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1048/1096 断捨離でひらく、野生の勘

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1048日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1048日目。なんと、点線の上が全部消えた状態で先ほどアップしてしまった。おなじことはもう書けないので、今の気分を書いてみます。

ここ数日、非常に大きな変化に見舞われていて、とにかくひどく気が抜けているのです。そのため、もしかしたらマウスの電池を変えるときにカチカチとやってしまったので、そこで消してしまったのかも知れません。

とうとう40日台に突入していますが、もう本当にあっという間で終わってしまう気がします。1週間もしたら。30日目台が目前ですもんね。そしたら10日のセットが三回で終わりです。

この、気が抜けてしまっているのも50日を切った安心感からかも知れません。きっと自分でも実感しきれていないほど緊張してきたのだと思います。三年間毎日なにかをする大変さは、終わったあとにこそ最も実感されるのかも知れません。気が抜けて、人形みたいになっちゃうかなあ…

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昨日からわたしは、やる気がマグマのように湧いて断捨離をしています。今までと感覚が変わって、これまで保存していたものをたくさん手放しましたた。だいぶ、モノがない人になってしまっています。

今回の断捨離をする前ですら、わたしの私物は一人用のクローゼットに半分も埋まらない服と靴、ミニマムな化粧品、バッグ1つ、あとはパソコン類と本がちょっと。それに加え、ヘアアイロンなどの雑貨を入れても、ひとつしかない引き出し家具がガランと空いているのです。これしかありません。しかし今回は、ここからさらに減ってしまいそうです。

以前は必要なものが本当に多かったのです。惜しいと思うものも多く、たくさんのものに思い入れが強かった。でも、自分がある日確実に死ぬということを意識するようになってから、自然とそれが薄らいできてしまいました。死ぬことを考えて今から断捨離をしようとか、ものを減らそうと思っていたわけではないのに。もちろん、突然にではなくて、徐々に変わったので数年かかりました。

今は、今生きていくことに必要なものと、その時々で心から大好きなものと、あとは死ぬまで手元において心を通わせていたいと感じるものだけでいいような気がしています。それも本当に少なくなってしまいました。時々、なにも要らないという気持ちになります。

服も防寒ができればいいし、靴も冬用のブーツとスニーカーとビーチサンダルがあればいいし、あとはパソコンとスマホがあれば十分すぎる気がする。バッグもひとつしかないし、化粧品も小さなポーチに入れても中でそれらが泳いでいるくらいしかない(コンシーラーひとつ、パウダーひとつ、アイシャドウひとつ、アイラインとアイブロウとマスカラ1本ずつ、リップクリームのみ)し、本当にそばに置きたい紙の本が7冊しかないし、裸で寝るからパジャマもいらないし、下着もほとんどつけないからほぼ要らないのです。

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わたしが生まれたとき、この世にわたしのものなどなにもありませんでした。手ぶらで来たのですよね。だから、今持っているものは、ぜんぶ後からこの世界で得たものばかりです。

なんだかこのことに思いを巡らしていると、自分のものというのがどこにもない気がしてきます。普通の社会生活を送る感覚の自分は、これはアタシのだぜとか思っているのですが、でもまた別の層では、手ぶらで来たら、プレゼントをいっぱい得た、というふうに思えます。

ぜんぶもらいものだし、棚ぼただし、この土地のものを分けてもらっただけなので、自分のものかと言われると、どうもしっくりきません。もらいものです、と答えると自然な感じがします。

なんか、伝わるでしょうか…!!今日は、この感じがなんとなく想像できると感じる人がたくさん読んでくださっている気がします。

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と、今日は断捨離だけの話をしたいわけではなくて、断捨離が進むとともに起こったと感じる変化について書いてみたいのです。

なにかというと、断捨離が進むにつれ、カンが冴えるようになった、ということについて。ものを手放すと、なにか新しい仕事や人脈を得たりするということはよく言われていますが、わたしが感じるのはシックスセンスが鋭くなった、ということなのです。

