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937/1096【質問回答】好きなことを仕事にしているが収入が少ない/子どもへの説教時に大事にすることは?

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で937日。

※この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。

937日目。遊びというか仕事というか、楽しいことで忙しい!猛スピードで動かねばならぬ!人生は遊んでいると終わってしまうのだ、きっと。

わたしはこう見えても真面目に毎日ブログを書き、夫の仕事を手助け(コピーだけだけど)したり、事務仕事をしたり、毎日朝早く起きて夜早く寝て、真面目に生きている。しかしそれを全部遊びだと思う。

プロゴルファー猿は、本名を『猿谷 猿丸(さるたに さるまる)』、通称『猿』と言うらしい。そして彼は自己紹介をする時に「わいは猿や。プロゴルファー猿や!!」と言うのだが、これを参考にしてみると、わたしの活動名『壇珠』からとって通称を『壇』とすると、遊んでばかりいる自分は「わいは壇や。プロ遊バー壇や!!」になるのだろうか。なに『プロ遊バー壇』って。名乗ったら精神状態疑われるわ…

(ちなみにプロゴルファー猿のパターの名は『正宗』、必殺技に『松葉落とし』や『旗つつみ』があるが、自分がそれらを模倣しようにもすべて性技に見えてしまう気がしたので遠慮した…)

はっ!真面目にブログを書こうとしたのに、ブログ内でも遊んでしまう!
ふっ…それもこれも、わいがプロ遊バー壇やからやねん。(やめろ

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今日は珍しく、長文のご質問にお答えしたいと思います。

『家計のために収入を得ること』と、
『好きなことを仕事にするための活動』は別々のことです。

人はまずは生きなくてはならないので、収入がなくても楽しく生きられる人はそれでもいいのですが、収入がないと楽しくない人はまず収入を得なくてはなりません。これは至極当然のことだと思いますよ。

稼げないならやめなくてはならないというよりも、稼いだってやめなくていいとわたしは思います。楽しくお金を稼いで、好きならアクセサリーも作ればいいのです。

わたしがブログを書き始めたとき、もちろんブログでは収入は得られなかったので、夫の仕事を手伝っていました。

家事や子どもの世話は基本的にすべて自分でやっていたので、それに加えて外での力仕事やフォークリフトの運転や内職のような地味な仕事やイタリア語の請求書を扱う仕事を4~5時間。他に、夕方晩御飯を作る前と、夜食べて片付けてからはプログラミングを独学して夫の会社のホームページを作っていました。ブログはそのあと、夜中家族が寝静まったあとの自由時間に書いていたんです。好きなことって、どんなに忙しくてもやってしまうものです。宿題が全部終わってからゲームで遊ぶ子どもの気分でした。

ブログを通して収入を得るまで数年かかりました。今は夫の手伝いはしていませんが、自分の仕事がそのまま家計を支えることにスライドした、という感じです。

わたしは就職して仕事をする能力がないので自宅で奮闘しましたが、夫が元気でもたとえば事故などでいつなんどき死ぬかわからないことを考えると、食べさせてくれる人がいても自立したいので、たとえ家計を支える必要がなかったとしても収入を得るために動いたと思います。

繰り返しになりますが、『収入を得ること』と、『好きなことをする』のは別々のことです。

食べていくことと、趣味を続けることと、どちらを優先しよう?とは考えないのと同じ。学校に行くのと、ゲームをするのと、どちらを取ろう?とは思わないのと同じです。ちゃんと食べながら趣味をやったほうがいいし、学校に行ってきてからゲームをやったほうがいい。

それからもうひとつ。
趣味や好きなことをそのまま仕事にする人って、それをやめろと言われてもやめられない人です。ほとんどが、寝る間も惜しんでやってしまう人。止めても隠れてやります。多くが、特に苦もなく24時間ずっとそのことで頭がいっぱいな人です。仕事時間を考えたら、超ブラック企業です。SNS発信をしている人なんて、ほとんどが起きている間ずっと仕事をしているようなものです。それを仕事だと思っていない人もいますが、仕事とプライベートの境目もなく、やっていることがなんでも仕事につながっていたりします。

そこまで狂っていないかぎり、それを仕事にするのは苦痛かもしれません。それもこれもまずは、別のことで収入を得るということをしてみればわかりますよ。仕事は別にやって、アクセサリー作りを一旦純粋な趣味にしてみる。そうすると「アクセサリー作りを”収入を得るための手段”に引き上げなくてはならない」という圧から解放されて、そこでようやくはじめて、アクセサリー作りが本当に情熱の傾けられることなのかどうかが見えてきます。

これはわたしの想像ですが、質問者さまはアクセサリー作りのこととは関係なく、単に外で働きたくないというのが本音なのではないでしょうか。なので、まずはアクセサリー作りをどうするかということと、外でお仕事をするということを別々のこととして考えてみることをオススメします。

子どもには、こちらが立派だから説教をするのではないですよね。子どもが可愛くて愛しているから、子どもの自立を手伝いたくて、その一心ですることではありませんか。なので偉そうにはならないはずです。

自分ですら自立できていないのに、と思うかもしれませんが、それはどんな親だって多かれ少なかれあることです。完璧な親なんてどこにもいないので、そこで子どものために葛藤していることが親の愛ですよ。

子どもに上から目線で話しをする必要はないと思います。伝えたいことがあるのなら、どうしてそれを伝えたいのか、一生懸命に説明すればよいだけです。例えば、「道路に飛び出すな」と伝えたいとき。「危なくて、怪我でもしたらお母さんが悲しいから、頼むから気をつけてくれないか」とお願いすればいいことです。それを、「道路に出たら危ないからやめろ」と強要すると上から見た説教になる。

そしてこちらの気持ちを伝えたら子どもの気持ちも聴けばいい。どこにも偉そうにする必要がなく、立派だから言えることというわけでもないですよね。

わたしは子どもになにか伝えたいとき、子どものしていることについて「なぜそうしているのか」を聴き、それから自分の伝えたいことを伝えるときには「なぜ自分がそう思ったのか」を説明することを大切にしています。

それから「ママの考えについてどう思う?」と訊いて意見をもらってやり取りをしています。このやり取りをするとき、わたしは説教をしているという感じはしません。わたしたちは対等だと感じます。けれどもやはりわたしはお母さんで、良くも悪くも人生の先輩でもあるので『その分子どもの気持ちを受け止めてあげられる』のだと思っています。

立派な大人が説教をする、という前提を、子どもとの愛あるやり取りの絶好のチャンスという前提に変えてみて。

さて、今日はここまで。
それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)