見出し画像

【現代病】自分や自分の人生を大切にできない。自分のことが好きじゃないし、自分は大したことのない人間だから…

自分や自分の人生を大切にできない。自分が好きじゃないし、自分が大したことない人間だからそこまで大切に思えない。

こう感じている人がいますが、これは現代病と言えるのかもしれません。そう思うくらい、近年は「自分を好きになれず大切にできない」ということに悩む人が多く見受けられます。だから、どうすれば好きになれるのか、大切にできるのかというご相談も増えているのですね。私も本当に頻繁に、こういうご相談に触れる機会があります。

今日はそれに、私の実感をできるだけそのままお伝えすることで、私なりに(つまり変な)回答をしてみようと思います。

いきなり結論になってしまいますが、あなたが「大した人間かどうか」なんてどうでもいいのです。大したことがあろうとあるまいと、大切なのです。
大した人間かどうかということと、大切かどうかを混同しないことです。ここで二つの問題が巧妙に混同されているから、いつまでもグルグルしてしまうのではないでしょうか。

例えばですが、強く大きくたくましいライオンのほうが、戦闘能力でそれを下回る猫より大切なのでしょうか。あなたが自分の能力やルックスに対して持っている評価を基準にして「自分が大切かどうか」ということを考えてしまうと、この場合でいえば「猫は大事にする気がしない」と言っているのと同じなのですよね。

それから、私たちは誰もが四六時中自分のことを考えているくらい自分に夢中ですよね。足の先が冷たいから温めたほうがいいだろうかだとか、あのときの自分の言い方が誤解を招いたのかしら?だとか、俺ってつまんない男だな、生まれてきた意味あるのかな、だとかね。こうしたことを考えるのをやめられない程度には自分に夢中ですよね。

だから大切にしなきゃいけないのです。自分というのは、わたしたちがそれくらい夢中になっている相手なのだから、大したことあろうがなかろうが、もう愛しちゃってるんだから。だから、大切にしなくちゃ自分が辛くなっちゃって大変なのです。自分のことは、自分の快さのために大切にするのです。

自分さんに良いことがあればこちらもウキウキするし、自分さんにちょっとでも失敗があったりするとこちらも悶々としてしまうほど、とにかく自分が常に無償の愛を傾けている相手なのだから、「でも、大したことないから大切にしない」といってしまうと、自分と自分が一致していないのです。

無償の愛を傾けて思い煩いながら、かつ大切にしないなんて、こんな矛盾を実践していたら苦しくなっちゃいますよね。

それから、私たちが大切なもうひとつの理由というのは、”やっと人間に生まれたから”です。私たちが人間として生まれる可能性は、べらぼうに、とてつもなく低いのです。好きかどうか、今の社会の基準で「大したものかどうか」なんて、そんな物差しは塵となって吹き飛ぶくらいの奇跡だということなのですね。

仏教には盲亀浮木(もうきふぼく)という言葉があります。

お釈迦さまが、弟子の阿難に向かって言われました。
「宇宙の広さの海に、目の見えない亀がいる。その目の見えない盲亀が、100年に1度、息をするために海面に顔を出す。広い海にはたったひとつの軛(くびき。牛、馬などの大型家畜を犂や馬車、牛車、かじ棒に繋ぐ際に用いる木製の棒状器具)が浮いている。軛には首を出すための穴があいている。阿難よ、100年に1度浮かび上がるこの亀が、この海のどこかにただようこの軛の穴から、偶然に頭を出すことがあると思うか?」

阿難は答えます。
「何憶年かける何憶年、何兆年かける何兆年、幾億兆年の間には、たまたま偶然に起きるかもしれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」

するとお釈迦さまはこう言われました。
「よいか、阿難よ。私たちが人間に生まれることは、この目の見えない亀が軛の穴から顔を出すよりも、さらに難しいことなのだ。それだけ有り難いことなのだよ」

あなたも、あなたの横にいる人も、街を歩く人々も、どれだけすごい存在なのでしょう。そのように思って他者を見てみると、当たり前の感覚が吹っ飛ぶのがわかります。

地球上の生物になるだけでとんでもなく低い確率をかいくぐっていることは、科学的にも説明されていますね。

一つの命が生まれる確率は、1億円の宝くじが100万回連続して当たることに匹敵する。

村上和雄ー筑波大学名誉教授『そうだ!絶対うまく行く!』「できる」遺伝子が目ざめる生き方・考え方

生きて、生命であるということはとんでもなくすごいことなのですね。そんな生命体である自分が社会的な基準でこうだ、自分でちょっと残念だ、ということと、大切な存在かどうかは別問題なのではないでしょうか。

私は自分のことを好きかと訊かれると、正直「好きも嫌いもないよ。そんなどうでもいいことを、なんのために考えるの」と思います。

なんなら、社会や俗の基準で考えだしたら、いろいろ好きではないのです。好きでないところなどいっぱいあります。容姿から能力まで、いろんなことが未熟で残念で不満です。でも私は、そんな自分のことを、最高最強天上天下唯我独尊に大切に思い、世話して育てて無償の愛を注ぎたいと思います。

なぜなら、壇珠さんは私のことを最高最強天上天下唯我独尊に大切に思って、世話して育てて無償の愛を注いで、いいことがあったら喜んでくれ、嫌なことがあったら悲しんでくれる人だからです。この観点から私は、「あーで好きこーで嫌い」とかいうことと、「自分を愛し大切にするかどうか」ということとは、まったく関係がないと感じられます。

