死ななくてはならない。
そのことを、よくよく思ってみて。

すると、どうでしょうか。
そこから湧き上がるものを感じていった時、あなたはどう生きたいと感じますか。そしてあなたの娘さんは、この世をどう生きて、どう去りたいのでしょうか。

それぞれに、きっと固有のものがあるはずです。娘さんには、娘さんの遂げたいことがあり、それがあなたにはわからない。そして彼女は、あなたのコンプレックスのために生まれたわけではないことが、ありありと自分の中に認められてくると思います。ここをつかんでいくのが鍵です。

私たちがいつかここを去るということを明らかに捉えて、このことにたくさん思いを馳せてください。

なかなか一発でパチンと切り替わることではないかもしれませんが、そのほうがいいんです。一発でわかっちゃった!などというほうが、勘違いだったりするし、そうでなくてもすぐに元に戻りやすかったりします。だんだんと自分の心と身体を伴って感覚がつかめていくほうがリバウンドがないので、ゆっくりで大丈夫ですよ。

少しずつ自分を育成するような感覚で、取り掛かってみてください。
それと、このような質問をくださって、このような回答を得るあなたは、これからこのことに取り組むと良い人なのです。なんと面白いお母さんでしょうか!

だから安心して、自分の中に起こることを楽しみながら、この子だってこの子特有の人生を歩むんだな、それは誰にも変えられないんだな、この子はいつかこの世を去るんだな…という観点から娘さんを眺めてみてください。
今のあなたが想像もしていないような気づきや変化に出会えると思います。
参考になりますように。

それでは、またね。

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)