自分なりに感じたことを書いてみると、(ちょっとこじつけみたいに見えるかも知れませんが)断捨離が進んでくると、身軽になるという感覚はもちろんのことですが、この身ひとつで生きている感覚が増します。自分と一緒にいる感じ、と言えばいいのでしょうか…自分には自分がいる、自分はとにかくこの自分さんという人と一緒だ、それだけはいつもそばにある、あとのものは寄っては離れ流れていく。ものがあろうとなかろうと、どこにいようと、誰といようと、自分は自分とだけは一緒にいて、とにかく自分と生きている。

そういう感じが増してきます。まずこれが最初でした。
これは断捨離だけでなく、離婚や移住や秘行でも増した感覚です。自分には、とにかく自分だけはいるので、自分という乗り物に乗った意識体としてこの世界を観察している感覚が強まりました。自分という人になって、地球上に降りてきてそのまま生きているんだ、という感覚になりました。

それが増すごとに、”ピンとくる”ということがものすごく増えてきました。自分と一体になって、この身体に乗って、「わ~この世界はこうなっているんだな~地球人は面白いな~」「地球上に来てみたがとても面白いな~」と思いながら(好奇心や興味の感覚が、幼稚になったような馬鹿になったような感じです)暮らしていると、ピーン!と来たことがわかるようになってきました。

とは言っても、なにかすごいことがわかるわけではありません。
なにか起こる前に、ただそれが頭に浮かぶというだけのことだったり、写真からたくさんの前情報のないことが見えたり、というだけなのですが、これが前は曇っていたのでキャッチできていなかったという感じです。わたしには霊感があると感じることはまったくないから、特別な透視能力や霊視能力などがあるわけでもないのに、です。不思議ですよね!

そこで、もしかすると断捨離は、わたしたちの頭や心をクリアにし、物たちへの執着に使っていたエネルギーを取り戻させてくれ、それによってもともとわたしたち人間がもっている能力を使いやすくしてくれるという効果があるのではないかと思うようになりました。それが、カンが冴えるという形で出るのだと思います。

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わたしたちがどれくらいものを持っているかということも、まさしくわたしたちの状態がそこに現れているのですね。本当に現実は完璧で、ぴったりとそこには過不足のない釣り合いがあり、それは偶然だったりたまたまそうなだけ、ということではないのです。あなたがたくさんのものを持っているのだとしたら、それにはそれとぴったり相応の理由があるということです。

断捨離についての素晴らしいやり方は世にたくさん出回っているので、とても参考になりますよね。ものを大事にする気持ちを無理やりかなぐり捨てないで、ものよりも自分の執着や自分のこだわりをゆりかごに入れて揺するようにして、優しくわかってあげてゆったりと諭してあげる感覚があると、無理な断捨離をせずに済むような気がします。

かといってもちろん、あまりになんでも惰性でいても仕方がないので、また使えそうだから、使わないけどもったいないから、なにかに利用できるだろうから、というような理由で保存しているものについては「あの世には持っていけないし、これまで触らなかったものはもう触らないから、この重さを自分から降ろしてあげよう。そしてそこに新しく舞い込んでくる運勢や能力の発揮のほうが、きっと楽しい未来につながっているよ」と自分を励ましながら、手放してみるとよいのではないかと思います。

そこで自分の野生の勘、ちょっとしたシックスセンス、人間という生き物の能力の一端が開花されると考えるととても楽しいことでもありますね。
ものが減り、身体や心のスッキリ軽くなった感じというのは一種の浄化なので、洗われたことで自分に開くものがあるのを是非楽しみにして、夏の断捨離をしてみてはいかがでしょうか。

今もまた断捨離中で、今回非常に大きな変化を感じているので、それももう少しハッキリとわかれば書いてみますね。

というわけで今日は、断捨離と野生の勘についてのわたしの感覚についてのシェアでございました。どなたかのカンにピーンと来ていますように。

それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)