ところで、「自分を好きになろう」という概念は、最近になって出てきたもののように思います。あなたはこれを聞いて、どう感じますか。もちろんこれを楽しんでいる方もたくさんおられることでしょう。それはとても喜ばしいことです。

けれども、私は「自分を好きになろう」とか「自分のことが好きだから頑張っている」とかいうのを見ると、中にはどうもその人に起こっている感覚を流行に合わせてキャッチーな感じに書き換えているような感じがして、違和感を覚えることがあります。

たとえば私たちが自分の家族を愛し大切にしているという時には、能力や容姿が好みの状態かどうかなんて気にしませんよね。シワが出てきたとか、あまり字が綺麗じゃないからとかいう理由で、「スペックが大したことないから大切にできない」などと言いません。そんな査定を入れませんよね。このように私たちは、すべての特徴が好きでなくても、人を愛し大切にすることはいくらでもできるのです。

私は自分の顔の造形や皮膚のたるみが好みなわけではないし、髪質や体型も同じで、好きなわけではありません。能力も性格も人格的なものも、弱くて不届きで不安定で、決して社会に対して誇ったり、好きだと言えるものではないのです。失敗に失敗に失敗ばかりを重ねます。もっとふくよかになりたかった。もっと丈夫な身体がほしかった。もっと高い能力が欲しかった。欲を言い出せばキリがないのです。ただ、とにかくかけがえがなく、取り替えたくなどなく、自分の子どものように可愛いという感覚です。

それに、自分という人間になって地球にやってきていろんな経験を味わうことができていることがもうどうしようもなく貴重すぎて、自分さんには頭が上がりません。壇珠さんは、極端に言うといわば私という霊が取り憑いている人物ですが、言い方を工夫すれば、貴重な肉体の命を私に任せてくれた人なのですね。

自分とは、私にすべてをなげうってくれた存在です。身体も命の時間も、私にぜんぶ丸々くれた人です。髪が切りたい?いいよ。プロテインを飲んでみたい?いいよ。ジャンクフードが食べたい?いいよ。手が荒れているけど手入れが面倒くさい?しなくていいよ。。生きている間、ずっとずっと、自分にすべてを許してくれている人。だから、どんな容姿でもどんな能力でも、それを洗って撫でて飾って綺麗にしたり、成長の手助けをしたり、喜ばせたりウキウキさせたり、してあげなくちゃと思うのです。大したことがないから大切にしないなんて、そんな対応をしちゃアカン相手だと思うのです。

さらに私たちはとんでもなく低い確率でここに生まれたのだもの、自分の容姿やら能力を”好きかどうか”なんて、考えてもみればどうでもいいことだと思うのです。好みの容姿や能力じゃなくたって、文字通り死ぬほど大事な相手です。

よければあなたもこう思ってみませんか。

いろいろ大満足なんかじゃないし好きなわけでもないけど、でもそこは好きじゃないままでいいわ。いいのいいの!というよりも、そんなことは言ってられないんだわ私。この地球ツアーに超絶やばい確率で当選しちゃって、今実際に現場にいる最中なんだもの。

しかも時間限定なんだし、ツアーの終わり方も終わる日も知らされていないからいつ終わっちゃうかわからないんだから、この肉体スーツがちょっと好きな形じゃないからって、今回当てた超超超超SSSレアな宝くじツアーをあまり大切にできないなんて、盲目すぎるんじゃない?!

だから今はまずはとにかく、地球のいろいろで遊んでみなくちゃね。難易度それなりに高めだけど、時間もどんどんなくなることだし、いいからいろいろやってみよう!!え?ワクワクする事がない?え??好きなことがない?まーた始まったよ”好きかどうか”問題。気にしすぎなくていいんだってば。
どこか遠くに旅行に行ったら、現地の食べ物を食べてみたり、知らん乗り物に乗ってみたり、時間の許す限りできるだけあれこれ試しにやってみるでしょ?好きかどうかわからなくても、多少怖くても多少嫌いかもと思っても、せっかくだからと試してみるでしょ。そんな感じでいいんでない??そうやっていかないと、好きも嫌いもわからないのだし!それより遊んで帰ろう、遊んでからあの世に帰ろう!

と、このように。思ってみるだけで、なんだかちょっと普段と違う体感が感じられますよね。

こうして遊んでみると、自分でいることが面白くなって、ああこの地球に来てよかったな、ここは素晴らしいところだな、この世は嬉しくて大切で貴重なものであふれていたのだな、とわかるのだと思います。するとやがて、他の人も思いっきり満喫してほしいな、と思えてもきます。

だからまずは、思いつきで動いてみましょう。間違いを選択したくない人も、失敗したくない人も、損をしたくない人も。間違って、失敗して、損をして、そうやって遊ぶのがこの世だものね。

大したことがなくていい。あなたはそのままで、奇跡をぶち当てた大した人なのですから。そんなことは少しも問題になどならないのだから、あれこれやって実験して生きていきましょう!この地球で、もっと気楽に。

自分をどこまでも愛してくれる自分という恋人を連れて、遊びましょう。

というわけで今日は、自分が大したことがないから自分を愛せない、という人への、私の心からのメッセージでした。

それではまたね。

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)